第四十四話 稲葉山の後・稲葉山城からの信
その年、麦が黄金色になりきるか、まだ青さを残すかという頃、清洲城の上空を流れる匂いが、ひそやかに変わり始めていた。
梅雨はまだ本格的には押し寄せていない。城下の田には、しかしもう薄く湿り気が差し込み、土の匂いに若い葉のほろ苦さが混じっている。
数か月前、竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったという噂は、すでに商人や浪人たちの足取りに紛れて清洲へと入り込んでいた。
酒肆では「美濃で家臣が主君の城を奪った」と、声をひそめて語る者がおり、賭場では「半兵衛がいつまで持ちこたえるか」を肴に、卓を叩いて賭ける者もいた。
本丸のこちら側が、今日になって初めてその話を聞いたわけではない。先だってからいくつも急報が届き、「奪城」「掌城」といった短い文言だけは伝わっていたものの、その経緯まではまだ詳らかではなかった。
辰の刻を少し回った頃、本丸の高い門がふたたびゆっくりと開く。東南の角から一騎の早馬が石畳を蹴って駆け込んできた。馬の汗がたてがみを伝って流れ落ち、蹄が石を打つ音は、せわしなく細かく響く。門番の足軽は咄嗟に手を伸ばしたものの、男の腰に下がる小さな木札に織田家の家紋を認めるなり、慌てて身を引いた。
駆け込んできたのは木下藤吉郎であった。
鞍上で深く息を吸い込むと、ぐっと手綱を締め、その勢いのままほとんど跳ねるように馬を飛び降りる。そのまま本丸の廊下を小走りに駆け抜けた。裾が廊下の埃を払うように揺れ、侍たちの脇を風のようにすり抜けていく。
本丸奥の小さな書院では、すでに織田信長が待っていた。
畳は隅々まできれいに敷き詰められ、片隅には美濃の地図が立ててある。墨線で山河が描き出され、その中でも稲葉山城の位置だけが、ほかより一段濃く塗り込められていた。白髪の若者――柳澈涵は、その地図の前に座り、一方の膝に手を置き、もう一方の手で筆を持ち、山中の小さな道の傍らに、さりげない一点を付け加えているところだった。
「上様、木下藤吉郎、お目通りにござります。」
外からの声が終わるより早く、藤吉郎はすでに畳の縁まで匍匐し、両の手で油紙に包まれたひと包みを高々と差し上げていた。額の汗が鬢を伝って落ちていくが、拭う暇もない。ただ声をぐっと押し殺し、
「美濃より持ち帰りました。まずは上様と柳殿に、ご覧いただきたく。」
と言葉を添える。
信長は立ち上がり、肩に掛けた獅子紋の羽織をふわりと揺らして数歩進み、自らその油紙包みを受け取った。
包みは厚くはない。紙を開くとき、かすかな音がして、中から二つのものが現れた。一通の書状と、少し粗めの紙に巻かれた一巻き。
手紙の封には長々とした文句はなく、簡潔な数文字が記されているだけだった。筆致は無駄がなく、払いの収め方に竹中らしい息遣いがある。信長はその文字を一瞥し、わずかに目を輝かせて封を切った。
柳澈涵は近寄らず、ただ静かに信長の表情の変化を見守る。
書状はきわめて簡素だった。
大意は、数行にすぎない。
――約したとおり、稲葉山城を奪い、一時その政を掌握したこと。
――最も傲慢に振る舞っていた佞臣数名を切り捨て、城中の軍政がひとまず秩序を取り戻したこと。
――斎藤龍興は支城へと退き、その後赦免を受けて、ふたたび稲葉山城に戻ったこと。
――竹中家はすでに自領へ退き、かねての取り決めどおり、頃合いを見て近江へ移るべく用意していること。
そして最後の行に、淡く一文が添えられていた。
「城は一時、いずれの手にもありうべし。されど山は、誰が押さえ得るかだけは忘れぬ。」
信長は読み終えると、口の端をわずかに持ち上げ、その書状を隣へ差し出した。
「柳。」
柳澈涵はその紙を受け取り、始めから終わりへと視線を流し、最後の「城は一時……」の一文のところで目を止める。筆意はひどく力んでいるわけではない。だが、あらかじめ描かれていた棋譜の上に、肝心な一手だけを静かに継ぎ足したような妙があった。
藤吉郎は終始、伏せたままの姿勢で、目だけわずかに動かし、二人の様子を伺っていた。この手紙が単なる「奪城報告」ではなく、「いかに奪い、いかに返し、その後始末をどう付けたか」を込みで語るものであると悟り、肩の力をほんの少し抜く。
柳澈涵は手紙を置き、次に紙巻きを取った。
それは竹中が自ら描いた、簡略な城内図と注記であった。
稲葉山城の城門、矢倉、虎口、穀倉の所在。各所の兵が交代する刻限。そうしたものが、きわめて節度ある筆遣いで記されている。文のどこにも自慢めいた気配はなく、あるのは冷静な観察と判断だけだ。どの路地の兵が博打好きか、どの暗がりが人を隠すのに向いているか、どの山道が雨のあと崩れやすいか。
柳澈涵は、紙上にびっしりと並んだ細かな文字を眺めながら、指先で紙の縁を軽く撫でた。
「竹中殿の、この数か月が、無駄ではなかった証ですね。」と、低く呟く。
信長は短く「うむ」と答え、その簡図を取り戻すと、壁に掛けられた美濃の地図の前へと歩み出た。
「数か月城を押さえ、佞臣を切り、さてまた城を返す。」
彼は半ば顔をこちらへ向け、唇の端に笑みを浮かべる。「世間では、やつを狂人呼ばわりする者も多い。柳、お前の目にはどう映る。」
柳澈涵は顔を上げる。白髪が灯の光を受けて、淡く光った。
「城を奪ったまま返さずにおれば、ただの逆臣が一人増えるだけです。」
ゆっくりと言葉を選ぶ。「きれいに奪い、なおかつ体面よく返し、主君自身に取り返さざるを得ない形を作り、城中の民に『別の秩序』を味わわせてから返す……それこそが、真の大仕事でしょう。」
信長は、ふっと笑みを深めた。
「なるほど、美濃のあの山の“心”は、お前と竹中の二人に、いちど握られて捏ねられたというわけか。」
彼は振り返り、いまだ畳に伏している藤吉郎に視線を向ける。声色は一瞬にして、清洲城主としての鋭さを帯びた。
「よく走ってきた。まずは着替えて汗を流せ。このあと大広間にて、見てきたことを皆の前で、改めて語れ。」
「はっ。」
藤吉郎は畳に額を打ちつけるように答え、身を引いた。
書院にはしばし静寂が戻り、窓の外では城壁の影だけが、じわりと動いている。
信長は竹中の手紙をあらためて一瞥し、きちんと折り畳んで脇へ置いた。
「稲葉山城、このたびの一件――無駄な騒ぎではなかったな。」
低く、独り言のように言う。
柳澈涵は答えず、美濃の地図に目を移すと、竹中が記したいくつかの要所へ、そっと筆先を触れさせた。
墨の跡は濃くもない。だがその一点一点が、紙の上に、これから数年にわたる戦路を押し込んでいくように思われた。




