第十八話 無刀の戦い・十日の城下
永禄五年(一五六二年)初夏。清洲城下・西町。
雨が上がったばかりで、西町の泥道には、まだ薄く湿り気が残っていた。路地の奥に、軒の低い木造の小屋が一軒。入口には、洗いすぎて色の抜けた布切れが一枚ぶら下がり、通りから流れ込む酒の匂いと怒鳴り声を、どうにか遮っている。
中では油皿に灯が一つだけ点っていた。灯火は心許ないが、土間に広げられた一枚の粗い地図だけは、ちょうど照らしている――墨の線で木曽川と長良川が描かれ、その上には、いささか乱れた筆致で「美濃」と二文字が記されていた。
柳澈涵はその地図の一角に胡座をかき、白い髪を紐で雑に後ろへまとめている。手には細い筆。時おり、小さな丸印の横に点を加えたり、線をそっと引き消したりしていた。
木下藤吉郎は、落ち着きなく小屋の中を行ったり来たりしている。ひとしきり地図を覗き込んでは、また窓際に寄って外をうかがい、今にも誰かに踏み込まれるのではないかといった風だ。
幸蔵と、選りすぐられた足軽二人は、素直に入口近くに膝をついている。目の前には包んだ反物の見本、塩袋、それにずっしり重い小さな金袋がいくつか並んでいた。
「よく覚えておけ。」
柳澈涵は筆を置き、顔を上げて一同を見やった。
「このたび出るのは、兵ではない。値だ。」
「値?」藤吉郎は頭を掻いた。
「それじゃあ、戦じゃなくて、商いに行くってことでございますか?」
柳澈涵は地図を指で叩いた。
「戦をするには、兵が要る。粮が要る。刀が要る。美濃を攻めようとするなら、まず知らねばならん――奴らの兵がどこまで主を恨んでいるか、粮がどこに積まれているか、刀が誰に差し出されているかを。今回お前たちが運ぶのは、刀より金の方だ。」
幸蔵は口元を引きつらせ、自分の腰の短刀をちらりと見てから、目の前の金袋に視線を移した。どうにも落ち着かない。
「じゃあ……本当に、人は斬らなくてよろしいので?」
「お前たちがいずれ斬る相手は、そのうち自分で首を差し出しに来る。」
柳澈涵の声は淡々としていた。
「今は、奴らが誰をどう罵るか、それを聞くだけでいい。」
そう言うと、彼は指先で地図の上を三か所、順に突いた。
「一つ。城下の酒場や飯屋。足軽どもが一番たむろする場所だ――そこへ行って、誰を罵っているかを聞け。俸禄を滞らせているのは誰か、軍糧をくすねているのは誰か。その名をもれなく書き留めろ。
二つ。大きな寺、小さな社。香の煙が絶えぬところには、たいてい粮蔵も近い。施しの粥の出方、米の値段を聞け。どの寺が稲葉山と近しく、どの寺が『困窮する百姓』を口にするか。
三つ。そして、ある名だ。」
柳澈涵は筆を取り、美濃の一角の小山のそばに「竹中家」と書き、その脇にさらに「半兵衛」と書き添えた。
「お前たちが会いに行く必要はない。ただ聞け――城下でこの男の名がどれほど囁かれているか。清廉だと言われていようと、扱いにくいと言われていようと、すべて記しておけ。」
藤吉郎はぱちぱちと瞬きをした。
「そいつも……いずれ買い取るお方で?」
柳澈涵はふと彼を見やり、天気の話でもするかのような調子で答えた。
「いずれ買い取る相手は、人とは限らん。山かもしれんし、川かもしれん。溜まりに溜まった怨みかもしれん。竹中半兵衛……まずは名を刻んでおけ。」
そこまで言うと、彼は金袋をいくつか藤吉郎の前へ押しやった。
「金は細かく分けて持て。一つにまとめるな。一息でさらわれる。」
「それから――お前たちは商人だ。浪人ではない。」
「では先生は?」幸蔵が思わず口を開いた。
「ご一緒には?」
