第二十話 小牧山初陣・牙は北を向く
永禄六年(一五六三年)早春、小牧山の土には、まだ冬の雪が溶けきったばかりの湿り気が残っていた。
清洲から川沿いに北へたどっていくと、視界が平らな田を抜けたあたりで、急にそれが行く手を塞ぐ。一際高いわけではないが、妙に目につく小高い丘である。四方の斜面はおおむねなだらかだが、ただ北側だけがわずかに急峻で、まるで誰かが平地から盾を一枚、ぐいと引き起こし、そのまま遠く霞む山影――美濃の稲葉山――に向けて立てかけたかのようであった。
信長一行は、その山裾で馬を止めた。
薄い雲が低く垂れこめ、木曽川の流れからはもう氷も雪も消えているのに、水の色だけはまだ鋭く冷えきっている。遠くの田には、苗を植える人影はまだ見えず、ところどころに農家が数軒、用水路を直し、堤を補修しているばかりだった。
「この山をな。」
信長は手綱を引き、馬の蹄がぬかるみに一筋の水の跡を刻む。
「羊を放すためだけに使うとしたら、少々もったいない。」
声音は軽く、誰に答えを求めるでもない。
柳澈涵は、そのすぐ傍らに立っていた。肩には古びた羽織を引っかけ、白い髪は風に押されながらも乱れずにおさまっている。彼もまた信長の視線の先を追い、小牧山の中腹を見渡した。一方は木曽川が大きく曲がる河岸を見下ろし、もう一方は遠く稲葉山の淡い輪郭を望むことができる。
「清洲から美濃を見るのは。」
柳澈涵は口を開いた。
「家の中から窓越しに隣の庭を覗くようなものです。風は入ってきても、手は届かない。ですが、ここから稲葉山を見るのは、壁の根元へ手を差し込むようなもの。」
信長は小さく笑った。
「つまり、そろそろ手を伸ばすべきだと。」
「手を伸ばす前に。」
柳澈涵は身を翻す。
「まずは壁の向こうに、どれほどの棘が潜んでいるかを確かめねばなりません。」
そして信長の背後、尾張の平野を振り返った。
「殿がここに城を築かれるなら、それは牙の先。北へ向けて、美濃の肉を噛むための牙となるでしょう。――その折を借り、拙者も二つばかり、試させていただきたいものがございます。」
「二つとは。」
「ひとつは、美濃の国境を預かる兵の、本当の腕前。」
柳澈涵は河向こうを指さした。
「いま強いのは、紙の上と酒席の口だけか。それとも、泥だらけの地面の上でも強いのか。」
「もうひとつは。」
信長が促す。
「もうひとつは――。」
柳澈涵は手を下ろし、今度は背後の尾張の平原に目を向けた。
「尾張の中で、誰が殿とともに泥をかぶる覚悟を持ち、誰が、ただ遠くからこの一陣を眺めていたいだけなのか。」
信長の笑みは、口元から目許へと、ゆっくりと広がっていった。
「つまり、お前は最初から、わざと少数だけを連れて、あの蝮をつつきに行くつもりか。」
「飯を運びに行くわけではございません。」
柳澈涵は静かに言う。
「わざと七百の軽兵だけを連れていく。勝っても引いても不自然ではない、小さな戦に足るだけ。美濃側から見れば、殿が辺境でよくある小競り合いを仕掛けたとしか見えず、本気を出してこないでしょう。尾張の側から見れば、誰がこの一陣を命を賭す一戦と捉え、誰がただの見物と見ているのかが分かる。」
小牧山の風は強くはなかったが、袖口の中へとじかに入り込んでくる。信長はしばし黙し、山腹のまだ手が付けられていない林を仰ぎ見た。彼の脳裏には、すでにそこに城壁や櫓楼、旗が翻る光景が浮かんでいるかのようだった。
「よかろう。」
そう言って、信長は手綱を緩めた。馬の鼻先から白い息が吐き出される。
「この一陣は、七百で足りる。」
そして柳澈涵を見やる。その眼差しには、先ほどより一段深い色が宿っていた。
「お前が先陣を率いよ。私は本陣を連れて従う。」
「ひとつだけ忘れるな。」
「試しの陣では、面子は捨ててもよい。だが命は捨ててはならぬ。人の命は、この一度の探りよりも重い。」
「承りました。」
柳澈涵は馬上から身を折って礼を取った。
ただ、彼はよく知っていた。こういうことを口にする者ほど、いざとなれば、自分の命を真っ先に戦場へ投げ込む類の人間だということを。




