第三十五話 澄斎の歳暮・童の手に落ちる木剣
年の暮れも押し詰まり、清洲城下の町は、ふだんにも増して賑やかになる。
寒風の中で魚売りが声を張り上げ、布を売る者は色鮮やかな反物を高く吊るし上げる。子どもたちは雪玉を追いかけて走り回り、泥水に転げても気にも留めない。
城西に近い一本の横町。その一角にある澄斎の門前にも、いつもより多くの足跡が刻まれていた。
雪はきれいに片側へと掃き寄せられ、その両脇には新しい竹箒が立てかけられている。門の上には稲穂と紙垂を束ねた小さな飾りが吊るされており、ささやかながら新年を迎える装いを見せていた。
ここで年を越すのも、もう二度目である。
庭の中も、忙しさに満ちていた。
阿新は袖をたくし上げ、竈の前で鍋の汁をかき回している。立ちのぼる湯気が凍えた鼻先をあぶり、赤くなった鼻がむずむずと痒くなる。阿久は、珍しく手に入った魚の身を丁寧に切っていた。できるだけ薄く、皆の碗に一片ずつ行き渡るように。
弥助は薪を抱えて、庭の端から端へ小走りで往復している。あまり急ぎすぎて、雪の縁で足を滑らせかけたところを、阿新に後ろ襟を掴まれて引き止められた。
「もっと落ち着いて動け。」
阿新はつい叱りつける。
「怪我でもしたらどうする。年の暮れだってのに、主君の手伝いができなくなるぞ。」
弥助は舌を出す。
「わかってるよ、父ちゃん。」
廊下では、佐吉が一枚の紙を片手に、ぶつぶつと唱えている。
「米二石、味噌二桶、干し魚若干……阿新、この数日分の品は、全部控えたか。」
「書いた書いた。」
阿新は灶の前から声を返す。
「佐吉殿、この半年で字がずいぶん上手くなりましたよ。官の帳簿みたいだって、みんな言ってます。」
佐吉はうしろ頭を掻き、少し照れくさそうに笑った。
「主君に尻を叩かれて、書いているだけさ。」
彼は庭の奥の主屋を見やる。
「あれもこれも、帳付けるなら、一筆残しておけと。そうしないと、いつか頭が働かなくなったとき、どこに何を使ったのか分からなくなると。」
「そりゃあ、理にかなっている。」
廊の角から、聞き慣れた声がした。
柳澄斎が、室内から姿を現した。素色の羽織を肩にかけ、髪は簡素に後ろでまとめてある。
「主君。」
皆、手を止めて頭を下げる。
「仕事を続けなさい。」
澄斎は軽く手を振る。「年の暮れは、一日くらい余計に忙しいものだ。」
彼は廊の小机の前に歩み寄る。佐吉が、持っていた紙を恭しく差し出した。
「この数日の出入りでございます。主君に教わった通りの書き方にしてみました。」
紙に並ぶ文字は、すでにだいぶ落ち着きを帯びている。行はそろい、欄も整い、傍らには入金、出金、その用途が細かく書き添えてある。薬種にあたる項目には、別の印が付され、自分なりの仕分けが生まれつつあるのが見て取れる。
「よくなった。」
澄斎は読み終えると、紙を折りたたみ、机の上に置いた。
「字に骨が通れば、帳にも根が生える。そうなれば、頭の回りもおのずと冴えてくる。」
佐吉は照れ隠しに頭をかく。
「主君に借りた医書や帳簿と、日々にらめっこしているおかげで、どうにか字を川に流さずに済んでおります。」
「医書の方は、どうだ。」
「経絡と穴の名前なら、おおよそ覚えました。」佐吉は真面目な顔つきで答える。「先ごろ隣町の老人が冷え込んで息が苦しくなったとき、主君に教わった通りに二カ所ほど鍼を打ち、しょうが湯を煎じて飲ませましたら、翌日には歩けるようになりまして。」
「それはいい。」
澄斎は頷く。
「家は身を寄せる場所に過ぎないが、技は、一生身につけて持ち運べる甲冑だ。腕がいくつもあれば、世の中がどれほどひっくり返っても、一息で流れに呑まれはしない。」
そう言いながら、袖の中から布に包んだ小さな包みをいくつか取り出し、机の上に並べた。
「阿新、阿久。」
「はい。」
ふたりは手をぬぐって、前へ進み出る。
「この包みは反物が少し。色はさほど派手ではないが、丈夫な布だ。」
澄斎は阿久の方へ包みを差し出した。
「日々忙しく立ち働いているのだから、正月には自分のためにも一枚、まともな小袖を仕立てるがよい。」
阿久は何度も頭を下げる。
「ありがとうございます。」
「これは、よく使う薬種を幾つか。」
もう一包みを佐吉に渡す。
「鍼だけでなく、薬を使うことも覚えなさい。雪の頃には、寒気と凍えが増える。澄斎の家を預かるのなら、一つ屋根の下の安否も背負うということでもある。」
佐吉は両手で包みを受け取り、目尻を熱くしながら言った。
「必ずや、主君のお預けになった役目を違えません。」
「弥助。」
「はいっ!」弥助はほとんど跳ねるように返事をした。
「これは、おまえへの分だ。」
澄斎は机の下から一本の木剣を取り出した。削りたての木肌がまだ新しく、少し重みのある刀身に、柄の部分だけ布が巻かれている。少年の手にちょうど馴染む太さだ。
「ずっと、自分の剣が欲しいと言っていたな。」
木剣を見つめる弥助の目が、冬の日差しを受けて光る氷のように、一気に明るくなる。
「ほ、本当に、いただいても?」
「ああ。」
澄斎は剣を手渡しながら言った。
「だが、手にするのは剣という形ばかりではない。これからお前が、どのように立って生きていくかも、一緒に握ることになる。」
そう言って、少し間を置いた。
「明年から、仕事の邪魔にならぬ範囲で、毎朝、庭で半刻立ち続けなさい。まずは立ち方、次に歩き方、それから振り方だ。」
弥助は真剣な顔で力強く頷いた。
「肝に銘じます!」




