第三話 美濃・奪心(だっしん)夜話
稲葉山城での襲撃事件の後、柳澈涵は粗末な側室に押し込められる。
深夜、そこへ現れたのは「尾張の大うつけ」と呼ばれる若き織田信長。
乱世を壊し、一から組み直せる者は誰か。
第一念と最後の念――人の「心の線」を視る柳と、天下を断とうとする信長。
二人の密談は、まだ小さな油灯の下で交わされる「奪心夜話」に過ぎないが、その握手が戦国の局面を静かに書き換え始める。
稲葉山の夜は、三河よりも遥かに冷たかった。
城壁の綻びから吹き込む風が石垣を巡り、木造の回廊を滑るように通り抜け、火鉢の炎を心許なく揺らしている。それはまるで、今にも何者かに握り潰されそうな命の灯火のようだった。
柳澈涵は、極めて狭い側室の一間に座していた。
そこは客間というより、慌てて片付けられた物置部屋に近い。壁際には古びた木箱が積み上げられ、部屋の隅にはカビの生えた麻縄が無造作に転がっている。唯一まともな調度品といえば、彼の前に置かれた素朴な油灯だけであった。
灯りは心許なく弱く、その光は、辛うじて彼の顔立ちを浮かび上がらせるのみである。
彼は膝の上に刀を横たえ、指の関節で鞘を軽く叩いた。その音はごく小さく、刀が確かにそこに在り、いまだ沈黙を守っていることを自らに確認させるかのようだった。
「……命を救ったというのに、こんな場所に押し込めるなんて」
佐吉が不満げに小声で呟いた。
柳澈涵は答えなかった。
彼は知っている。これは冷遇ではない。試しなのだ。
——真に人を用いようとする者は、決して最初から相手を日の当たる場所には置かないものだ。
廊下を行き交う足音は徐々に疎らになり、時折巡回の兵が通り過ぎるたび、甲冑の触れ合う微かな音が床板の下から響き、また遠ざかっていく。
城内の喧騒は、ひとまず収束したようだった。
「少し眠るといい」
柳澈涵は佐吉に言った。「後で、面倒なことになるかもしれないからな」
「面倒?」
「ああ」
彼は淡々と言った。「今夜の話し合いが決裂すれば、我々は別の道を通って、生きてここを出なければならなくなる」
佐吉は身震いし、引き攣った笑みを浮かべた。
「じゃあ、あまり深くは眠れませんね」
彼は部屋の隅で外套にくるまり、木箱に背を預けたが、瞼を完全に閉じることはできなかった。
柳澈涵は意識を、手の中の刀へと戻した。
稲葉山のこの「局面」は、おおよそ見えてきた。
斎藤氏の内部に敵と通じる者がおり、その機に乗じて織田信長を排除しようとした。信長は常識に囚われず、あえて虎穴に身を投じたが、逆に城の一角で孤立することになった。
そして自分は——
「私はただ、その勢いに順じて入り込んだだけだ」
彼は心の中でそう呟く。
だが彼は熟知していた。「勢いに順ずる」ことと「勢いに飲まれる」ことの間には、紙一重の差しかないことを。
その境界線は、自分が「局面を見る者」であるか、「局面の中の駒」であるかによって決まる。
彼は静かに柄に手を置き、それ以上の思考を止めた。
夜半過ぎ、扉が唐突に開かれた。
事前の足音もなく、「失礼する」の一言もなく、下人がするような慎重な取り次ぎもない。
板戸がただ「ギィ」と軋み、闇の中から細く開かれただけだ。
火鉢の外の冷気がどっと流れ込み、灯火が大きく揺れた。
次いで、一つの人影が音もなく入り口に立っていた。
柳澈涵は顔を上げなかった。
誰かは、分かっている。
深夜の側室に、このような形で現れる人間は、一人しかいない——
威圧を誇示するわけでもなく、礼儀を尽くすわけでもない。まるで城全体が自分の庭であり、どこであろうと好きに出入りできると言わんばかりの態度。
「眠れんのか?」
来訪者が口を開いた。
声には、まだ少年めいた若さが残っていたが、無視し得ぬ鋭利な響きを帯びていた。
柳澈涵はようやく顔を上げ、入り口を見た。
織田信長が鴨居に寄りかかっていた。鮮烈な赤の小袖は、今は比較的地味な浅葱色の直垂に替えられていたが、着こなしは相変わらず崩れており、腰の刀は極端に低く差されている。いつでも抜けるようにも、あるいは全く気にも留めていない玩具のようにも見えた。
髪は乱れているが、瞳だけが異様な輝きを放っている。
「貴方も、眠れないようですね」
柳澈涵は言った。
信長はニヤリと笑い、背手で扉を閉めた。
彼は灯りの前まで歩み寄ると、躊躇なく胡座をかいて座り込み、刀を外して横に置いた。その刀身は、柳澈涵の刀とほぼ平行に並んだ。
