第二十九話 小牧山夜帳・一子は美濃へ
永禄六年(一五六三年)深秋の夜風が、小牧山の尾根をかけ上がりながら、渦を巻いていた。
日中に突き固められた土の匂いは、まだ夜気の中にほのかに残っている。打ち込まれた杭と積み始めた石垣が月光を受けて細長い影を落とし、まるで、まだ研ぎ澄まされぬ牙が並んでいるかのようであった。山腹に新しく建てられた詰所の灯は次々と消え、ただ本陣に近い一角だけに、ぽつりと灯が残っている。
それは、信長が残していった光であった。
帳の中には、低い几帳が一つ置かれているだけであった。その上には、美濃と尾張の境を描いた地図が広げられている。墨で描かれた山川は、蝋燭の炎に合わせて微かに揺れ、今にも紙から隆起してきそうに見える。
信長は几帳の向こう側に座り、片手を何気なく刀の鞘にかけ、もう一方の手で、地図に記された稲葉山のあたりを指先でなぞっていた。
「そなた、美濃へ行きたいと言ったな。」
彼は前置きもなく切り出したが、その眼はまだ地図から離れない。
「は。」
柳澈涵は対面にきちんと座していた。腰の澄心村正は静かに刀架に預けられ、灯火に押さえ込まれた白髪も、ひどく控えめに見える。
「何をしに行く。」
「いずれ史書に記されることを、一つ。」
柳澈涵は淡々と答えた。
「もっとも、その史書に在下の名が出るとは限りませぬが。」
信長は「ふん」と鼻を鳴らした。
「史書に名が残ろうが残るまいが、どうでもよい。」
初めて顔を上げ、相手を一瞥する。
「わしが知りたいのは、その働きが、誰のためのものかということだ。」
「美濃の民のため、そして殿ご自身のため。」
柳澈涵は手を伸ばし、地図の稲葉山のあたりを軽く指で突いた。
「この山はいま、斎藤龍興の手中にあり、名目の上ではあれの城でございましょう。されど実のところは、先祖の残した米を食いつぶしているだけ。米が尽きるまでは城はすぐには崩れませぬが、そのまわりの人心は、とうにばらけております。」
「その城を、先に崩しておくつもりか。」
「いえ。」
柳澈涵は首を振った。
「城の中に、一つ心を置きに行くつもりにございます。」
視線は地図の線の上を滑る。
「殿が美濃を攻めるには、兵馬ばかりでは足りませぬ。山の向こうでも、殿に代わって『いつが最上の時機か』を見極める者が要ります。」
信長は几帳の角を指でとんとんと叩いた。
「その者というのは、誰のことだ。」
「斎藤の家中に一人。」
柳澈涵は言った。
「心はすでに龍興にはあらず、されど稲葉山に最も近い男。」
信長はしばらく彼を見つめ、やがて口の端をわずかに吊り上げた。
「誰のことか、おおかた見当はついておる。」
「さすがは殿。すでに耳には入っておられましたか。」
「耳に届いておるかどうかなど、さしたることではない。」
信長は言う。
「お前が行けば、美濃の者どもの口には『尾張の間者』と囁かれる。そのまま見つかって捕らえられれば、城の上に引き立てられて、龍興の『天への供え物』の手間を一つ省いてやることにもなろう。」
言い方は軽い。まるで他人の命を語るかのように。
柳澈涵は、ただうなずいた。
「ゆえに、この道行きの前に、殿のところへ一つ、明白なお言葉を頂きに参った次第。」
「どのような明白さを求める。」
「在下が美濃へ赴いたのち、いずれ本当に美濃が乱れたとき。」
柳澈涵は静かに言った。
「殿には決して、『すべてはあやつが好き勝手に企んだことだ』とはおっしゃって欲しくはございませぬ。」
帳の内の空気が、一瞬だけ止まった。
信長は不意に笑い出した。その笑いには、山から吹き込んでくる風の冷たさが少し混じっている。
「その心配は要らぬ。」
彼は言う。
「お前が行くならば、それは、わしとお前とが一手ずつ打つのだ。うまく運べば、一局の妙手。うまくゆかねば――お前が美濃の秋景色を見てきただけの話よ。」
少し間を置いて、さらに一言付け加えた。
「ただし、お前があちらで死んでも、わしはわざわざ骸を拾いに兵を出すことはせぬ。」
口調は平板であったが、その一言の方が、先ほどの笑いよりもよほど真実味を帯びていた。
柳澈涵は、わずかに瞼を伏せ、その言葉をきちんと胸に刻むように見えた。
「殿のお心、しかと承りました。」
信長はふたたび指先を稲葉山の上に落とし、軽く押すように動かした。
「行ってこい。」
「お前が向こうに置いてくるものが、どのような『心』なのか、見せてもらおう。」




