第二十三話 河畔試鋒・霧中の火光
川縁を渡る風は、山の上よりも一段と冷たかった。
このあたりで木曽川は支流を分け、そのために少し高くなった河原を形づくっている。対岸には低い林が広がり、その中に木杭を打ち立てて組んだ小砦が一つ。柵は高くはなく、粗い丸太と泥をただ積み重ねただけの代物だ。外側には柴を束ねた竿が数本、破れ布を括りつけられて立っており、辛うじて「旗」と呼べるかどうか。いま、砦の上から立ちのぼる煙は薄く、守備の兵数が多くないことが見て取れた。
本陣側の岸には小さな土手の一部を削ってならし、仮の指揮台が設けられている。
信長はその土手に腰を下ろし、背後には織田家の木瓜紋の大旗と、数名の近習が控えていた。膝の前には小さな机が据えられ、その上には簡略な地図が広げられている。
柳澈涵は、さらに前方の線上に立ち、先陣の指揮を執っている。二人の間はわずかな距離で、そのあいだを伝令が駆け抜けては、前線と土手上の本陣を一本の線に繋いでいた。
「対岸には、三百ほど。」
柳澈涵は目を細め、しばし眺めてから言った。
「そのうち、真に戦に慣れているのは半分といったところでしょう。」
「とても強そうには見えませぬな。」
利家は長柄の槍を握りしめる。
「先生、この様子なら、一気に渡河して砦に火を掛け、やつらを川へ叩き落とすぐらい、造作もなさそうですが。」
「難しいのは、目の前の砦ではない。」
柳澈涵は、さらに遠くを指さした。
「難しいのは、その砦の奥に隠れている『応え』だ。美濃が、本当にこの程度の兵しか寄こさぬのなら、ただの愚か者。だが、やがて山の向こうから、数千の旗が転げ落ちてくるようなら――少しはやる。」
そこでいったん区切り、隊列の方へと振り返る。
「だから、この戦は、三百と戦っているつもりで戦いながら、いつも背後に三千がいるつもりで動かねばならない。足元を踏み外さず、手元も緩めぬこと。」
「木下隊と鉄砲組、前へ。河岸の土手の陰に伏せ、やつらの矢台と見張り台を撃ち落とせ。」
「利家隊はやや後ろ。第一波の火力が通ったのを見てから、渡河して砦を奪え。本陣と殿は、本岸の高みから全体を見通す。山の向こうに大隊が現れたら、即座に退陣の号を鳴らす。」
「追撃はしないのですか。」
利家が堪えきれず問う。
「この戦は、首級の数を稼ぎに来たものではない。」
柳澈涵はきっぱりと言った。
「今日の力を、この数百の討ちもらしに費やせば、明日、その数千を追いつくことはできぬ。」
利家は奥歯を噛みしめた。
「承知。」
木下藤吉郎が、にやにや笑いながら拱手する。
「先生のおっしゃるとおりに致しましょう。今日のところは、美濃の方々に『お参り』して差し上げましょうぞ。小さな砦を一つ焼いてさしあげれば、向こうさんの胸の痒みも、少しは収まるでしょう。」
「太鼓、打て。」
鼓の音が石を投げ込んだように響き、川面に漂う霧を破った。
鉄砲組が一歩前へ出て、やや高くなった土手の上に腹ばいになる。木下藤吉郎が小旗を振ると、第一列の火縄銃が一斉に持ち上がり、対岸の砦の見張り台へと銃口を向けた。
「撃て。」
火花が一筋走り、銃声が谷を震わせる。砦の上の二つの木台が瞬く間に砕け散り、一人の兵が、木片もろとも下へと転げ落ちた。
第二列の火縄銃がすぐに前へ詰め、砦の上の混乱した弓兵たちを叩き伏せるように射撃を続ける。
川向こうはたちまち騒然となり、やがて慌てたように矢の雨を返してきたが、その多くは川石や水面に突き立つばかりで、こちら側に届いたものは極わずかであった。
柳澈涵はしばらく様子を見ていたが、ふいに命じた。
「左翼の火力を、少し抑えろ。わざと、一筋、隙があるように見せておけ。」
藤吉郎はすぐに意を悟り、手早く命令を伝える。
ほどなくして、対岸から「いまのうちに川を渡って斬り込め」と誰かの叫ぶ声が上がり、砦の門が開いた。
どっと人影が飛び出し、わめきながら河原へ駆け下りてくる。
「来たな。」
柳澈涵の口元がわずかに動いた。
「利家。」
「ここに。」
「先頭で長槊を掲げている隊――あれが本当に戦える連中だ。まず、あいつらの隊形を崩せ。」
利家は応じて槍を振りかざし、自分の隊を率いて冷たい川へ踏み入っていった。
水は骨身に染みるほど冷たい。しかし彼の足は止まらず、声を張り上げながら隊列をわずかに斜めに整え、相手の突撃隊の側面へとぶつかっていく。
短く激しい衝突ののち、利家の姿は楔のように川床に打ち込まれ、対岸から押し寄せた突撃の形を、ぐいと折り曲げてしまった。
背後から足軽たちが雪崩れ込み、側面からは鉄砲の援護射撃が断続的に続く。その一斉射ごとに、敵が陣形を立て直そうとする瞬間は、ことごとく断ち切られた。
「深追いするな。」
柳澈涵は本岸から食い入るように戦況を見つめ、砦の中で旗印が後退し始めたのを認めるや、すぐに鈴を鳴らした。
「砦の中を根こそぎにする必要はない。まずは門を押さえ、柵を壊し、柴を燃やせ。」
利家は倒れた柵を踏み越えながら砦の門を突き破り、自ら数本の主柱を斬り倒し、壁際の柴束を蹴り崩した。後続の足軽たちが火を放つと、炎は乾いた草から柵へと這い上り、風に煽られてぱちぱちと音を立てながら燃え広がっていった。
火の光が川面に揺れる。
だが柳澈涵の目は、炎には向いていなかった。彼の視線はさらに遠い山あいに注がれている。
「先生。」
木下藤吉郎がそっと近寄って、小声で告げた。
「山の向こうで、旗が動いているように見えますが。」
「それを待っていた。」
ほどなくして、山あいの向こうに、いくつかの大きな旗が現れた。色も紋もまちまちで、遠くから角笛の音もかすかに届いてくる。だが、その旗はなかなか河原へ近づかず、行ったり来たりしながら、迷っているかのようだった。
「美濃の連中は、まだこちらの人数を数えている。」
柳澈涵は目を細めた。
「ならば、永遠に数え切れぬようにしてやろう。」
彼はふり返り、土手の上の信長へ、軽く手を上げた。
信長はすぐにその意味を汲み取り、近習に命じる。
「伝えよ――柳の号に従え。」
柳澈涵は鈴を鳴らした。
「退陣の号を。」
撤退の角笛が谷に響き渡り、隊列は整然と河原から本岸へと引き上げていく。利家は戦いながら後退し、追いすがろうとする敵の線をもう一度押し返してから、ようやく川を挟んで距離を取った。
最後の一隊の足軽が岸をよじ登ったとき、柳澈涵は一度だけ振り返った。
小砦は黒い煙の塊となり、崩れた木材からはまだ火の粉がくすぶっている。山あいの旗は、とうとう河原まで降りてくることなく、何か見えぬ壁に阻まれるように、遠くで揺れているだけだった。
「よし。」
彼は低く呟いた。
「戻って、今日の盤面を描き直そう。」




