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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第十九話 澄斎の新年・雪中の客

永禄五年(一五六二年)も押し詰まった頃、清洲には三日続きで雪が降っていた。


 城郭は灰白の空の下、いつもより低く沈んで見え、天守に掲げられた家紋の旗は雪に押し潰されて半ば垂れ、北風がふいに強く吹き上げたときだけ、尾を振るように雪の粒を振り落とした。城下町は思いのほか寂れてはおらず、炭売りの呼ばわり声や、豆腐を挽く石臼の音が、幾重にも折り重なる白い息のあいだから、かすかに聞こえてくる。


 清洲城下・北岡一帯。城郭の内側に近い小高い丘の上に、一見してただ者ではないと分かる屋敷が一つ建っている。


 塀はさほど高くはないが、石垣はきっちりと整えられ、雪は左右にきれいな二筋の山に掃き寄せられ、そのあいだに一本の清められた小道が、真っ直ぐに表門へと延びている。扉には鉄金具が打たれ、門額の中央には素木の扁額が一枚掛かっている。そこには、はっきりと三文字――


 「澄斎」とあった。


 墨の色はまだそう古びてはおらず、筆はぶれずに、どこか書家の骨ばった気配を帯びている。かつて刻まれていた「北岡屋敷」の三文字は、細かく削り落とされており、木目の奥にだけ、かすかな痕が輪のように残っている。それは、この屋敷にもともと染み付いていた匂いが、新しい主の息遣いに少しずつ押し込められているようでもあった。


 門を押し開けると、足元にはきちんと敷き詰められた小石の道が続く。積もった雪は左右に掃き分けられ、その下から灰白の石肌が覗いている。道の両側には常緑の低木がいく本か植えられ、若い紅梅が一本、まだ固くつぼみを閉ざしながら、雪の中にわずかに暗い紅を覗かせている。その先には広い中庭と、それをぐるりと取り巻く縁側。主屋の軒はどっしりと低く張り出し、風雪の大半を受け止めていた。


 早朝、主屋の一角の木格子の窓が、真っ先に灯りをともした。柳澈涵の書斎である。


 室内には畳が隙間なく敷かれ、内側の壁に沿って低い机が置かれている。机の片側には文房四宝が整い、もう片側には数巻の地誌や軍記が重ねられている。壁際には低い棚が一列並び、あちこちからかき集めてきた兵法書や、寺の帳簿、村の田地の勘定書、古びた経巻などが並べられている。最上段には竹筒が一本、無造作に横たえてあり、口からは巻き上げた地図の端が少しのぞいていた。


 机の前には銅の火鉢が一つ。炭火はちょうどよい赤さで、はねもせず、煙もくどくない。


 柳澈涵は座布団の上に胡座をかき、一方の手に巻物を支え、もう一方の手に筆をとって、紙の上に細かく書き加えている。


 紙には見慣れた二本の川――木曽川と長良川が描かれている。尾張側には、すでに細かな文字がびっしりと書き込まれており、美濃側には星のように小さな丸印が散っている。どの寺が粮を集めやすいか、どの道に追い剥ぎが出やすいか、どの城代が博打好きか――いずれも、あの夏の「無刀の戦い」で持ち帰った断片であり、今、この一枚の紙の上で、ゆっくりと枝葉を伸ばしつつあった。


 「……『冬月のころより、市の気配、いくぶん安し』。この一行は記しておくか。」


 空白の一角にそう書き添え、その傍らに「兵粮、いまだ逼らず」と小さく記す。


 引き戸が、かすかに音を立てた。


「主君、城内からの歳暮は、すべて改め終わりました。」


 佐吉が身をかがめて入り、両手に盆を捧げている。盆の上には折り畳んだ受け取りの礼状が幾枚か、その横に家紋入りの小さな絹の袋がいくつかと、新しい手拭いが二巻。


「柴田殿のところからは、良い酒が二本。『夜は濁りばかり飲まず、たまには清いのも飲め』とのことでございます。」


 佐吉は報告しながら、礼状を机の端に広げてゆく。


「前田少殿からは、新しい脚絆。『来年は足を使うことが増える』ゆえに、先に靴の支度をとのこと。林殿からは、『清洲旧城と河道の変遷』と題した古い絵図が一巻、『ご覧あれ』と。」


