表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/236

第四十三話 還城の礼・明人、傾きかけた屋を去る

城を返すと決めたその日、稲葉山の上には重い雲が垂れ込めていた。分厚い覆いが山を丸ごと包んでいるようだった。


斎藤龍興は、鵜飼城から再び稲葉山に向かって上ってくる。かつて何度も通った石段の感触は、骨身に染みついているはずなのに、なぜか一歩一歩が心許ない。


城門は大きく開かれ、門楼には再び斎藤家の紋が掲げられていた。竹中の旗はすでに降ろされ、きちんと畳まれてどこかに収められている。


門内に竹中半兵衛が直垂姿で立ち、深く礼を取った。


「龍興様。稲葉山城、少しの損もなく、兵糧も欠けず、軍紀も立て直してお返しいたします。ただ──」


顔を上げると、その目は静かだった。


「ただ、この三月ほどの間に、城下の民は、以前よりは幾分か、落ち着いて暮らせるようになったように見えました。」


言葉は小さく、礼節も守っている。だがその一言は、針のように柔らかなところを刺し貫いた。


龍興の顔色はさっと青ざめる。言い返そうとして口を開くが、喉の奥で何かに塞がれたように声が出ない。


本来なら、「逆臣」「弑君」と罵り、一紙の命令で竹中一族を根絶やしにせねばならぬところだ。だが自ら城を棄てて逃げた夜の醜態も、美濃の諸将や城下の者たちの視線も、この数ヶ月で彼の胸に焼き付いていた。


ただ、乱暴に袖を払うことしかできない。


「この度の辱め──本家、決して忘れぬぞ。」


「御心に刻んでいただければ、それで十分。」


竹中半兵衛は、再び深々と頭を下げた。その作法には一片の隙もない。


踵を返して石段を降りながら、半兵衛の目尻は、ちらりと天守の方をかすめる。


三月あまり自ら掌に収めていたその高みは、再び昏主の頭上に戻った。だが、城を包む風だけはすでに別物だった。


その風は、城外から吹き上げてくる。井口町を渡り、庄田を渡り、西美濃三人衆の屋根をかすめ、いずれ尾張にも届くだろう。


稲葉山城を去るにあたり、半兵衛は金銀も器物も持たなかった。持ち出したのは、数巻の書と一枚の地図、そして何度も読み返して端が毛羽立った数通の手紙だけ。


まず菩提山城に戻り、家中のことを整理し、その城を従弟の竹中重利に託す。それから、そっと旅立つ。行き先は近江北部──浅井家の領内である。


山路は狭く、霧が立ち込めている。


ある尾根に差しかかったところで、半兵衛は馬の手綱を引き、振り返って遠くの稲葉山を一目見た。


山頂にかかる雲は鉛色に重なり合い、いつ崩れ落ちてもおかしくない濁流のように見える。


袖から一片の、小さく折り畳まれた紙を取り出す。それは柳澄斎が別の手紙の隙間に、さりげなく書き添えていた数行だった。


「傾きかけた屋は、梁すでに朽つ。


その下にとどまり支え続けるより、いったん外へ出て、新しき屋の柱が立つ時を待ち、改めて主を選ぶがよし。


竹中殿、もし明たらんと欲せば、古き梁と共に折れることなかれ。」


読み終え、半兵衛は馬上で小さく笑った。


「柳殿は、美濃の卦だけでなく、我が身の卦まで読んでおられたか。」


尾張の方角から吹く山風には、うっすらと鉄と火の匂いがまじっていた。


清洲城と小牧山の気配。織田上様の旗の匂い。そして、澄斎の灯の下で動く白い筆墨の匂い。


風は尾根づたいに走り、稲葉山城の上空に見えない筋を描き直していく。


その線の形が変わったことを、人々がはっきりと悟るのは──もう少し先のことになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