第四十五話 本丸軍議・それぞれの胸にある山
午後しばらくして、本丸の大広間にはひとつひとつ灯籠の火が入った。
畳が一面に敷き詰められ、その中央に、少しくたびれた毛氈が一枚敷かれている。その前には低い机が置かれ、頭上には織田家の旗帳が掲げられていた。灯の揺らぎに合わせて、獅子の紋が重く浮き沈みする。
柴田勝家、林秀貞、丹羽長秀、森可成、佐久間信盛、佐々成政らが次々と入ってくる。礼を取るたびに、身に着けた具足がかすかな音を立てた。少し後ろには木下藤吉郎と前田利家が並んで座っている。どちらもさほどの年ではないが、それぞれ質の違う鋭さを身にまとっていた。
信長は上座に腰を据え、柳澈涵は少し下がった脇に座る。その手元には、竹中が送ってきた城中簡図が置かれていた。
「本日、諸卿を呼び集めたのは――」
信長は広間をゆっくりと見渡しながら言う。「美濃における竹中殿の奪城と還城の一件、そして還城ののちに届いたこの書状、その内容を知らせるためである。」
そう言って、竹中の書状を広げ、大意を読み上げていく。
最初、大広間はしんと静まり返っていた。やがて、抑えた小声の囁きがあちらこちらで生まれ、すぐにまたそれぞれ自ら押し殺される。
最初に眉をひそめたのは、佐久間信盛だった。
「城を数月も押さえながら、また差し出したと申すか。」
その声は太く、粗かった。「もし、そこまでの胆と腕があるなら、いっそ斎藤を討ち、旗を翻してしまえばよい。これほど騒ぎを起こしながら、龍も斬らず、自らも立たず――何と申すべきか。」
古くから仕える家臣らしい、率直な武人の苛立ちがそのまま言葉になっていた。
柴田勝家は鼻で短く笑った。
「少なくとも、稲葉山城の石垣が飾りではないと分かっただけでも収穫だろう。」
腕を組み、声には砂が擦れるようなざらつきがある。「主君の鼻先でひと暴れし、そのまま何か月も泰然と座っていられたということは、あちらの城の綻びは、よほど大きいということだ。」
「綻びがあるなら、斬り込めばよいではないか。」
佐久間は納得がいかぬと見え、なおも続ける。「正面から城を押さえ、主君を手元に抱えて、こちらと結ぶ。そのくらいのことをしてこその大功というものだ。今のように――取り切れず、返しも早いでは、骨折り損という他あるまい。」
佐々成政は黙って茶をすすり、口を挟まずに頭の中で利害と損得を測っていた。
林秀貞は膝の上の衣の皺をゆっくりと撫で、半ば目を細めたまま口を開く。
「老いぼれの儂としては、むしろ別のことが気にかかりますな。」
そう言って、信長のほうへ視線を向ける。
「美濃には、竹中殿のような家臣がいる。城を奪うだけの胆力があり、また返すだけの度量もある。さて、尾張にはどうか。もし、この国にも同じ心持ちの者がいたとすれば――今日、美濃で起きた怪事は、明日、この足元でも起こり得る。」
耳に心地よい言葉ではない。だが、老臣として口にすべき筋の言であった。
後列に控えていた前田利家はしばらく黙っていたが、とうとう堪えきれずに声を上げた。
「ならばこそ、早いうちに討って出るべきにござる。」
若さゆえの炎が、その声には宿っている。
「竹中殿が稲葉山城を奪えたということは、この先、こちらの軍勢が押し寄せた折、その城門を我らのために開ける日が来ても、おかしくはないということでしょう。彼ひとりが山の中でああいった芝居を打つくらいなら、いっそ尾張の旗を堂々とあの山の上に立てるべきと存じます。」
佐久間以上に荒々しいが、多くの者が胸の内で持て余している焦燥を、確かに言い当ててもいた。
丹羽長秀はずっと黙って話を聞いていたが、ここでようやく口を開いた。
「目先だけを見れば――」と、静かに言う。「数か月城を掌握し、また返したというだけでは、確かに割の良い取引とは言い難い。」
そして柳澈涵のほうへと視線を移す。
「柳殿のお見立てはいかがか。」
一斉に、視線が白髪の青年に集まる。
柳澈涵は、すぐには答えなかった。
竹中の簡図を机の上に広げ、指先でそっといくつかの点を押さえる。城門、穀倉、城下町――。
「皆さま、少し想像してみていただけますか。」
ゆっくりと声を出す。「この数か月の間、美濃の国人、商人、城兵たちは、何を見ていたかを。」
丹羽長秀は小さく頷き、続きを促した。
「稲葉山城は、竹中殿の手にある間も乱れませんでした。」