 そこまで言って、思わず笑みがこぼれた。


「殿のお言葉がいちばん簡単でございました。手紙が一通、『紙の上でばかり川や山を描いている男を、来年は本物の川へ連れ出せ』と。」


 柳澈涵は顔を上げ、目の奥にかすかな笑みを浮かべた。


「どうやら殿の中では、木曽川のあたりは、もはや釣り場だけではなくなったようだ。」


「お隣の地を釣り上げに行きたくなられたんでございましょう。」


 佐吉も笑う。


「年の暮れに殿が振る舞い銀を惜しまれなかったおかげで、こちらも雪のうちに瓦と門を新しくできました。『澄斎』の三文字を掲げても、恥ずかしくはありますまい。」


 彼は火鉢を一瞥し、ついでに炭を一つ足した。


「ここ数日で炭の値もまた一割ほど上がりましたが、主君にはご心配なさらぬよう。殿からの下賜に、幸蔵のところからの月々の上がりもございます。この冬、しっかり炭を焚いても、無駄とはなりますまい。」


「金が血の匂いの濃いところから来るのなら、なおのこと穏やかなところへ使ってやるべきだ。」


 柳澈涵は巻物を巻き戻し、竹筒に差し込んだ。


「この屋の中を少しでも暖かくしてやるのは、あいつらに陰徳を積ませるようなものだ。」


「承りました。」


 佐吉が返事をして、下がろうとしたとき、庭の方から足音が聞こえてきた。雪を踏む「きゅっ、きゅっ」という音が、やけにくっきり響く。


「先生――豆腐、買ってきました!」


 弥助の声が先に飛び込んできた。


 戸が細く開き、雪の匂いを含んだ冷気がすっと流れ込み、細身の少年の影がそれを追うように部屋へ滑り込む。


 彼は張りのある紺の綿入れを着込み、帯をきりりと締め、新しく替えた草履には、まだわずかに泥が残っている。両手には竹籠をささげ、布でくるんだ豆腐と蒲鉾が、籠の中に収まっていた。


「城東の豆腐屋が言ってました。先生が寺との揉め事で何度か手紙を書いてやったおかげで、あの古い借金を取り返せたって。」


 弥助は、嬉しさを隠しもしない。


「だから今回は豆腐を一丁おまけしてくれました。『先生の筆はよく利く』お礼だそうで。」


 彼の言葉が終わらぬうちに、後ろから二人が続いて入ってきた。


 阿新は大きな竹籠を提げ、その中には米袋や野菜が詰まっている。片手には小さな酒樽も下げていた。阿久は袖を肘まで捲り上げ、髪を簡単に束ね、頰に粉を少しつけながらも、実に元気そうだ。


「主君。」


 阿新は膝をつき、竹籠を脇に置いた。


「今日の城下では、米の値は冬入りのころより高うございましたが、抜きんでた買い占めも見られず、寺にも施粥の貼り紙が出ておりました。この様子なら、今冬はどうにか持ちこたえられましょう。」


 阿久が笑って言葉を継ぐ。


「通りには魚や豆を買う人の姿もあり、年の市の屋台もきちんと並んでいました。贅沢な品はほとんどありませんけど、戸口に稲穂を少し、松葉を二、三本吊るすぐらいはできそうです。戦国の世にしては、上等なお正月です。」


 佐吉がうなずく。


「こちらの支度も――餅、魚、酒、菜、主君のお言いつけどおり、すべて整えてございます。今夜、まずはかまどの神に供え、明朝早く主君が城中へ殿下のところへ年始をなさって、戻られたら、皆で新年の膳を囲むという段取りに。」


