第二十七話 その城角を奪う・半収の局
三日後、小牧山。
午後のにわか雨が、山道を少しぬかるませていた。築城の工事を監督する諸家の代表者たちが、中腹に建てられた仮小屋へ呼び集められ、新しい工事の割り振りについての伝達を受けていた。
「北側の石垣は、先月までは犬山家一統の受け持ちであったが――。」
丹羽長秀が木札を広げる。
「殿より、新たなお達しがある。」
場の空気が、わずかに固くなった。
「本日をもって、北側の主たる石垣は森家と柴田が共同で引き継ぐ。」
丹羽は淡々と言葉を続けた。
「犬山家より派された職人と兵は、その三割のみを残し、残りは木曽川沿いのいくつかの砦へと転じる。巡邏と兵糧運びを担う。」
一つの「協力」という言葉と、一つの「転任」という言葉。それだけで、小牧山における犬山家の「手」の片方が、音もなく削がれたことを意味していた。
「配置換えの理由は。」
誰かが小声で問う。
丹羽は顔を上げた。
「木曽川沿いの砦は人手が足りぬ。犬山は川に近い。ならば、人を多く出すのが筋というものだ。」
柴田は、低く鼻を鳴らした。
「石というのは、心ここにあらずの者には触れて欲しくないものだ。」
森可成は、わざとらしいほど大らかに笑った。
「では、この北側の一帯、森家が喜んでお受けいたそう。」
そうしたやり取りの間、犬山から来ていた小頭の顔色は、わずかに変わっていた。とはいえ、その場で異を唱えるわけにもいかず、乾いた笑いを浮かべて「犬山は必ずや河の守りに全力を尽くします」と繰り返すしかない。
このとき、捕らえられた者は一人もいない。詰問もされず、ましてや見せしめの斬首もなかった。
だが、事情を呑み込んでいる者には、はっきりと見えていた。小牧山城の北の角は、この日を境に、もはや犬山の縄張りではなくなったのだと。
その夜、小牧山の焚き火は、いつもよりいくつか少なく見えた。犬山方の兵たちは、すでに前もって山を下り、川沿いの新たな持ち場へと向かっていた。
山腹の小さな帳には、穏やかな灯りがともっている。
尾張一帯の勢力分布を描いた図が机の上に広げられ、柳澈涵はその上に、細い筆を握っていた。犬山の名が記された区画を、静かに一重の円で囲み、今日の措置に即して、その脇に一行、細かな文字を書き添える。
「その城角を奪い、その旗は残す。」
「この図、まるで命盤のようだな。」
信長が帳の幕を払って入ってくると、刀を脇へ放り出し、そのまま机のそばに腰を下ろした。一連の円の線を指でなぞりながら言う。
「どの宮が破れ、どの宮が旺じているのか、一目で分かる。」
「命盤の方が、まだ算えやすいでしょう。」
柳澈涵は笑った。
「人ひとりの生は、たかだか数十年。尾張と美濃、この一帯を守る者は、何代にもわたって入れ替わるでしょうから。」
「代が替わるなら、それでよい。」
信長は筆を取り上げ、小牧山の位置を示すところを、ぐいと強く突いた。
「覚えておくべきなのは、この城を造った者は誰か。そして、この城を足場にして叛こうとしている者は誰か――それだけだ。」
「今日の一手は、いかなる手と見ますか。」
柳澈涵が問う。
「やつらの背から、皮を一枚はがした手だ。」
信長は答えた。
「本気で叛く気なら、人と兵と穀物を隠しておく場所が要る。この山の上の居場所を先に取り上げておけば、やつらが本当に川向こうへ手を伸ばしてきたとき、その手は丸裸のまま突き出されることになる。」
柳澈涵はうなずき、犬山の区画の横に、短く一筆添えた。
「半収。」
「いつ、丸ごと取り上げるつもりだ。」
「やつらが我慢できなくなる、その時です。」
信長は言った。
「叛くと決めた者は、黙っていられぬ。誰かに話したくなり、書きたくなり、夜の夢にまで見るようになる。自分こそが尾張を動かしていると思い込んだ、その瞬間こそが、一番たやすく潰せる時だ。」
「その時が来るまで――。」
「それまでは。」
信長は柳澈涵の言葉を遮って続けた。
「お前が見張っていろ。誰が小牧山に足繁く上るのか。誰がいつまでも顔を出さぬのか。誰が澄斎で酒を飲むときに舌が軽くなるのか。誰が澄斎の前を通るとき、わざわざ遠回りをするのか。お前は『違っているところ』を見るのが好きなのだろう。この一年を、芝居見物だと思って眺めておけ。」
柳澈涵はしばし考え、ゆっくりとうなずいた。
「承知仕りました。」
信長は、机の端に置かれた半分の書状に目をやり、ふいに笑みを漏らした。
「川べりのあの一陣では、お前が先に立ち、柴田たちが帳の外であれこれ褒めていた。今度は、私も一言加えておこう。」
「殿のお言葉、伺いましょう。」
「今回の用兵は、私の想像以上に細やかだった。」
信長は筆を机の上に放り出した。
「これからの戦で、『どうしても戦わねばならぬ決戦』でないかぎりは、お前に先陣を任せることが多くなるだろう。」
「それはお褒めの言葉でしょうか。それとも――これからも泥水に先に足を突っ込め、ということでしょうか。」
「泥水には、誰かがまず足を入れねばならぬ。」
信長は笑って言った。
「私が何度も先に足を入れていては、他の者が誰も入らなくなる。お前が先に踏んでくれれば、後ろに続く者たちも、その水が温いのか冷たいのか、身をもって知ることができる。」
帳の外では、風が少し強くなり、幕をふわりと揺らした。
信長は立ち上がる。
「明日、一度清洲へ戻る。」
「家中の荷をいくつか、この山へ移すつもりだ。城ができ上がる前に、人が先に移る――尾張中の者に、私の心はすでにこの山の上に立っていると、知らせておくのも悪くない。」
「殿は、まず心を移し、それから人を移される。」
柳澈涵は言った。
「その道理を、皆がすぐに理解するとは限りませんが……いつかきっと思い知ることになります。」
帳の幕を再び押し開けて出て行くとき、信長は振り返りざまに、一言だけ残した。
「皆が思い知ったときには、もうこの山を見物に登って来る暇も、残ってはいまい。」




