第二十一話 清洲軍議・七百の軽兵
数日後、清洲城。
脇の広間には描き上がったばかりの簡略な図が広げられ、木曽川は太い線となって紙上をうねり、両岸には村々と小さな砦の位置が、異なる色の墨で書き込まれていた。
柴田勝家、森可成、佐久間信盛、丹羽長秀、前田利家、木下藤吉郎らが左右に並び座る。皆、平服の羽織姿であったが、いつもの冗談めいた笑いは影を潜めていた。
信長は上座に長くは座らず、図の脇に立ち、その視線を柳澈涵に預ける。
「この一陣は、大軍の出兵ではない。」
柳澈涵はそう切り出し、指先を図の一点に置いた。そこは小さな河湾である。
「清洲、那古野、犬山から、それぞれ選りすぐりの兵を少しずつ抜き、合計七百。名目は『木曽川の巡行』。」
「美濃の目から見れば。」
柴田勝家が低く言う。
「軽兵の踏み荒らしよ。」
「そのとおり。」
柳澈涵はうなずいた。
「我らは小牧山の麓に集結し、川沿いにさかのぼって、この地点――。」
彼は指を少し上へ滑らせ、木曽川北岸の小高い河原を軽く突いた。
「この河原の小砦を先に押さえます。一日半、長くて二日。奴らの木柵を壊し、積み上げた薪を焼き払って、そこへ尾張の旗を立てる。そして、さっさと引き返す。」
「たった二日でか。」
前田利家が思わず声を上げる。
「それでは、戦が温まる暇もない。」
「戦の値打ちは、日数で測るものではない。」
柳澈涵は、ちらりと利家に目をやった。
「長く守れれば『堅い』。巧く守れれば『生きている』。殿が今度求めておられるのは、大勝利の評判ではない。対岸が、即座に何千を、どの道筋から繰り出してくるかを、見ることだ。」
森可成が顎をさすりながら言った。
「つまり、美濃の兵路と兵数、それに反応の速さを見るわけだな。」
「それと、人心です。」
柳澈涵は図から手を離し、列座する面々を見渡した。
「この一年あまり、諸隊の兵は尾張国内で鍛錬と巡邏に明け暮れました。中には、こう思い始めている者もいるはずです――『どうせ殿はいまは手慣らしをしておられるだけ、本気で命を賭ける日はまだ遠い』と。であるならば、まずは見せてやるべきでしょう。これは決戦ではない。だが、まごうかたなき真剣勝負であると。」
柴田勝家が、重い声で問うた。
「もし美濃が総力を挙げて出てきたら、どうする。」
「そうなれば上々。」
柳澈涵は即座に答えた。
「我らが小牧山へ退きながら、やつらの旗をいくつ数えたか。どの道を通ってきたか。そのすべてを、紙の上で描き直せます。」
丹羽長秀が、くすりと笑った。
「聞いていると、自分を餌にするつもりにしか聞こえぬが。」
「殿が陣中におられる。」
柳澈涵は静かに言う。
「拙者など、水深を確かめるための一歩に過ぎませぬ。」
そこでようやく、信長が口を開いた。
「そこまで話されて、なお異論のある者は。」
柴田勝家が、どすんと拳をついた。
「試しの陣とあらば、柴田本家の精鋭百をお供させていただきます。」
「森家も負けてはおられぬぞ。」
森可成は笑って拱手した。
「こういう面白い場には、顔を出しておきたい。」
前田利家が立ち上がる。
「小前田、先鋒を願い出ます。」
「先鋒は、すでに決まっておる。」
信長は一瞥をくれ、視線を柳澈涵へ移した。
「先陣総奉行は柳。利家はその麾下に付け。柴田と森は各々精鋭を率いて従い、大きな側面隊は置かぬ。軽さと鋭さを優先する。」
ひと呼吸おいて、さらに言葉を継いだ。
「犬山からも兵を出させろ。自分の眼で、この河の向こうがどんな顔をしているか、見せてやれ。」
広間に、一瞬の沈黙が落ちた。
木下藤吉郎の目がきらりと光り、そっと半歩、前へ出る。
「それでは、この木下めを、先生の足もとの石とお考えくだされ。」
「石がしっかりしておれば、足も遠くへ踏み出せましょう。」
柳澈涵は思わず口元を緩めた。
「よかろう。お前には、足もとの泥の具合を、よく見ておいてもらおう。」
信長はうなずいた。
「では、そう定める。」
「忘れるな。この一陣の勝敗は、何人斬ったかでは決まらぬ。戻ってきたときに、対岸がどのようであったか。この岸で、誰が足を引いたか――それを、どれだけはっきり言葉にできるかで決まる。」