「まず殿に挨拶に行くのは筋だ。」


 柳澈涵は言った。


「お前たちは、お前たちなりのやり方で年を越せばよい。あまり形式ばかりに縛られるな。」


 弥助が、間を置かず口を挟んだ。


「でも、先生が帰ってきてから、もう一度食べないと。」


 阿久が彼をにらみつける。


「その前に、まず大根をまっすぐ切りなさい。」


 小さな笑いが、屋の中いっぱいに広がり、外の雪音をすっかり押し流した。


 ――


 翌朝、雪は幾分薄くなったものの、空は相変わらず灰色だった。


 清洲城の内は、すでに正月支度に衣替えしている。大手門には松竹の飾りが掛けられ、湿った冷気の中に、わずかな青い匂いを漂わせている。大広間へ続く長廊下には、灯籠が一列に吊るされ、紙の覆いには「寿」「武」の文字が刷られていた。足軽たちは雪を掃き、灯籠を掛け替え、鎧の皮紐がその肩先で揺れて、小さな擦れる音を立てる。


 柳澈涵は召しに応じて登城し、諸将とともに側殿で控えた。


 柴田勝家は上座の脇にどっかりと座り、肩は広く背は真っ直ぐで、そこに岩を一つ据えたようである。林秀貞はややうつむき、丹羽長秀と低い声で何事か囁き合っている。森可成は笑いながら前田利家と軽口を交わしている。利家は新しい具足に身を包み、腰の長刀の鞘をぐっと下げて差している。砥ぎ上がったばかりなのは一目で分かった。


「柳殿も、今年からは北岡の方から上って来られる。半ば『内城の人』ですな。」


 森可成が笑って言う。


「これまでは城下に白髪の先生がいるとしか聞きませんでしたが、これで本物の話をもう少し聞けましょう。」


「本当のことばかり聞いていると、耳が痛くなりますよ。」


 丹羽長秀が淡々と続けたが、目を上げて柳澈涵に軽く頷いた。


 鈴の音が響き、大広間の帳が持ち上げられた。


 織田信長は濃い色の狩衣をまとい、腰に双刀を帯び、急ぎすぎず、緩みもせぬ足取りで入ってくる。一同、頭を垂れて拝礼した。


「面を上げよ。」


 信長は手を上げ、視線をゆっくりと巡らせた。その目は、この一年のあいだに誰がいなくなり、誰が加わったかを、ひとりひとり数え上げるようでもある。最後に、その視線が柳澈涵の上に一瞬とどまった。


「今年の雪は、そうひどくはない。」


 口を開く。


「道も塞がらず、勘定も止まらぬ。あちこちの蔵では、この冬、餓死した者は出ておらぬか。」


「ははっ。」


 林秀貞が頭を垂れる。


「尾張の内におきましては、大飢饉との報せは、いまだ聞き及んでおりません。」


「それは結構。」


 信長の調子は、どこか他人事を口にしているような淡さだった。


「戦に出る前に餓死者が多いと、行軍の足並みが乱れる。それが嫌いだ。」


 その言葉に、諸将の胸の内で、冷たいものがすっと走った。


 新年の第一声は、祝いの言葉ではなく、粮と兵の話であった。


 信長は上座に落ち着くと、木の盆を持って来させた。盆の上には、各地から届いた数通の書状と、一巻の粗い地図。


「今年、肝心なことが三つ。」


 彼は指を三本立て、その一本ずつを折りながら言った。


「一つ。尾張の内、締めるところは締め、緩めるところは緩める。尻尾を残さぬように。」


「二つ。三河――松平元康とはすでに手を握った。次にあの男が、自分の足で立てるかどうか、見てやる。」


「三つ目は……。」


 指先が地図の上を滑り、美濃の一角で軽く止まった。


「あの蝮の巣の連中も、この一年、騒がしくなってきた。卓をひっくり返したがる者もいれば、ただ酒を多く飲みたがるだけの者もいる。我らは城下で風を眺め、もう一年分は見た。そろそろ手を伸ばして、山の方へ歩いてもよかろう。」


