第三十九話 一日城の前夜・清洲書間の硬い骨
永禄七年(一五六四年)正月も押し詰まったころ、清洲城本丸の瓦の端には、まだ薄い霜が張りついていた。
夜はまだ明けきらず、西町の方角からようやく炊煙が立ちのぼり始めた頃合い。本丸の奥、さほど広くもない一間の書間には、すでに灯がともっている。
織田信長公は獅子紋の羽織を肩にかけ、半ば壁にもたれるようにして座っていた。眼前の卓上には、新しく描かせた美濃国図が広げられている。紙の上の山河は龍蛇のごとくうねり、その灰墨の線のあいだで稲葉山だけが、喉に刺さった骨のように、ひときわ突き出ていた。
柳澄斎はその脇に端座し、白い髪を束ね、細い狼毫を指にはさんで、地図の一隅に小さな字を補っている。傍らには数冊の薄い帳面が積まれていた──ここ数ヶ月、美濃各地からひそかに流れてきた兵糧・年貢・市税の出納帳を写し取ったものだ。
「西美濃の庄屋どもの租の上げ方が、また二割遅れております。」
澄斎は静かに言い、筆を止めると、「西美濃」と書かれたあたりに赤い墨で小さな円をひとつ描き足した。
「遅れているのは、誰の手のところだ。」
信長公が目を細める。
「心の折れかけた代官どもの手元でしょう。」
澄斎は赤墨を拭い、顔を上げた。
「本来なら、これらの帳面は龍興殿の御座前にあるべきもの。それがいまは龍興殿を飛び越え、先に尾張へ写しが回ってくる。」
信長公は小さく舌打ちした。
「国一つ、ろくに見ておれぬか。」
卓の隅には、木下藤吉郎がきちんと正座している。背筋をぴんと伸ばし、炭火で温まった冬着の下で、背中にはうっすら汗がにじんでいた。
去年の晩秋から、彼は柳澄斎の供として何度も稲葉山の中腹にある小寺の茶室を訪れ、竹中半兵衛と初めて密談を交わした。それ以来の数ヶ月で、清洲、小牧山、澄斎、そして菩提山城のあいだを、まるで縫い針のように行き来している。美濃と尾張を結ぶ目に見えぬ道は、すでに彼の足で踏み固められていた。
「竹中殿からの新しい返書、昨夜ようやく届きました。」
藤吉郎が低い声で報告する。
「いつもの草鞋売りに託されて。」
「うむ。」
澄斎は頷くと、書案の隅から一本の竹筒を取り上げた。見た目は田舎者が茶や塩を入れて運びそうな素朴な筒だが、封には細い麻紐で、ひどく手の込んだ結びが施されている──これがこの数ヶ月、互いの信として用いてきた暗号だった。
結び目を一つひねると、紐はするりとほどけ、竹片が軽い音を立てる。
巻を広げると、竹中重治の筆はいつものように峻厳で抑制が効いているが、この一通には、これまで以上の押し殺した鋭さが滲んでいた。
「龍興、近ごろ宴楽いよいよ甚だしく、昼夜酒色に耽り、政、御座を出ず。
国境日々に削れ、兵糧日に空しく、諫むれど聞かず。
去秋、柳殿と寺中一局の語り、いまだ胸中を離れず。
『城は器なり。器裂けんとする時は、まずその裂け目を世に示すべし。』
この一句、今年こそ応ずるべき時と見ゆ。」
信長公は手を伸ばして巻を受け取り、初めから終わりまで目を通すと、唇の端にうっすらと笑みを浮かべた。
「ようやく、この手を本当に打つ気になったな。」
澄斎の視線は、なおも地図の上をなぞっていた。
「『打つ気になった』だけではございません。」
「このまま耐え続ければ、美濃は本当に他人の国になると悟ったのでしょう。」
彼は竹中の返書を机上に戻し、指先で「稲葉山城」と記された小さな一角を軽く叩いた。
「上様。去年の晩秋、稲葉山の中腹のあの小寺の茶室で、我々は実のところ、この一手をもう盤上に置いておりました──ただ、まだ時が熟していなかっただけです。」
信長公が横目で彼を見る。
「その時すでに、『城を奪って、また返す』話まで出していたのか。」
「道筋を卓上に置いて見せただけです。」
澄斎は淡々と言う。
「歩むかどうかは、竹中殿自身の選びです。礼節ただしい家老として終わる道もあった。そのままなら、我々もこれ以上口を出す必要はなかったでしょう。今、自らその道を踏みしめてきたのです──あとはただ、『いつ』と定めてやる役が必要なだけ。」
藤吉郎は黙って聞きながら、胸の内で小さな太鼓が鳴っているように感じていた。
信長公は巻をぱたりと閉じ、手の甲で軽く弾いた。
「おまえの目から見て、今はどうだ。」
澄斎は兵糧帳や税帳を卓の中央へ寄せ集めた。ばらばらだった骨を、一つの脊骨に組み直すかのように。
「帳は乱れ、軍は弛み、西美濃三人衆はそれぞれ胸に別の算盤を抱え、城下には怨嗟の声が満ちています。」
静かな顔で視線を上げる。
「器の裂け目はすでに深い。水がこぼれ出るのも、時間の問題です。あと一年引き延ばせば、乱れは四方へ走り、誰の手にも負えなくなる。」
「今、手をつけるのが──ちょうどよい。」
信長公はしばし黙し、やがて小さく笑った。その笑いは声高ではないが、鞘の中で刃と刃とが軽く触れ合った時のような硬い音を含んでいた。
「おまえが『よい』と言うなら、竹中殿には最後までこの手を打たせてやろう。」
そして顔を藤吉郎へ向ける。
「藤吉郎。」
「はっ、ここに!」
「この数ヶ月、おまえの足はよく走った。美濃への道は、今や誰よりおまえの足が知っておる。」
その眼差しは鋭く、しかしどこか愉快そうでもあった。
「木下藤吉郎。」
澄斎が言葉を継ぐ。
「稲葉山の小寺の茶室から始まって、おまえは尾張と美濃を行き来する密使になった。」
新たな竹筒が一つ、藤吉郎の前に滑らせて置かれる。
「この一通で、竹中殿に『どうやって城を奪うか』を教えるつもりはありません。その道は彼が誰よりもよく知っている。」
「ただ一つだけ伝える。──城を奪ったあと、己の影に足を取られぬようにと。」
藤吉郎は両手で竹筒を受け取り、額を畳に押しつけた。
「柳殿にも、竹中殿にも、安心していただきとうございます。この二本の足、まだまだ走れます。」
信長公はその様子を見つめ、声を落として言う。
「肝に銘じろ──今はまだ、尾張の旗を稲葉山の麓に翻すわけにはいかぬ。」
「はっ。」
「それからもう一つ。」
澄斎が付け加える。
「今回竹中殿が表向きに掲げるのは『城を奪って主を諫める』理屈だ。しかし、その底に流れているのは、美濃という国の息を一度整え直そうという意志です。生き残る者が一人でも多ければ、多いほど──将来、上様の旗を見て意味を悟る者もまた増える。」
藤吉郎は深く息を吸い込んだ。
「承知しました。」
清洲城の外では、朝風が本丸の屋根を渡り、霜の花を静かに溶かしていた。融け落ちた冷たい滴が瓦の棟を伝い、ぽたりぽたりと流れ落ちる。
この冬の終わりに、藤吉郎の足は再び尾張から美濃へと向かうだろう。一通一通の薄い紙が、一つの城を、いや一国をも動かす梃子へと変わっていく、その役目を担って。




