第四十三話 還城の礼・明人、傾きかけた屋を去る
城を返すと決めたその日、稲葉山の上には重い雲が垂れ込めていた。分厚い覆いが山を丸ごと包んでいるようだった。
斎藤龍興は、鵜飼城から再び稲葉山に向かって上ってくる。かつて何度も通った石段の感触は、骨身に染みついているはずなのに、なぜか一歩一歩が心許ない。
城門は大きく開かれ、門楼には再び斎藤家の紋が掲げられていた。竹中の旗はすでに降ろされ、きちんと畳まれてどこかに収められている。
門内に竹中半兵衛が直垂姿で立ち、深く礼を取った。
「龍興様。稲葉山城、少しの損もなく、兵糧も欠けず、軍紀も立て直してお返しいたします。ただ──」
顔を上げると、その目は静かだった。
「ただ、この三月ほどの間に、城下の民は、以前よりは幾分か、落ち着いて暮らせるようになったように見えました。」
言葉は小さく、礼節も守っている。だがその一言は、針のように柔らかなところを刺し貫いた。
龍興の顔色はさっと青ざめる。言い返そうとして口を開くが、喉の奥で何かに塞がれたように声が出ない。
本来なら、「逆臣」「弑君」と罵り、一紙の命令で竹中一族を根絶やしにせねばならぬところだ。だが自ら城を棄てて逃げた夜の醜態も、美濃の諸将や城下の者たちの視線も、この数ヶ月で彼の胸に焼き付いていた。
ただ、乱暴に袖を払うことしかできない。
「この度の辱め──本家、決して忘れぬぞ。」
「御心に刻んでいただければ、それで十分。」
竹中半兵衛は、再び深々と頭を下げた。その作法には一片の隙もない。
踵を返して石段を降りながら、半兵衛の目尻は、ちらりと天守の方をかすめる。
三月あまり自ら掌に収めていたその高みは、再び昏主の頭上に戻った。だが、城を包む風だけはすでに別物だった。
その風は、城外から吹き上げてくる。井口町を渡り、庄田を渡り、西美濃三人衆の屋根をかすめ、いずれ尾張にも届くだろう。
稲葉山城を去るにあたり、半兵衛は金銀も器物も持たなかった。持ち出したのは、数巻の書と一枚の地図、そして何度も読み返して端が毛羽立った数通の手紙だけ。
まず菩提山城に戻り、家中のことを整理し、その城を従弟の竹中重利に託す。それから、そっと旅立つ。行き先は近江北部──浅井家の領内である。
山路は狭く、霧が立ち込めている。
ある尾根に差しかかったところで、半兵衛は馬の手綱を引き、振り返って遠くの稲葉山を一目見た。
山頂にかかる雲は鉛色に重なり合い、いつ崩れ落ちてもおかしくない濁流のように見える。
袖から一片の、小さく折り畳まれた紙を取り出す。それは柳澄斎が別の手紙の隙間に、さりげなく書き添えていた数行だった。
「傾きかけた屋は、梁すでに朽つ。
その下にとどまり支え続けるより、いったん外へ出て、新しき屋の柱が立つ時を待ち、改めて主を選ぶがよし。
竹中殿、もし明たらんと欲せば、古き梁と共に折れることなかれ。」
読み終え、半兵衛は馬上で小さく笑った。
「柳殿は、美濃の卦だけでなく、我が身の卦まで読んでおられたか。」
尾張の方角から吹く山風には、うっすらと鉄と火の匂いがまじっていた。
清洲城と小牧山の気配。織田上様の旗の匂い。そして、澄斎の灯の下で動く白い筆墨の匂い。
風は尾根づたいに走り、稲葉山城の上空に見えない筋を描き直していく。
その線の形が変わったことを、人々がはっきりと悟るのは──もう少し先のことになる。