 広間は水を打ったように静まり返った。


「柳。」


 信長がふいに名を呼んだ。


「は。」


 柳澈涵が立ち上がる。


「この一年、清洲にいて、何を見た。」


 柳澈涵は一瞬伏目になり、考えを整えてから答えた。


「城下の賭場で、美濃を罵る声の方が、殿を罵る声より多うございます。」


 殿中の誰かが思わず吹き出しかけたが、柴田の一睨みで、すぐに笑いを飲み込んだ。


「詳しく。」


 信長が促す。


「殿を罵る声の多くは、腹が減りすぎて、つい口から出たものでありましょう。」


 柳澈涵は続けた。


「美濃を罵る声は、向こうの徴税がこちらよりきつく、冬場には、罵る気力すら残らぬ者が多く、ただこちらへ逃げてくるからでございます。」


「尾張へ逃げてきた者は、どこへ流れる。」


「寺の施粥の列に並ぶ者もいれば、土木仕事で石を担ぐ者もおります。あとは……幸蔵のところへ行って最後の一勝負をしようとする者たちも。」


「最後の一勝負?」


 信長は口元だけで笑った。


「何を賭ける。」


「『生きて帰れるかどうか』でございます。」


 柳澈涵は淡々と言う。


「幸蔵のところでは、あらかじめ決めておいた通り、彼らの最後の一膳の飯代は受け取りませぬ。その代わり、口から出る言葉だけを受け取ります。」


「ふむ。」


 信長は一通の状紙を手に取り、軽く振って見せた。


「ここにはこうある――『清洲城下より美濃との境に至るまで、酒肆と賭場は日ごとに増え、美濃を罵る者もまた日ごとに増す』。」


 視線を再び柳澈涵に戻す。


「どうやら、紙に書く者たちより、お前の耳の方が、よほど役に立つようだな。」


「拙者はただ、『風の集まるところ』に立って聞いているだけにございます。」


 柳澈涵は答えた。


「その風を嵐に変えられるかどうかは、殿のお心一つ。」


 信長は喉の奥から笑いを漏らした。


「よい。」


 状紙を盆に戻す。


「新年に余計なことは言わぬ。今年、出陣があれば、お前も諸将とともに、日の下に立て。」


 そう言って、酒を注ぐよう合図をした。正月の祝酒が順に巡り、柴田、丹羽、林、森らが次々と前に出て、祝辞を述べたり、意見を差し出したりするうちに、広間は徐々に熱を帯びていく。


