第三十話 黄葉の山路・旅人はただ風を覚ゆ
三日後、未明。
木曽川の、とるに足らぬ小さな渡し場が、薄い霧に包まれていた。川水が杭を叩き、低い音をくり返す。
渡船が岸に横付けされ、舟子は蓑に身を縮めて欠伸をしている。
「あと一刻もすれば、霧がもっと濃くなりますぜ。」
佐吉は河原に膝をつき、柳澈涵の旅装を整えてやると、目立たぬ行李を一つ差し出した。
「主君、道中、どうかご無事で。」
「澄斎のことは、お前に任せる。」
柳澈涵は行李を受け取り、ふと、少し離れたところで舟子と笑いながら話している男に目を向けた。
男は小さな包を背負い、腰にはありふれた武士の刀をぶら下げている。顔立ちに取り立てて目立つところはないが、口を開けば、舟子の肩の力が抜けていく。
「猿。」
柳澈涵が声をかけた。
木下藤吉郎は「へい」と返事をし、二、三歩でぴょんと舟に飛び乗ると、振り返って佐吉に手を振った。
「心配ご無用、佐吉殿。この木下が、道中きっちり澄斎殿の命をお守りいたしますとも。」
佐吉は眉間に皺を寄せた。
「お前はまず、自分の身を大事にしろ。」
藤吉郎は声を上げて笑い、それ以上は言い返さなかった。
舟がぐらりと揺れ、岸を離れる。薄霧はすぐに川面を呑み込み、舟首の影だけがぼんやりと残った。
対岸に着いてからは、道はそう楽なものではなかった。
深秋の風が谷間から吹き下ろし、枯れ枝と落ち葉の匂いを運んでくる。山道は狭く、一方は雑木林、もう一方はゆるやかに落ち込む斜面で、ときどき岩の骨が割れ目からのぞいていた。
「まったく、こんな山道、木曽川筋の者ぐらいしか知りませんぜ。」
藤吉郎はぶつぶつ言いながら歩く。
「お公家様あたりをここへ連れてきたら、三歩ごとに『足袋が擦れる』と文句を言うに違いない。」
柳澈涵は先を歩き、歩調は速くも遅くもなく、ただ場所を変えただけの散歩のようであった。
やがて山の傾斜がいくらか緩み、道端にひときわ背の高い木が現れた。幹は太く、葉の大半はすでに黄金色に変わっている。風が吹けば、葉がざあっと音を立てて舞い落ち、中空でいくつか回転してから、地面に降り敷いた。
「こいつは見事だ。」
藤吉郎は思わず足を止めた。
柳澈涵も立ち止まり、しばらく眺めてから、手を伸ばして落ちてきたばかりの一枚を受け止めた。細かな葉脈が指先の上で微かに震えている。
彼は頭上の樹冠を仰ぎ、それから遠く、霧に半ば呑まれた山並みに目をやり、ふっと笑みを浮かべた。
「猿。」
「へい。」
「腰に差している筆を、一つ借りたい。」
藤吉郎は、使い込まれて艶の出た筆を取り出して差し出した。柳澈涵は袖から小さな紙片を抜き取り、幹に身を寄せて、さらさらと三行を書きつけた。
紙の上には、やがて小さな文字が三行、浮かび上がった。
「山路は黄葉に尽き、
遠き城は白霧に隠れ、
行く人はただ風を覚ゆ。」
書き終えると、自ら小声で一度読み上げた。
藤吉郎は耳をそばだて、全部を覚えることは叶わなかったが、その三行が、目の前の木と、遠くの山と、頬をなでる風を、一つの掌の中にぎゅっと握りしめてしまったような気がした。
「澄斎殿、これは何て言うんです。」
「俳句だ。」
柳澈涵は紙を折りたたみ、袖の中にしまい込んだ。
「いつか、この世の有り様を書き留めたいと願う者が出てきたら、こういう短い言葉を好むようになるかもしれん。」
「そいつぁ、今のうちにもっと聞いといた方が良さそうだ。」
藤吉郎は頭をかきながら言った。
「残念なことに、わたしは字をあまり覚えておりませんが。」
「お前は、道を覚えていればそれでいい。」
柳澈涵はふたたび歩き出した。
「今日歩いた山路の一尺一寸まで、しっかり刻んでおけ。いつか、役に立つかもしれん。」
美濃の領内に入るころには、山の具合も次第に穏やかになっていた。
山腹に、小さな寺がひっそりと坐している。寺門の前に立つ数本の竹が、秋風を受けてさらさらと音を立てていた。寺ではすでに晩課の鐘もつき終え、僧たちはそれぞれの房に引き上げてしまったのか、廊下には二つ三つ、淡い灯りが灯っているだけである。
柳澈涵と藤吉郎は、寺の奥まった一室に通された。部屋は簡素で、低い几帳が一つ、座布団が二つ、それに窓外の竹の影があるだけであった。
「静かで、いいところですねえ。」
藤吉郎は包を放り出し、そのまま座布団に尻を落とした。
「大事な話があると知らされていなければ、まるで出家しに来たような気分ですよ。」
「お前が出家したら、寺の米蔵がすぐに底をつく。」
柳澈涵は窓際に座り、少しだけ障子を開けた。夜気が竹の葉の青さを含んで流れ込んでくる。
「澄斎殿、その美濃の人は……。」
藤吉郎は声を落とした。
「本当に来るんで?」
「来るさ。」
「なぜ、そこまで言い切れるんです。」
「お前より好奇心が強いからだ。」
柳澈涵は、真っ暗な竹林を見やった。
「長年、自分の山の上のくすんだ灯りばかりを見ていれば、いつかは川向こうの火がどんな色をしているのか、確かめたくなるものだ。」
そう言ってから、彼は振り返って藤吉郎を見た。
「今から、お前は外の廊下に出て、見張っていろ。」
「外で、ですか。」
「うむ。」
柳澈涵はうなずいた。
「部屋には入るな。あまり近くに寄りすぎてもいけない。誰かが来ても、覗き込もうとせず、この戸一枚を守っていればよい。」
「承知しました。」
藤吉郎は立ち上がり、拱手してから下がった。廊下に出て、戸から数歩離れたあたりに胡座をかき、室内から呼ばれればすぐさま応じられるよう、耳だけを澄ましている。
廊下の灯が、彼の影を長く引き伸ばし、竹の影に溶け込んでいった。




