第三十四話 年宴、帰蝶に遇う・美濃の旧き牙と新しき火
永禄六年(一五六三年)も押し詰まったころ。
清洲城の空は、いつもより早く暗くなっていた。城壁にはまだ雪が残り、板戸の隙間を抜けてくる風には、鉄と冷えた水の匂いが混じる。本丸の奥だけは別世界のように、障子の向こうから温かな灯が漏れ、笑い声と盃の触れ合う澄んだ音がほのかに伝わってくる。
この日は軍議ではない。
信長は本丸の一角に、さほど大きくはない酒席を設け、腹心と一門の者をいくらか呼び集めていた。一年の労をねぎらうためでもあり、小牧山城の工事がひと区切りついたこの折に、束の間息をつくためでもある。
席には、柴田勝家が一側に座り、常に寄せられているその眉も、灯の下ではいくぶん緩んで見えた。丹羽長秀は絶えず酒を注ぎ、森可成は若い武士たちと声を落として談笑している。前列には佐久間信盛や池田恒興といった古参が並び、近ごろ信長の寵を得つつある前田利家も、後列に控えて座していた。
さらにその後方には、背丈のあまり高くない一人の武士が、忙しく酒をつぎ、盃を運んでいる。口元にはいつも笑みを湛えながら、手つきはきびきびとして無駄がない。腰の刀は平凡だが、手入れは行き届いている。木下藤吉郎である。
注意して見なければ、ただの気の利く下級武士にしか見えない。だが、席のあいだ中、彼の目はしばしば自然と上座の方へと泳ぎ、その耳は一言も聞き漏らすまいと澄ませられていた。
上座の席は、まだすべては埋まっていない。信長はややくだけた直垂をまとい、腰の刀こそ外してはいないが、手にしているのは小さな盃一つだけである。
隣の一席は空いたまま、屏風の向こうから衣擦れの気配がかすかに伝わる。
障子がそっと開いた。
質素な小袖をまとった一人の女が、静かに歩み出る。髪には華美ではない簪が一本、衣の襟元には、ごく細い蔓草が一重だけ刺繍されている。その瞳は冷静でありながら、生まれながらに上からものを見ることに慣れた者の、自然な余裕を帯びていた。
「帰蝶殿。」
丹羽長秀が立ち上がり、恭しく礼を取る。
濃姫。尾張の者たちは今や多くが「御台所」と呼び改めていたが、いまだに古くからの家臣の中には「帰蝶殿」と呼ぶ者もいる。彼女はわずかに頷くだけで、そのまま信長の側に腰を下ろした。
「殿は今日、珍しく酒席など設けられて。なぜ今し方まで姿を見せられなかったのです。」
彼女は信長の盃に酒を満たしながら、柔らかな声音で問う。
「城中の細事が多くてな。」信長は何気なく答える。「美濃の方からも、年貢と雑税の沙汰が届いている。本当は今日は口に出したくはなかったのだが。」
そう言って、盃を少し手前に押し出すと、その視線は列を越えて、下座の一人へと向かった。
「澄斎。」
「ここに。」
柳澄斎はやや後ろの席に座している。他の家臣よりも素朴な装いで、腰の澄心村正は今日も手放していないが、鞘には布が二重に巻かれており、今日が兵の話ではないことを、さりげなく示していた。隣の列にいる木下藤吉郎は、「澄斎」という名が出た途端、思わず目をきらりと光らせる。
「この前おまえが言ったな。」
信長は気の抜けた調子のまま続ける。
「山の向こうは、いずれ大きく乱れると。」
盃の縁を指先で軽く叩きながら、言葉を継いだ。
「今、あの稲葉山を見れば、まだ同じように思うか。」
席の空気が、わずかに張る。
「山そのものは、変わっておりません。」
澄斎は静かに答えた。
「ただ、山の麓にいる人の心は、この春に比べ、いくらか乱れが増しているように見えます。」
「ほう。」
「殿の小牧山は、すでに尾張に牙を生やしました。」
澄斎は信長を見上げる。
「見ているのは美濃の者ばかりではありません。尾張の者も皆、目に焼きつけています。これを殿のお心の鋭さと感じる者もいれば、自分たちも否応なく歩を合わせねばならぬ圧だと感じる者もいる。山の向こうでも、同じことです。」
柴田勝家が鼻を鳴らした。
「付いて来られぬ者など、そのうちみな転げ落ちるだけよ。」
帰蝶は、横顔のまま澄斎に目を向ける。
「今の美濃の有り様、澄斎殿も耳に入れておられるのですか。」
「多少は、伝え聞いております。」
「竹中重治という名。」
帰蝶はふと考え込むように、杯の縁を指で撫でた。
「澄斎殿、ご存じかしら。」
「少々。」
澄斎は答える。
「美濃の者の言うところでは、学識に優れ、碁も見事でありながら、城中で顔を売るのを好まぬ士分だそうです。」
帰蝶の指先が杯をなぞる動きを、ほんの少しだけ緩める。唇には、ごくかすかな笑みが浮かんだ。
「嫁いでからも、ときどき旧国からの風は届きます。」
彼女は淡く言う。
「山の中に若い男が一人いて、いつも一人静かに座しては、碁を打ち、本を読み、斎藤家の内のことについては、ほとんど言葉を発しない。そのような話を耳にしたことがありました。」
そのころ、彼女はもう稲葉山の姫ではなく、異国の城の御台所であった。