 柳澈涵は末席に退き、静かに諸将の口からもれる馬、鉄砲、兵粮の話を聞いていた。心の内では、信長の三本の指を一本ずつほどき、自分の紙の上に並べ替えていた。


 ――尾張を締める。三河を見極める。美濃で刃を試す。


 雪の清洲城は、熱い酒と鎧のきしみの音の中で、いつの間にか別の匂いに変わりつつあった。


 ――


 日が西に傾き、城中での式は終わった。


 柳澈涵が清洲城を出るころには、雪はすでに止み、軒先からは水滴が落ち、石段にはうっすらと氷が張りついていた。


 北岡へ戻ると、澄斎の門前はすでにきれいに掃き清められており、門の脇には松竹と南天の赤い実が束ねて立てられていた。阿新と阿久が手を尽くしたのが見て取れる。


 「主君がお戻りだ!」


 弥助が廊下から飛び出し、門口まで駆けてきたが、途中で作法を思い出したのか、ぎりぎりのところで足を止め、手足を揃えて、きちんとした礼をとった。


 「城から、何かうまいものをいただいてきたんですか。」


 結局は抑えきれずに問う。


 「少々な。」


 柳澈涵は袖から紙包みを取り出し、彼に渡した。


 「殿のところの年菓子だ。利家が、こっそり回してくれた。」


 弥助の目がぱっと輝く。


 「前田の小少将は、本当に気のいい方ですね!」


 廊下の奥から阿久が現れ、後頭部を軽く小突いた。


 「その前に、まず手を洗ってから包みを開けなさい。」


 柳澈涵は衣を着替え、腰を下ろして一息ついたところで、庭の外からまた足音が聞こえてきた。先ほどよりも、重さと節度のある歩みである。


 阿新が急いで入ってきて、声を落とした。


 「主君。殿がお越しです。」


 屋にいる者たちは、思わず一斉に身を固くした。


 外では長屋門が開かれ、一行が庭に入ってくる。


 織田信長は濃い色の狩衣に双刀を帯び、外套も鎧も身に着けていない。前田利家が従い、そのすぐ後ろに控えている。さらに二人の近習が、門のそばに控えて遠巻きに見守っていた。


 信長はまず庭の真ん中に立ち止まった。


 老松から目を走らせ、井戸枠や石灯籠へと移し、それから土蔵の重い戸板を見やりながら、この屋敷から漂う昔の匂いと、今の匂いとを半分ずつ取り分け、心の内で静かに秤に掛けているようだった。


「この屋敷、空け家だった頃より、幾分か気の通りがよくなった。」


 何気ない調子でそう一言こぼす。


 柳澈涵はすでに縁側に出て、身を折って出迎えていた。


「殿下。」


「長屋から西町へ、西町からここへ。」


 信長は縁側に上がり、そのまま腰を下ろした。


「屋は二度変わったが、中身の男は変わらぬな。」


 茶はすでに用意されている。利家が盃に一杯注いで信長に差し出し、また一杯を柳澈涵の前に置くと、自らは脇に控えた。


「澄斎。」


 信長は門額の扁額を見上げた。


「これはお前がつけた名か。」


「は。」


「『澄』の字は悪くない。」


 信長は言った。


「ただし覚えておけ。家は澄んでいてよいが、人の心まであまり澄ませるな。澄みすぎると、余計な汚れまで見えてしまう。」


「見えていた方が、見えぬよりもよろしゅうございます。」


 柳澈涵は答えた。


「それで自分の手を煩わせることになっても、であるか。」


 信長は口元を緩め、茶を一口含んだ。


「新年には、本来なら良いことだけを言っていればよいのだがな。私は今、美濃の城のことを考えている。あそこの人間は、心が濁りきっていて、何が何だか分からぬまま生きている。それでかえって、のうのうとしておる。」


「のうのうとしていられるのは、自分が盤の上に乗せられている駒だと知らぬ間だけでございます。」


 柳澈涵は言った。


「ひとたび、自分が局の中にいると気づいたら、もう元へは戻れません。」


 信長は茶碗の縁を指先で軽く叩いた。


「お前は清洲に来て、もう一年になる。」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「この一年、お前は、私が自分では聞きに行きたくとも行けぬ声を、ずいぶん聞いてくれた。」


