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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第二十六話 乱れる尾張・半分の書状

その日の午後、小牧山の中腹に新たに設けられた詰所へ、最初の「確かな証拠」が届けられた。


 木曽川の支流にある渡し場から、一人の巡邏隊長が捕らえられてきた男を引き立てて戻り、その場で跪いて、油紙に包まれた包みを高々と差し上げた。


 「巡邏中、木曽川の支流の小さな渡しで、不審な者を見つけました。追跡したところ、奴は川へ飛び込んで逃げ失せ、残ったのは、これだけにございます。」


 佐吉が油紙を受け取り、柳澈涵へ渡す。油紙はすでに半ばまで水を含んでおり、中からは、火に炙られて焦げた書状の一片がのぞいていた。


 「焼き切る暇はなかったようだな。」


 柳澈涵は、その半分だけになった紙をそっと広げた。残っている文字は多くはないが、墨の色はまだはっきりとしていた。


 「……もし尾張此間の形勢に変あらば、犬山は……。」


 それより先の数文字は、水ににじんで墨の塊になり、かろうじて「向」の字の欠けた一角だけが読み取れた。


 紙の裏には、小さな文字が一行だけ記されている。


 「美濃某々殿 親啓」


 署名は火でほとんど焼き落とされていたが、本分よりも新しい墨で書かれていたことだけは分かる。


 「『尾張の形勢が変われば、犬山は――』犬山は、どこへ向かうつもりだったのだ。」


 森可成が身を乗り出した。


 「稲葉山か? それとも龍興のもとか。」


 「別のところかもしれぬ。」


 丹羽長秀は手にした扇をくるくると回しながら言った。


 「だが、ここまで書いておいて、わざわざ夜の渡しを選んで書状を運ぶ――それだけで、十分に面白い。」


 「何も推し量る必要はない。」


 柴田勝家は冷ややかに言い放つ。


 「二、三人引き立ててきて、問い詰めればよいだけだ。」


 「誰をだ。」


 柳澈涵が問う。


 「この石垣の区画を預かっている頭目を一人。」


 柴田は迷いなく答える。


 「それから渡し場の周辺で見張りをしていた犬山方の小頭を一人。二人を同じ場所に放り込んで、少し言葉を混ぜてやれば、言うべきことは自ずと口をついて出る。」


 「そうやって捕まるのは、『足取りの鈍い者』だけだ。」


 柳澈涵は首を振った。


 「本当に筆を取った者は、つかまらない。今動けば、他を驚かせて散らすだけです。我らの手許には、口を割ろうとしない死体が二つと、城から抜け落ちた石が二つ、残るだけでしょう。」


 「では、お前の考えではどうする。」


 柴田は眉をひそめた。


 「やつらの内通を、そのまま見逃すというのか。この書状を、見なかったふりをするのか。」


 「見なかったふりは、いたしません。」


 柳澈涵は、半分の書状を丁寧に折り畳んだ。


 「ただし、今すぐ喉を締めるのではなく、この線を辿っていって、もう片方の端が、どこに結びついているのかを確かめてからです。」


 彼は顔を上げ、室内の面々を見回した。


 「殿が打つべき相手は美濃です。尾張の内側から、美濃の入口になろうとしている者がいるのだとしたら、我々がすべきことは、すぐに門を叩き壊すことではない。門の向こうに、何人、何家が立っているのかを、きちんと見定めることです。」


 「膿を育てる、というわけか。」


 柴田は鼻で笑った。


 「膿が膨れなければ、人を苦しめるほどの痛みにはなりません。」


 柳澈涵は、あくまで淡々と言った。


 「自分が尾張を左右できるつもりになっているときに斬り捨ててこそ、きれいに片が付きます。今日、頭目ひとりを殺しても、明日には別の名が同じ場所に座る。二年も経てば、今日の躊躇いを埋め合わせるために、十人斬らねばならなくなるでしょう。」


 柴田がなおも何か言い募ろうとしたとき、上座の信長が口を開いた。


 「柴田。」


 声は張り上げられたものではなかったが、その一言で室内のざわめきはすべて押しつぶされた。


 「今、お前が兵を率いて犬山へ問い質しに行けば、やつらはどう感じる。」


 柴田は拳を握り、答える。


 「殿が疑いを抱き、もはや信頼しておられぬと受け取るでしょう。」


 「であれば、なおさら川向こうを振り返るだろう。」


 信長は言う。


 「今はまだ、『もし尾張の形勢が変われば』と、半分だけ紙に書くしかできぬ。だが、お前が刀を抜いて見せれば、次には一行丸ごと書き切る度胸が出てくる。お前は、やつらの代わりに、その一行を完成させたいのか。」


 柴田は黙り込み、やがてうつむいたまま、低い声で言った。


 「……拙者の早とちりにござった。」


 「早とちりではない。真っ直ぐなだけだ。」


 信長は首を振る。


 「戦場では、その真っ直ぐさこそが、お前の刃を支えている。ただ、人の中には、武士のやり方で斬る価値もない者がいる。」


 彼は半分の書状を受け取り、二度ほど目を通してから、不意に笑みを浮かべた。


 「だが、手間が省けたな。」


 「手間が……?」


 丹羽が片眉を上げる。


 「どこが省けたというのです。」


 「『尾張を乱す』という文字を、先に書いてくれた。」


 信長は言った。


 「いずれ奴らを滅ぼすとき、私はこう言えばよい――自分で書き残した言葉どおりにしてやっただけだと。」


 室内の面々は、互いに顔を見合わせた。


 森可成が、口角を上げる。


 「悪くはないですな。では、もうしばらく待つとしましょう。線がもう二、三巻き、ぐるぐると回るまで。」


 線は闇の中で、ゆっくりと、しかし確実に絡み合い締まっていく。小牧山を渡る風は、それでもいつもと変わらぬように、石垣と陣のあいだを吹き抜けていた。

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