「眠れるわけがない」
彼は悪びれもせずに言った。「今日のような局面は、俺も初めてだからな」
「どの点を指して?」柳澈涵が問う。
「誰かが俺を殺そうとしたこと」
信長は人差し指を立て、卓上を軽く叩いた。
「それについては、とうに予期していた」
彼は二本目の指を立てた。
「だが、俺が殺される寸前に、誰かが突如として介入し、鮮やかに俺を救ったこと」
三本目の指が立つ。
「しかも、その男は武士でもなければ、浪人でもなく、忍びでもない」
彼は両手を組み、笑みを深めたが、その瞳の温度は逆に一度スッと下がった。
「『貴様のような人間』に出会ったのは、これが初めてだ」
柳澈涵は慌てて答えたりはしなかった。
ただ静かに信長を見つめる。
二人の間で、灯火が風に煽られ、わずかに傾いでいた。
しばしの沈黙の後、口を開いたのは、信長の方だった。
「農民ではないな」
彼は断言した。
「ええ」
「どこぞの道場で型通りの稽古を受けた武士にも見えん」
「その通りです」
「寺子屋で腐った書物を詰め込まれた、頭の固い儒者でもなさそうだ」
「それには深く同意します」
信長は一瞬呆気にとられ、次の瞬間、腹の底から笑い声を上げた。
「ハハハッ! 貴様の物言い、気に入ったぞ」
柳澈涵はただ微笑むだけで、言葉を返さなかった。
笑い声が引くと、信長の眼差しは再び鋭さを取り戻した。
「ならば、貴様は何者だ?」
彼は問うた。
「暗い路地裏で俺の命を救い、一言も発さず、今もなお己の名乗りすら上げようとしない。普通の奴なら、とっくに俺の前に平伏しているか、恩賞の条件を並べ立てている頃だ」
「貴方を救ったのは、平伏するためではありません」
柳澈涵は言った。「条件を出すためでもない」
「なら、何のためだ?」
「——ある事を、確認するためです」
「何だと?」
「貴方が、私の探している『その人』であるかどうかを」
信長は動きを止めた。
即座に問い返す。
「貴様は、誰を探している?」
柳澈涵は目を上げ、その視線を逸らすことなく答えた。
「この乱世を叩き壊し、一から組み直せる人間です」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
油灯の芯が、微かに「ジジッ」と音を立てる。
隅で縮こまっていた佐吉は息を殺し、自らの存在を消そうと必死になっていた。
信長はすぐには答えなかった。
彼は柳澈涵を凝視し、目の前の白髪の青年が放った言葉が、狂気によるものか、至極冷静な判断によるものか、あるいは単なる戯言かを見定めているようだった。
「幾つだ?」
しばらくして、彼が聞いた。
「数えで二十」
「二十歳そこらで、乱世を壊すだと?」
信長は笑ったが、その声は低かった。
「今、この日の本にどれほどの大名がいて、どれほどの軍勢が蠢いているか知っているのか? 三河、美濃、尾張、伊勢、近江……天下は紙細工の風車ではないぞ」
「壊したい、と言っているのではありません」
柳澈涵の口調には、一切の自己顕示欲が含まれていなかった。
「ただ見えているのです——必ず誰かが、それを成すだろうと」
「貴様がか?」
「私かもしれません」
彼は極めて誠実に答えた。
「あるいは、私の目の前にいる、この赤い着物の男かもしれません」
信長の瞳の奥に、危険な光が宿った。
「口の減らん奴だ」
「事実を述べているだけです」
柳澈涵は淡々と言った。
「真に局面を書き換えられる人間は、極めて少ない。私は多くの人間に会う必要はありません。ただ一人か二人、確認できればそれでいい」
「なら、なぜ——それが俺だと思った?」
信長はわずかに身を乗り出し、指で鞘を叩いた。
「世間は俺を見て『うつけ』だと言う。礼儀知らずで、常識がなく、ただ暴れるだけの狂人だと」
柳澈涵は彼を見た。
「彼らは、間違っていません」
彼は静かに言った。
信長は虚を突かれたような顔をし、次いで再び大笑した。床板が震えるほどの哄笑だった。
「いいぞ! 俺の目の前で『間違っていない』と言い放ったのは、貴様が初めてだ」
「ですが、彼らは表面しか見ていない」
柳澈涵は続けた。
「私に見えているのは——貴方の乱行は、無秩序ではないということです」
信長の笑いが、徐々に収まっていく。
「どういう意味だ?」
「家中の評定での振る舞い、尾張での奇行の数々。多くの者はそれを『狂気』と見ますが、私には『試行』に見えます」
柳澈涵の口調は、まるで難解な数式を解く学者のようだった。