「この屋は暖かい。炭は十分。台所には飯があり、下の者もよく動く。」


 目線を廊下の一隅へ走らせる。


「そういう暮らしは、性に合っているか。」


「ひとえに殿のおかげにございます。」


 柳澈涵は答えた。


「佐吉がどれほど算盤を弾いても、こういう日々は計算に出ません。」


「多少は豊かである方がいい。」


 信長の口調はさらりとしている。


「私は、貧乏人と戦をするのが好きではない。腹を空かせて戦う連中は、ただ一杯分の飯をあさることしか考えぬ。扱いづらい。」


 彼は茶碗を置いて立ち上がり、廊下を二、三歩歩いた。


「来年、兵を動かすことになれば、ここも今日のように静かではいられぬ。」


「澄斎にいる者は、皆すでに局の中におります。」


 柳澈涵の声は静かだ。


「いつ風がここまで吹き込むか、それを待つだけ。」


 信長は廊下の途中で立ち止まり、振り返って柳澈涵を見た。その目には、かすかな満足の色が浮かんでいた。


「よい。ならば、この屋根を落とさぬようにしておけ。」


 彼は縁を降り、利家が後に続く。庭を数歩進んだところで、ふと思い出したように横を向いた。


「そうだ。幸蔵とかいう男。賭場の規則を、うまく作ったな。」


「殿のお耳にも。」


「この城の誰が咳をしたかくらい、私が知らぬはずがなかろう。」


 信長は淡々と言う。


「これからも、お前の決めたとおり続けさせろ。あの賭場がいつか人殺しの場になったら、まずお前の咎として問う。」


「肝に銘じます。」


 信長はそれ以上多くは語らず、供を連れて屋敷を後にした。


 門が閉まる瞬間、屋の中の者たちは、いっせいに胸の息を吐き出した。


 「殿が……うちにお越しになった……。」


 弥助は小声で呟き、まだ目をまん丸にしている。


「婆さまが故郷でこの話を聞いたら、一生言いふらしますよ、きっと。」


 阿久が彼をにらみつける。


「その前に、まず米をきちんと研げるようになりなさい。そしたら私が代わりに手紙を書いてあげる。」


 ――


 その夜、澄斎の灯は、いつもより遅くまで消えなかった。


 台所からは煮魚と味噌汁の匂いが漂い、廊下には磨き上げた木の盆がいくつか並べられ、庭の真ん中には、客が出入りできるように広い空きが掃き出されている。


 日が落ちて間もなく、表門の外で戸を叩く音がした。


 「澄斎の幸蔵にございます。何人かの者を連れて、先生に一足早く年始のご挨拶を。」


 声は高からず低からず、よく通るのに、どこか控えめであった。


 門の小者が応え、やがて一行は主屋脇の縁側へと通された。


 先頭に立っているのは幸蔵である。


 かつて、賭場で借金を背負い、顔に煤けた色を貼りつけていた男は、今は身なりをきちんと整え、髪も乱れなく結い、衣は贅沢ではないが新しく仕立てた布で縫われている。腰に下げた金袋はたしかに重そうだが、その口はきっちり閉じられており、安っぽく見せびらかす気配は微塵もない。


 その背後には、三、四人の手代が続く。元は町のならず者もいれば、屯田上がりの足軽もいるが、今は皆、背筋を真っ直ぐに伸ばして立ち、開け放たれた障子の内側に向かって深々と一礼した。


「先生。」


 幸蔵は膝をつき、両手を畳につき、額を畳の縁に擦りつけるようにした。


「あの日、先生がたった一言、『賭の腕は使えるが、命までは賭けるな』と仰らなければ、今ごろ自分は、まだ誰かの賭場の下で転がっていたことでしょう。」


 顔を上げた目には、強い光と、抑えきれぬ高ぶりが入り混じっている。


「今では自分で卓を開き、決めた掟があり、取り分があり、余った分をこうしてこちらへお届けできる。自分にとっても、この者たちにとっても、それは二つ目の命をいただいたも同じでございます。」


 柳澈涵は上座に座り、掌にはただ一つの茶碗を持っているだけだった。羽織もいつものように地味な色合いである。


「賭場というものは、もともと刃の上に生える草よ。」


 ゆっくりと言葉を置く。


「持主が違えば、今ごろどれほどの寡婦と孤児が、あそこから生まれていたか知れん。」


 幸蔵は目を伏せた。


「先生の決めてくださった掟は、今でも一つも違えず守っております。借金を抱えた者には賭けさせず、兵の下っ端には身上をすべて預けさせることなく、いかさまを打つ者は指を折って追い出し、騒ぎを起こす者は寺の前へ放り出して仏の前に跪かせる。先生は、『これは殿のために風を集める場であって、閻王のために命を集める場ではない』と仰いました。」


