第四十一話 稲葉山の夜変・少主、城を棄てて走る
永禄七年二月。日が中天に近づく頃。
稲葉山の雪はほとんど消え、山道はぬかるんでいる。それでも、小さな一行がゆっくりと山を登っていくのを妨げるほどではなかった。
先頭に立つのは、一人の若い武士である。髪をきちんと束ね、顔立ちは整い、腰にはありふれた打刀を一本佩いているだけ。後ろには十数名が続き、長持ちを担ぐ者、包みを背負う者がおり、見たところは病人見舞いにやって来た郷里の親族にしか見えない。
門を守る足軽は、その姿を遠目に認めると、慌てて腰を折った。
「竹中半兵衛様。本日も弟君のご見舞いに?」
「久作の病は、良くなったかと思えば、すぐぶり返す。」
半兵衛は手を拱き、穏やかに頷く。
「門をお開けいただきたい。」
このところ、彼は弟の見舞いを口実に何度も城を出入りしており、門番たちにとっては見慣れた顔になっていた。龍興の手に移った稲葉山城は日を追うごとに弛緩し、顔ぶれさえ確かなら、それ以上詮索しなくなっている。
城門がきしりと音を立てて一筋開き、山風がその隙間から吹き込む。
ボロボロになった旗が二、三枚、力なく翻った。
誰も気づかない。登る途中で、長持ちが一度だけ肩を替えられ、そのとき、あまりにも小さな音がしたことに。あれは封じていたものがわずかに緩んだ音──そう気づく者は、今はまだいない。
長持ちが内城に運び込まれ、曲がりくねった石段を二つ三つ折れ曲がり、竹中久作の部屋の前で止まる。戸が閉まり、灯りが遮られると、中で「贈り物」は一つひとつ本来の姿を現した。磨き上げられた刀、短槍、弓弩、縄。
久作は床から身を起こした。元は青白かった顔に、興奮が差している。
「兄上。ついに、この日が。」
「城中で根を張ってくれたのは、おまえだ。」
半兵衛は弟の肩に軽く手を置く。
「今日は、その結び目を固めるだけ。」
自ら佩刀の緒を締め直し、鞘の上を指でひとつ叩く。
「聞け。」
短い一声が、部屋の空気をぐっと引き締めた。
長持ちの陰から心腹の者たちが十数名、次々と姿を現す。灯りの中で刃がちらりと光る。
最初の標的は、夜の巡邏を統べる小さな詰所だった。龍興の寵臣である斎藤飛騨守は、半ば横たわるようにしてまどろんでいたが、瞼を開ききる前に、短刀の切っ先が喉元に冷たく触れた。
血飛沫の音は驚くほど小さかった。厚い畳に吸い込まれてしまったかのように。
続いて、鍵を預かる番所、兵糧蔵の前にある詰所、警鐘を鳴らせる鼓楼の下の小屋へと、人影が音もなく走る。
竹中方の者たちは、すでに何ヶ月も前から、これらの場所に少しずつ人を潜り込ませていた。今夜は、その手に握らせていた縄を、一気に引き締めただけだ。
城のどこかで物音を聞きつけた者が、声を上げかける。その瞬間、廊の曲がり角から、別の声が響いた。
「竹中の兵が反したぞ! 御身をお守りしろ!」
わざと調子を上ずらせ、心底怯えた者のように叫ぶ声。
それは、ずっと前から用意していた叫びだった。城外に届かせるためではない。龍興と、その周囲で安逸に慣れきった近侍たちに聞かせるために。
恐怖という火は、いつも一番柔らかな心から燃え上がる。
──本丸の奥で、稲葉山城主・斎藤龍興は悪夢から跳ね起きた。
酒の酔いはまだ抜けきらず、頭は割れるように痛い。寝所を飛び出すと、廊には火が揺れ、近侍たちが半ば転がるように駆け寄ってくる。
「龍興様! 竹中の兵が反乱を起こしました! 城が攻められております!」
「な、何人だ!」
「わかりませぬ! 城門の方は叫び声で何も聞こえず──!」
真の合戦を経験したことのないこの若き主にとって、「反乱」「攻城」という二つの言葉は、それだけで思考を吹き飛ばす威力があった。彼の頭に残ったのは、ただ一つ。
──逃げねば。
「裏山からだ! 裏山道を使え! まずは鵜飼城へ!」
竹中半兵衛を宴席で何度見下してきたのかも、もはや思い出す暇はない。今はただ、その名が牙を生やし、自分の背にかぶりつこうとしているように感じるだけだった。
近侍たちは右往左往しながら古びた鎧を引っぱり出し、まともに紐も結べぬまま龍興に着せかけると、背面の小門へと押し出した。
稲葉山の夜は暗い。星明かりだけが山稜の輪郭を淡く浮かび上がらせる。龍興は少数の親兵を連れて、獣道同然の裏道を泥に足を取られながら下りていく。足場が悪く、何度も滑り、尻もちをつく。
ふと振り返れば、城中の火はどんどん勢いを増している。その度に、胸の底に渦巻く恐怖に、誰かがうちわで風を送っているかのようだった。
「竹中の兵……どこから湧いて出た……。」
歯を噛み締めつつ吐き捨てる。足は止まらない。
前方に、ほのかな光が見え始める。鵜飼城へと通じる道筋だ。あの城は決して大きくはないが、一時の避難所にはなる。その先には、祐向山の支城群も控えている。
彼は知らない。
この逃げ惑う背中を、すでに何人もの目が、暗がりの中から遠く見ていたことを。
その背は、やがて茶席や酒席でのひそひそ話のたびに思い起こされ、何度も何度も語られることになる。