「貴方は、あらゆる旧き秩序の境界線を試している。一族、家臣、寺社、外敵。礼法に従わないのは、確認しているからです——この世の『礼』のうち、どれが叩き壊すべきもので、どれが利用できるものなのかを」
信長の指先が止まった。
彼は柳澈涵を食い入るように見つめた。
長い沈黙の後、彼はゆっくりと息を吐き出した。
「……貴様、俺の家中の事情まで……知っているのか?」
「詳細は知りません」
柳澈涵は正直に答えた。
「噂程度には聞いていますが……それよりも、今日の貴方の対応を見て確信しました」
「今日の対応だと?」
「はい」
柳澈涵は言った。
「貴方は囲まれても動揺しなかった。死を恐れていないからではありません。あの程度の連中には自分を殺せないと、正確に理解していたからです——仮に彼らが成功したとしても、それは斎藤家内部の小競り合いに過ぎず、美濃と尾張の大局を変えるには至らない」
彼は一拍置いた。
「貴方が一人で稲葉山に入ったのは、すでにこの局面の『縁』を見切っていたからです。今日貴方が生きようが死のうが、この盤面はここでは止まらないと」
信長は沈黙した。
その沈黙は、図星を指された怒りではなく、極めて稀有な——「誰かに自分の深層を見抜かれた」という複雑な感情によるものだった。
「……貴様は、他人の何を見ている?」
やがて、彼は聞いた。
柳澈涵は即答した。
「第一念を見ます。最後の念を見ます。そして、その局面がどの層まで到達できるかを見ます」
信長は眉を上げた。
「説明しろ」
「第一念とは、人間が事象に直面した瞬間の、最初の反応です——欲望か、恐怖か、憎悪か、逃走か、あるいは冷静を装う虚勢か、本能的な支配欲か」
「最後の念とは、その人間が死ぬ間際、あるいは局面が完全に崩壊する寸前に、脳裏に残るただ一つのものです——後悔か、怨嗟か、命乞いか、呪詛か、それとも——『なるほど、そういうことか』という納得か」
「そして、局面がどこまで行けるかというのは、」
柳澈涵は彼を見据えた。
「その二つの念の間で、その人間が成長できたかどうかに懸かっています」
信長の瞳が、次第に熱を帯びてきた。
「なら、貴様の目には——」
彼は身を乗り出した。
「俺の第一念は、どう映った?」
「今日のですか?」
柳澈涵は小首を傾げた。
「第一念は『面白い』。第二念は『好機』。第三念でようやく『危険』でした」
信長は口元を歪めた。それは珍しく、心底からの愉悦を含んだ笑みだった。
「……正解だ」
「では、最後の念は?」
「貴方はまだ死んでいない」
柳澈涵は言った。
「今のところ、私には見えません」
「ハハハッ!」
信長の笑い声が、狭い物置部屋に反響した。それは何かを嘲笑うようでもあり、何かを祝福するようでもあった。
笑いが収まると、彼は表情を引き締め、柳澈涵を真っ直ぐに見据えた。
「貴様が今日、路地裏で見せたあの一刀、何という名だ?」
「断線。」
「断線か」
信長はその言葉を咀嚼した。
「敵の身体を斬るのではなく、均衡の点を斬る——倒すが、殺さない」
「殺さないのですか?」
「人を殺すのは、容易いことです」
柳澈涵は言った。
「線を断ち切り、自分が崖っぷちに立っていたことを自覚させる方が——より有用です」
信長は少し考え込み、唐突に聞いた。
「貴様の初陣の名は?」
「三河での一件ですか?」
「そうだ」
「心斬の戦い」
柳澈涵は、少し思い返しながら答えた。
「あの型は、『破念』と呼びます」
信長は小さく繰り返した。
「破念、断線……」
その目は、獲物を狙う猛禽のように鋭く、かつ純粋だった。
しばし時を置いてから、彼は静かに口を開いた。
「柳澈涵」
「はい」
「貴様は俺を救った」
信長はゆっくりと、一語一語を噛み締めるように言った。
「武士の礼に則るなら、俺は貴様に領地を与え、金を与え、感状を与えることができる」
「だが、貴様が欲しいのは、そんな物ではない気がする」
「その通りです」
柳澈涵は頷いた。
「なら、何を望む?」
柳澈涵は彼を見た。
この瞬間、灯火の揺らぎが止まり、部屋の中は奇妙な静寂に包まれた。
「見届けさせてください。貴方が、この局面をどこまで進められるのかを」
彼は答えた。
「もし貴方が本当に、この乱世を粉々に砕き、一から組み直せるのなら——私は私の刀、私の眼、私の判断のすべてを、貴方の側に置きましょう」
「もし、できなければ?」