「風は銀より重い。」


 柳澈涵は、彼の背後に並ぶ者たちに目を走らせ、口を開いた。


「この冬、城の怨み声はどうだ。」


 一人の手代が、頭を掻きながら答える。


「賭場のあたりで一番よく出るのは、美濃の徴税役人と、稲葉山の酒宴の噂です。『尾張の殿の方が、まだ情けがある』って。」


 幸蔵が言葉を継いだ。


「美濃から逃げてきた流民も少なくありません。最初は私のところで、一発逆転を狙うように賭けたがる。ですが先生の仰せの通り、彼らからは銀ではなく、口から溢れる話だけを預かりまして、最後の銭は城東の施粥所へ行くよう勧めています。」


 そこで火鉢の上の徳利をちらりと見やり、わずかに笑みを漏らした。


「先生は、『金は血の匂いを帯びていてもよいが、死に損ないの怨みまで背負わせてはならぬ』とも仰いました。」


「覚えておけば、それでよい。」


 柳澈涵は立ち上がり、自ら下座の空いた席を手で示した。


「今日は年の暮れだ。お前たちは帳面を持ってきたのではなく、飯を食いに来た。まず座れ。」


「そんな、恐れ多い……。」


 幸蔵は思わず身を引いた。


 佐吉が横から手を伸ばし、肩を押さえつける。


「先生が『座れ』と言われたら座れ。澄斎の屋根は、そのくらいの足跡なら耐えられる。」


 席がいくつか増えただけで、座敷の空気は、かえって柔らかくなった。


 阿新は、腹の中まで崩れるほどよく煮込んだ魚を大皿に盛って運び、魚の腹には餅米と野菜がぎっしり詰めてある。阿久は両面がほんのりと焦げるまで焼いた餅を、火鉢の網の上に並べ、返しながら焼いている。弥助は酒の注ぎ役を任され、徳利を片手に持ってはいるが、目線はどうしても餅の方に吸い寄せられ、そのたびに阿久に手の甲を小突かれていた。


「今年、賭場の方は、火の手を抑えられているか。」


 佐吉が酒をつぎながら、何気なく尋ねる。


「抑えられております。」


 幸蔵は杯を取り上げると、まず柳澈涵の方に軽く掲げた。


「先生の決められた掟を、一つも違えず守っております。卓で刀を抜いた者は、どこの家紋の者であれ、問答無用で叩き出す。」


 そこで一拍置いた。


「先日、ある若い武士が飲み過ぎて、卓の脇で殿の悪口を言い立てました。昔のやり方なら、その場で殴り殺されて川に捨てられていてもおかしくありません。ですが『人の罵りを聞け』と仰った先生の言葉を思い出し、堪えました。誰を、どのように罵ったかだけを心に刻み、手は出さずに。」


「その後はどうなった。」


「酔いが醒めてから、その男は自分から詫びに参りました。家で俸禄がいつまでたっても届かず、つい腹が立って口を滑らせたとのこと。」


 幸蔵は小さく息をついた。


「私の方からは、寺へ詫び状を書かせて香を焚かせただけで、上へは報せませんでした。」


 柳澈涵は頷いた。


「それでよい。」


 盃を持ち上げる。


「私が賭場を開いたのは、殿のために城の声を拾うためであって、骸を積み上げるためではない。もしお前が人の命までを賭けの種にして銀を稼ぎ始めたら、二度目の命をやったところで、この手で取り上げに行く。」


 幸蔵をはじめ、手代たちはいっせいに額を畳につけた。


「肝に銘じます。」


 短い沈黙の後、阿久がわざとらしく咳払いをした。


「はいはい。年越しの席なんだから、来年の良い話をもう少ししなさいよ。誰かがまた『死』なんて言ったら、その人の餅は私が没収しますからね。」


 座敷に笑いが戻った。


 弥助はその隙に、自分の椀にこっそり餅を一つ余分によそい、阿新に見つかって、わざと奪われそうになりながら、必死で守る。部屋のあちこちから、さざめきと笑い声が立ち上る。