柳澈涵は言葉を紡ぎ続ける。「軍令は乱れず、年貢の取り立ても大きくは狂わない。長年好き放題していた佞臣が数人引き抜かれただけで、城下町の夜は前より静かになり、日雇いも商人も、『暮らしやすくなった』と感じた。そんな状況のまま、竹中殿は城を龍興にお返ししたのです。」
そこで一度顔を上げ、林秀貞に視線を向ける。
「つまり、竹中殿が最初にやったのは、美濃中にこう告げることでした。」
言葉を区切り、一つひとつはっきりと続ける。
「――『稲葉山城は、斎藤龍興でなくても回る。むしろ、別の手にあるほうが、よほどまともに回る』と。」
大広間にまた沈黙が落ちた。
竹中の胆力を讃える言葉より、はるかに胸騒ぎのする一言だった。
「山の上の者にとっても、山の下に暮らす者にとっても。」
柳澈涵は続ける。「主城は井戸のようなものです。これまでは、『井戸には斎藤の水が湧いている』と、そう信じるしかなかった。今回、竹中殿は、自分の手で一度柄杓を取り上げ、『別の者が水を汲んでも、水は濁らない。むしろ澄む』ということを、彼らに見せた。」
丹羽長秀の目が、徐々に重みを帯びていく。
「となると、この先、誰かが新たに“柄杓を握る手”を名乗り出たとき――」
彼は低く呟く。「この記憶をなぞりながら言葉を投げかければ、彼らの心にすっと染み込んでいく、ということですな。」
「二つ目は、龍興自身の威信に亀裂を入れることです。」
柳澈涵は、別の紙片を卓上に広げる。そこには竹中が記した幾つかの噂話が並んでいた。
――「主君が自家の家臣に、城を奪われることもあるものだ」と嘲る者。
――「城が別の者の手にあった数か月のあいだ、幾分暮らしやすかった」と吐息まじりに語る者。
――そして、心の中でただ一言、「この山には、『他の持ち主候補』もいるのだ」と記憶する者。
「斎藤龍興は竹中を赦し、この一件を“家中の行き違い”に過ぎぬと装うこともできるでしょう。」
柳澈涵は言う。「しかし、稲葉山城の石は覚えている。城中の人心も覚えている。そのひび割れは、容易には埋まりません。」
柴田勝家は、低く喉を鳴らしたが、もはやそれを否定する言葉は出てこなかった。
「三つ目は――」
柳澈涵はふたたび書状を広げる。「我らにとっての“試み”です。」
信長がわずかに横目でこちらを見る。その視線と柳澈涵の目が、ひと瞬だけぶつかった。
「いずれ我が軍が美濃へ兵を進めるとして。」
柳澈涵は続ける。「必ずしも、一足飛びに城門を叩き割る必要はないということです。城内の者たちが、今日の出来事を覚えているかぎり、『別の手に城を預けても乱れはしなかった』という記憶さえ残っていれば、その城門は、数年前ほど固くはない。」
それ以上は語らなかった。
丹羽長秀は長く黙考したのち、静かに口を開く。
「数か月の据え置きと引き換えに、美濃中の心持ちの向きをじわりと変える……それが事実であるなら、確かに損な取引とは言えませんな。」
「前田。」
不意に、信長が呼びかける。
「はっ。」
前田利家ははっとして身を正し、深く頭を垂れた。
「先ほど、『早々に攻め込むべき』と申したな。」
信長は彼を見据える。「その心はよい。だが、戦を仕掛ける前に、何と戦うのかを見定めねばならぬ。山の高さ、城の固さだけを見て飛びかかるのは、勇と呼べよう。それをどこにどう使うかまで計るのが、“勇を用いる”ということだ。」
前田利家は深くうなだれ、耳のあたりまで赤くしながら、深々と一礼する。
信長はそこで視線を戻し、書状の最後の一行を読み上げた。
「『美濃の今日の乱れは、明日、他国にも起こりうる。』」
淡く書かれたその文は、細い針のように、それぞれの胸の奥へと刺さっていった。
林秀貞の皺は、さらに一本刻まれたように深くなった。
「竹中殿のその一言は、美濃への警告であると同時に、我らへの戒めでもあります。」
柳澈涵は声を落とす。「もしこの先、我が方にも同じような主君、同じような佞臣が生まれれば、そのときに“美濃の景色”は、“尾張の景色”ともなりましょう。」
信長は何も言わず、ただ書状を丁寧に折り畳み、しっかりと手元に収めた。
長い沈黙のあと、ようやく口を開く。
「今日から竹中半兵衛は、世間の上ではなお『斎藤家臣』であろう。」
声は静かだが、否応なく従わせる刃がその奥に潜む。「だが、あの山でやってみせたことは、すでに“儂の代わりに一度試した”ものと見なす。」
家臣たちは一斉に、深く頭を垂れて「ははっ」と応えた。




