第三十一話 竹中初見・盤上一局
それから間もなく、廊下にもう一つ、足音が聞こえ始めた。
その足取りはきわめて静かであったが、無理に気配を殺そうとするようなところはない。
偏室の戸が、すっと一筋だけ開いた。
一人の若い男が、敷居に立っていた。すらりとした体つきに、飾り気のない衣。どこにも権門の華やかさは見えぬが、灯りの斜めから差す光を受けた眼差しは、澄んでいて、しかも油断なくあたりを測っていた。
「竹中重治と申す。お邪魔いたす。」
彼はまず柳澈涵に向かって一礼し、その礼は卑屈でもなく、無礼でもなかった。
「竹中殿。」
柳澈涵も立ち上がって礼を返した。
「遠路お運び願ったのはこちら。無礼をいたすのは在下の方にございましょう。」
二人の視線は、空中で一瞬だけ交わった。そのわずかな間に、互いに相手を値踏みすると同時に、この出会いを心のどこかで待ち構えていた者同士の響きがあった。
戸が閉じられ、部屋には二人だけが残る。
寺の裏庭には、小石を敷き詰めた一角があり、そのそばの土塀に寄せて、古びた碁盤が一つ立てかけてあった。
竹中半兵衛は、その碁盤を一目見てから、柳澈涵に目を戻した。
「お噂に聞くに、澄斎殿は諸芸に通じておられるとか。よろしければ、一局お相手いただけますか。」
「願ってもないこと。」
柳澈涵は碁盤の一方に腰を下ろし、指先で落ち葉を払いのけた。
竹中は碁石の入った碁笥を彼の前に押しやった。
「どうぞ。」
「客は主に従うもの。ここは美濃。美濃の客に先を打っていただこう。」
「では、ありがたく。」
竹中は黒石を一つつまみ、初手を打った。
黒石が盤上に静かに刻み込まれた瞬間、庭の空気がひときわ澄み、竹の葉が擦れ合う音だけが聞こえるように思われた。
序盤は、さほど激しくはなかった。竹中の打ち方は堅実で、どの一手にも余地を残しながら、山中にいくつもの小さな砦を築いていくようだった。柳澈涵は、それよりわずかに速い歩調で石を打ち、ときに定石から外れたような、不意の一手を放つが、そこに軽率さは見えない。
「澄斎殿の碁は、小牧山に似ておりますな。」
竹中は盤を見つめたまま、静かに言葉を置いた。
「いきなり美濃を呑み込もうとはせず、まずは牙だけをこちらへ差し入れてくる。」
「竹中殿の碁も、稲葉山に似ておられます。」
柳澈涵は応じた。
「守りは堅い。だが、そうやすやすとは城から打って出ようとはなさらない。」
竹中はちらりと顔を上げ、唇の端にごく薄い笑みを浮かべた。
「尾張から吹いてくる風は、思っていたよりもまっすぐなようだ。」
「まっすぐなのは言葉だけ。」
柳澈涵は白石を一つ、ぱちりと弾き落とした。その一手は、ばらばらに見えていた白石を、ふいに一本の糸でつなぎ合わせる。
「碁の筋まで真っ直ぐに伸ばしたら、数手とたたぬうちに、誰かの張った壁に突き当たります。」
竹中はしばらく盤上を凝視し、その目に一瞬、重みのある色を宿らせた。
目立たない隅に打たれた一石が、先ほどまで自分のものと思い込んでいた勢力の色合いを、微妙に変えている。
「なるほど。」
彼は小さくつぶやいた。
中盤が終わろうとするころ、竹中はついに小さく嘆息した。
「在下の負けは、この一手にございます。」
指先で、柳澈涵が先ほど打った地点を軽く叩く。
「在下は足元の厚みばかりを見て、遠くに置かれた一子が、ここで一帯を引き寄せるとは読めませんでした。」
「城も、同じこと。」
柳澈涵は手を引いた。
「一城は捨てることもできる。だが、一国を乱してはならぬ。目の前の城ばかり守っておれば、いつか、遠くの見えぬ一子に足をとられる日が来る。」
竹中は黙って盤を見つめ、長いこと口を開かなかった。