 酒が数巡した頃には、外の風も弱まり、雪もまばらになっていた。


 幸蔵らが辞しようと立ち上がるとき、顔は皆赤くなっていたが、その足取りは乱れてはいなかった。澄斎の門前の石段の下で、もう一度深々と頭を下げた。


「先生。」


 幸蔵が言う。


「これからも、賭場の取り分は、これまでどおり月々こちらへお届けいたします。ただ……。」


 顔を上げ、柳澈涵を見据えた。


「来年は、ここへ運ばれてくるのは、銀だけでは済まず、美濃から流れてくる風の音も、もっと多くなるやもしれません。」


「それでちょうどいい。」


 柳澈涵は答えた。


「来年は、使うものが多くなる。お前のところでも、よく聞き、よく記しておけ。」


 門が閉まると、庭には雪の上に足跡だけが残った。門口から路地の角まで、いく筋もの形が並び、やがて新しく降り始めた雪に埋もれていった。


 ――


 夜更けには、澄斎の灯りのほとんどが落ちていた。


 ただ書斎の一角だけが、まだ明るい。


 柳澈涵は、再びあの地図を広げ、今日の城中の軍議で耳にしたこと、幸蔵から聞き出した断片のいくつかを、美濃側の空白へ書き足していった。ある村では冬の税があまりにも厳しく、ある城代は酒宴に溺れ、ある寺は住持が替わってから、稲葉山に対して密かに不満を募らせている――ばらばらだった情報が、紙の上でゆっくりと線を結び始める。


 最後の一行を書き終えると、蝋燭の火を吹き消し、縁側へ出た。


 庭一面が雪に覆われ、紅梅の枝は闇の中で黒く光り、ときおり雲の切れ間から星明かりがいくらかこぼれ、雪の上に散らばる。まるで細かく砕いた銀をまき散らしたようであった。


 廊の下に立ち、塀の外にぼんやり浮かぶ城の影と、そのさらに向こうの、目には見えぬ川の気配を見やりながら、彼はよく知っていた。澄斎という一軒の屋敷と、その中に暮らす幾人かの安寧は、いくつかの米俵や酒樽だけで支えられているのではない。清洲城の治まりと、信長の落ち着かぬ胸の内と、西町の賭場で翻る賽の一振り一振りに支えられているのだと。


「澄斎……。」


 扁額の二文字を、彼は低く反芻した。


「澄ませるのは、己の心であって、この世そのものではない。」


 屋根の下を抜けた風が、足もとの雪を撫で、袖口を揺らした。柳澈涵は衣の前を合わせ、ふと振り返って屋の中を見やる。弥助は布団に丸くなり、乱れた髪だけが枕からはみ出している。阿新と阿久の部屋からは、わずかな灯りと温もりが漏れ、佐吉の小さな部屋からは、帳面を繰る微かな紙の音が聞こえてきた。


 この者たちは、この盤の上で、何よりも重たい駒である。


「来年は、風がもっと強くなる。」


 彼は心の中で自分に言い聞かせた。


「信長の刃を借りて美濃の局を割りに行くのなら、その前に、この屋の梁をきちんと固めておかねばならん。」


 夜は、さらに一刻、深く沈んだ。


 永禄五年の雪は、澄斎の軒の下にあって、ようやく静かに落ち着いた。


 ほどなく、永禄六年の春風が、木曽川の方から吹き寄せてくるだろう。その頃には、川の氷は割れ、城の旗は新しい位置へ移され、賭場の言葉は今よりもずっと鋭くなり、澄斎の門も、もっと頻繁に開け閉めされるようになる。年の祝いを言い合う客だけではなく、戦の算段を抱えた者たちを迎えることになる。


 その前に、この夜の炭火と酒の匂いは、この屋に暮らす者たちと、そして柳澈涵自身にとっての、ささやかな静けさであった。

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