第四十二話 三ヶ月の城・竹中治下の明と暗
夜が明ける頃には、稲葉山城を揺らしていた騒ぎもようやく収まった。
再び城門が開く。今度、その楼上には竹中家の旗が掲げられている。
山腹から吹き上げる風は、まだ薄い血の匂いを運んでくるが、新たに掛け替えられた布を揺らしながら、それを石垣のあいだに散らしていった。
城下・井口町の人々は、つま先立ちで遠くをうかがい、旗の色だけを確かめては、声を潜める。
「触れを出せ。」
門楼の上に立つ竹中半兵衛の鎧は、すでに血を拭き取られていた。その表面には、うっすらとした光だけが残っている。
「本日より、城中の武士、町家に勝手に踏み込むことを禁ず。田地の横取りを禁ず。これに背く者は、軍中にて斬る。」
「はっ!」
「諸所の兵糧蔵の鍵は、本日中にすべて天守へ移す。昨夜、龍興に従い逃亡した者は一人残らず名前を記し、勝手に戻るを許さぬ。」
次々と飛び出す命令は、乱れきった城内に打ち込まれる楔のようだった。
「竹中様は自ら城主になられるおつもりか。」
人知れずささやく声もあった。
しかし近くで見ていた者は知っている。
最後の触れを終えた後、竹中半兵衛はまだ掲げられている斎藤家の旗印に向かって、きちんと一礼したことを。
それはもはや、主君に対する臣下の礼ではなかった。むしろ、一つの頁をめくろうとしている歴史そのものに、筆を置く者として小さな句点を打ったような礼だった。
──天守の一間で、半兵衛は一人きりだった。
目の前に広がっているのは、稲葉山周辺の地図だけではない。城下からかき集めさせた兵糧帳、租税の記録、町奉行の裁許状。
本来なら、とっくに龍興の机の上を行き来しているはずの紙束が、今ようやく初めてまともな目で読み返されている。
半兵衛は柳澄斎の手紙をもう一度取り出し、その最後の一節に目を落とした。
「城奪りの後は、心を三度おさむべし。
一に兵の心を収めること。掠奪を禁じ、列を整え、持つ刃に『守る』という役を教うること。
二に民の心を収めること。徭を軽くし、税を正し、刃なき者にも『この城はまだ住める』と思わせること。
三に諸侯の心を収めること。君の弱きを示し、子の明らかなるを示し、遠くから見ている者に『誰がこの国を持ちうるか』を悟らせること。」
指先でその文をとん、と軽く叩き、小さな笑みを漏らす。
「柳殿。道筋は、もうすべて書いておいてくれたわけだな。」
窓辺へ歩み寄る。
城下の屋根は朝日に白く霞み、井口町の通りには、ようやく桶を担いだ者が現れ始めている。まだ乾ききらない土を、子どもたちが裸足で跳ね回る。
昨夜の恐怖は、彼らの顔にはほとんど残っていなかった──庶民にとって旗の模様の変化よりは、今日も米が炊けるかどうかの方が、はるかに重い。
「まずは、飯椀がいきなりひっくり返らぬように、だ。」
半兵衛は小さくつぶやいた。
それからの三ヶ月あまりで、稲葉山城の空気は目に見えて変わっていった。
武士たちが町家に踏み込む姿は減り、城下の酒場は相変わらず賑やかだが、刀を抜いて騒ぎ立てる連中の影は薄れる。最も横暴だった佞臣数名は、公然と取り調べにかけられ、その罪状が一条ずつ読み上げられた。外廊の陰からのぞき見していた小者や町人たちは、互いに目を見交わした。
「今まで誰が、あいつらを人前で責めたことがあった。」
「龍興様の頃は、あいつらと一緒に酒を飲むだけだった。」
夜、行灯の下で誰かがぽつりと言う。
「当主が竹中様だったら、美濃もここまで落ち込まなかったんだろうな。」
──尾張にも、その風の噂は清洲や澄斎に立ち寄っていく。
「井口町の米の値が落ち着いてきたそうです。」
「押し租をしていた庄屋が城に引き立てられたとか。」
「本当の『国主』らしい顔は、御座には座っておらぬ、という話が出ているようで。」
木下藤吉郎は、一つひとつ報告するたびに、目を炭火のように輝かせていた。
柳澄斎はそれらを新しい帳面に書き付け、筆を留めると信長公へ目を向けた。
「上様。竹中殿は、自分にできることを、もうやり尽くしました。」
信長公は柱に寄りかかり、長く息を吐いた。
「ふむ。」
「今、こちらが兵を起こせば、人の口はみな『尾張、混乱に乗じて城を奪う』と言うでしょう。」
澄斎は続ける。
「この芝居を最後までやらせておけば、龍興殿の面目はこれ以上ないほど損なわれる。そのぶん、美濃の諸将は忘れられなくなるのです──本当に自分たちの命を支えうる手はどこにあるのかを。」
信長公は目を細めた。
「あの竹中殿に、まずは一発、代わりに鉄拳をくれてこいと言ったのは、やはりおまえの思いつきか。」
澄斎は口元だけで笑う。
「ただ一言、『人は明白なる者になれ。糊塗する者になるな』と申しただけです。さて、その明白さを胸に抱いた者が、のちの世に誰のための道を開くか──それは本人たちが選ぶこと。」
信長公はしばし黙し、やがて声を上げて笑った。
「よかろう。ならば待つとしよう。やつらが自分の目で見極めるのを。」