道三はすでにこの世を去り、稲葉山に連なっていた数々の名も、冬の夜の夢の底に、たまに浮かぶ影となっているだけだ。
今あらためて「竹中重治」という名を聞いても、胸に湧くのは郷愁ではない。むしろ、古びた家に新しく渡された一本の梁を眺めるような心地に近かった。
「山は、いずれ人が替わります。」
澄斎が言う。「山の麓で火を見るのが似つかわしい者もいれば、山の上から天下を眺めるに足る者もいる。」
帰蝶は澄斎をじっと見つめ、その眼差しに、探る色と同時に、わずかな敬意が混じりはじめていた。
この男は、彼女の旧国を語るとき、媚びるような哀れみも、道三への作り物めいた畏れも見せない。道三も、信長も、今の美濃も、同じ一つの盤上に置かれた駒として語ってみせる。
それこそが、信長の最後まで傍らにいる資格のある男だと、彼女は思った。
「稲葉山の城は、幼いころから見上げて育ちました。」
彼女はふいに口を開く。「当時、道三殿はいつも申していました。あれは美濃の牙だと。今、その牙は龍興の手の中にある――」
声は低く抑えられていたが、一語一語は澄んでいて、はっきりと聞こえた。
「ときどき、思うのです。ある日ふと、あの牙が山から抜け落ちているのを、この目で見るのではないかと。」
席が一瞬、静まり返る。後列の藤吉郎は、そっと顔を上げて彼女を見、それからすぐに目を伏せ、あたかも自分の盃だけを見つめているふりをした。
信長がふっと笑う。
「抜け落ちるなら、それはそれでよい。わざわざ俺が抜きに行かずとも済むからな。」
帰蝶は横目で彼をにらむ。
「殿は、いつもそういう物言いをなさる。」
そして澄斎の方へ向き直る。
「澄斎殿が、山の麓からあの城を見上げるとしたら、何を思われる。」
「二人の顔が浮かびましょう。」
澄斎が答える。「一人は道三公、もう一人は殿です。」
帰蝶は小さく息を呑む。
「どういう訳で。」
「道三公の存命中、美濃は一度、烈火に焼かれた地のようでした。」
澄斎はゆっくりと言葉を選ぶ。
「火の勢いは激しくとも、その末には新しい地肌が表に出る。殿が今、尾張でなさっていることは、かつての道三公とそう大きくは違わぬ。ただ、手段はより鋭く、情けを残されるところは、はるかに少ない。」
「情けが少ない」という一言に差しかかったとき、帰蝶の瞳には複雑な光が一瞬走った。
彼女はよく知っている。道三の火は、最後には自分の足元まで焼きついた。そして信長の火もいつか、もっと遠い土地をも呑み込むだろうことを。
彼女は、この二つの火のあいだに座っている。旧国が灰になるのを見届け、尾張が火の中で骨格を得ていくのも見届けてきた。そして今、その間にもう一人、澄斎という男が座った。
「では、龍興は。」
「龍興は。」
澄斎は少し考える。
「焼けた後の新しい地面の上に立つ若者です。本当は足下の土地は彼のものではないのに、それを祖先から与えられた玩具だと思い込んでいる。」
「澄斎殿は、美濃は遅かれ早かれ変わると。」
「美濃は、とっくに変わり続けています。」
澄斎は、真正面から帰蝶の視線を受け止める。
「ただ、今回の変わりようが早いか遅いかは、誰かが先に痛みを引き受けるかどうかにかかっている。」
帰蝶はしばらく彼を見つめていたが、やがてふっと小さく笑った。
その笑みは淡く、だが紛れもなく本心からのものだった。
「殿が、あなたを本丸に自由に出入りさせておられる訳が、ようやく腑に落ちました。」
彼女は声をひそめて続ける。
「あなたは人の算段や器量を量るだけでなく、美濃という一国まるごとを、殿の盤の上に乗せて考えている。」
澄斎は両手をつき、一礼する。
「殿の打つ一局の隅の一角を任せていただけるなら、この上ない幸せ。」
帰蝶は盃を取り上げ、彼の方へ軽く掲げてみせる。
「澄斎殿。いつか本当に史書が編まれるなら、そのうち一章は『澄斎夜坐』と題されるかもしれませんね。」
信長はここで笑いながら口を挟んだ。
「史書に奴の名が記されようと記されまいと、俺は構わぬ。」
「ただ一つ、稲葉山を引き抜いたのが誰だったかだけは、しかと書いてもらうぞ。」
席のあちらこちらから笑い声が上がり、しばしの間、美濃の翳りは笑いに紛れて遠ざかった。
だが、笑いの中で帰蝶の視線は再び澄斎の姿に戻っていく。
彼女は心の中で静かに思う。
道三は、刀で人を追い詰める「国盗り」。
信長は、人心と城と金をまとめて握る「天下人」。
そして目の前のこの白髪の若者は、その二つの火の勢いのあいだに、そっと一本の道筋を引こうとしているように見える。火が焼くだけでなく、照らすためにも燃えるようにと。
この種の男は、この本丸の中でもそう多くはない。
後列の藤吉郎は、酒をつぎながら、その会話の一つ一つを心に刻んでいた。「道三公」だの「美濃の牙」だのという言葉の重みまではわからない。それでも本能で感じ取っていた。
これから先、本当に大事なことは、きっと今ここにいる者たちと、今交わされた言葉を軸に回っていくのだと。