「その時は貴方の元を去り、次の破局者を探しに行くだけです」
信長は一瞬、呆気にとられた。
それは主君に対する言葉としては、あまりに無礼で傲慢なものだった。
——『お前がそれに値するかどうか、俺がこの目で値踏みしてやる』
それが柳澈涵の真意だ。通常の大名なら、激昂して手討ちにしてもおかしくない。
しかし、信長は怒らなかった。
彼はゆっくりと、口の端を吊り上げた。
その笑みには、初めて自分を「主君」としても「狂人」としても扱わない人間に出会えたことへの、安堵にも似た色が混じっていた。
「貴様のような人間は、天下にそう多くいてはならん」
信長は低く言った。
「多くはありません」
柳澈涵も同意した。
「多すぎれば、天下はさらに乱れます」
信長は柄に手を置き、指先でトントンとリズムを刻んだ。
「いいだろう」
彼は顔を上げ、灼熱の視線を向けた。
「ならば先に言っておく——俺は最後の層まで行くぞ」
「見届けてくれ」
「もし俺が道半ばで倒れれば、去るがいい」
「だが、それまでは——」
彼は手を伸ばし、柳澈涵の方へ差し出した。
「貴様、俺の側に立つ気はあるか?」
柳澈涵はその手を見た。
それは主君が家臣に下賜する手ではない。
見下ろすでもなく、施すでもない。
それは「共犯者」への誘いだった——
『一緒にでかい事をやらかそうぜ。成るか成らぬか、まずは試してみよう』
柳澈涵は一瞬沈黙した。
彼は三河の雪夜に跪いた赤堀重政を思い出した。破念の一撃の後、別の道へと歩き出した男の背中を。ここ数日、道中で耳にしてきた乱世の不穏な噂と、崩れかけた秩序の音を。
この時代は、すでに砕け始めている。
ただ、大多数の人間がまだそれに気付いていないだけだ。
誰かが、最初にそれを認めなければならない。
彼は手を伸ばし、信長の手を握り返した。
「貴方が、まだ私に見届ける価値を与えてくれる間は」
柳澈涵は言った。
「貴方の側に立ちましょう」
「よし」
信長は彼の手を強く握りしめた。その力は凄まじく、指の骨が軋むほどだった。
「貴様は局を見ろ」
彼は言った。
「俺が局を破る」
「貴様が念を斬り、俺が人を斬る」
「貴様が線を断ち、俺が国を断つ」
「どうだ?」
柳澈涵は笑った。
その瞬間、この狭くカビ臭い物置部屋の中で、何かが静かに、しかし確実に噛み合った音がした。
それは主従の契約ではなく、単なる命の恩義でもない。
乱世の幕開けにおける、二人の「破局者」の最初の握手だった。
遥か後年、柳澈涵がより高い城楼に立ち、天下の山川と戦火を見下ろす時、彼はこの夜を思い出すことになるだろう。この油灯、この小さな物置、そして少年の傲慢さと野心を孕んだ、この熱い手を。
その握手が、彼を一人の雪原の剣客から、戦国という巨大な渦の中心へと引きずり込んだのだ。
これより先、彼の刀はただ村人のため、ただ一人の平民のために振るわれるのではない。
天下を変えんとする——
一人の男のために振るわれるのだ。
夜が更けた。
油灯がついに燃え尽き、芯が最期に微かな赤い光を放って消えた。
扉が再び開かれる。
信長は出て行く間際、一度だけ振り返った。
「明日の早朝」
彼は言った。
「俺と共に稲葉山の上層へ来い。本物の『局』の話は、そこでなす」
「承知しました」
柳澈涵は応じた。
扉が閉まる。
部屋は再び闇に包まれた。
佐吉はようやく張り詰めていた背を緩め、床にへたり込んだ。震える声で呟く。
「こ、これが……柳様の言う『破局者の会見』なのですか?」
闇の中で、柳澈涵の声は変わらず静かだった。
「これはただの『奪心夜話』に過ぎない」
「真の破局は、まだこれからだ」
彼は手を伸ばし、膝の上の刀に触れた。
刹那、刀身が微かに震えた気がした。
まるでこう答えているかのように。
『心得ている』と。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回は戦闘よりも「夜話」が中心の回でした。柳と信長が、初めて腹の底を見せ合う場面を書けて、作者としてもとても楽しい一話でした。
「この乱世を一度叩き壊し、一から組み直せる人間は誰か」という柳の問いに、皆さんならどんな答えを出すでしょうか。
柳の「念を斬る剣」と、信長の「国を断つ決意」。二人の破局者の組み合わせが、この先どんな戦国の景色を見せてくれるのか、ぜひ見届けてもらえたら嬉しいです。
感想や評価などいただけると、とても励みになります。