柳澈涵は、すこし笑みを浮かべると、地図の一角を折り上げた。
「棋を打つ者が、駒と一緒に盤の上を歩き回っていては、全体が見えん。私はここで待っている。お前たちが見たもの、聞いたものを、すべてこの紙の上へ投げ出してくれればよい。」
藤吉郎は歯を見せて笑い、手を合わせて深く一礼した。
「では、この臭い駒どもが、先生の代わりに、美濃の盤の上を十日ばかり走り回ってまいります。」
柳澈涵は肯も否もせず、ただ手を伸ばして油皿の火を吹き消した。小屋の中がふっと暗くなり、戸を開けると、西町の夜気が酒の匂いと湿った泥の臭いを連れて、一気に流れ込んでくる。
刀なき戦いは、音もなく幕を開けた。
永禄五年初夏の三日目。木曽川には、まだ霧が残っていた。
細長い木舟が、流れに逆らって川を遡っていく。舳先には破れた布の幌が一枚掲げられ、「尾張屋」と三文字が書かれている。墨は雨に打たれて滲み、どこぞの零細商人が、間に合わせで描きつけたものとしか見えない。
藤吉郎は艫に身を縮め、両手で竹竿を握って、一方の岸を押しながら、肩越しに仲間を振り返った。
「おい、幸蔵。その算盤、しっかり抱いとけよ。川ん中へひっくり返したら、船ん中で一番値打ちのあるもんが沈むぞ。」
幸蔵は船の中央に座り、算盤を胸に抱え込んでいる。腰回りは妙にふくらんでおり、彼が小分けにした銀が、そこにびっしり詰まっているのだ。
「言うならもっと大きな声で言ってごらんなさいな。両岸の奴らにまで聞こえるように。」
ぶっきらぼうに返すと、もう一人の足軽が小声で笑った。
「木下様、昔もこんなことをしておられたんでしょう? 尾張から米を担いで美濃へ運びながら、途中で犬でも分かるような値段でまとめて売りつけるとか。」
「それを腕前って言うんだ。」
藤吉郎は得意げに肩をそびやかした。
「昔は人の米を押してたがな、今は立派な“出陣”よ。持ってくのは兵じゃなくて、銀子だが。」
船がぐらりと揺れた。竹竿の先が川底の石を突き、鈍い音を立てる。薄い霧の向こうから、川岸の輪郭がじわりと現れてきた――片側は見慣れた尾張の田畑。もう片側には、斎藤家の家紋の旗がはためいている。
美濃側の渡し場には、粗末な木の桟橋がしつらえてあり、数人の足軽が欄干にもたれてあくびをしながら、川を眺めていた。
「美濃の風も、匂いは尾張と大して変わらねぇな。」
藤吉郎が小声で言う。
幸蔵は首を振った。
「違うのは、旗と、主君でございますよ。」
舟が岸に寄ると、足軽が何人か乗り込んで来て、問いただした。藤吉郎は瞬時に表情を変え、背を丸めて、声を高すぎも低すぎもしない調子に落とした。
「お勤めご苦労様にございます。拙者は尾張から参りましたショバい商人でして、布を数反と塩を少々お持ちしました。御国でも戦支度が始まっておられると聞きましてな、一つ運試しをと……。」
足軽は破れた幌を眺め、船上の安物の荷を一通り見やると、興味なさそうに布袋をいくつかめくって、武具が隠れていないかだけ確かめ、手をひらひらと振った。
「さっさと城下へ行け。日が暮れたら、街でうろつくな。」
「ははっ、痛み入ります。」
藤吉郎は何度も頭を下げながら、心の中ではすでに一つ書き留めていた――「夜は巡察が厳しい」。
舟は渡し場を離れ、支流へと漕ぎ入って城下の小さな船着きへ回り込んだ。川岸には軒を接するように木の家々が並び、軒先には使い込まれて白くなった鎧や、色あせた武士の羽織が干されている。その間には風に揺れる紙札――「掛売」「借用」「欠粮」などの文字が踊っていた。
「この貧乏臭さ、川を隔ててても漂ってきますね。」
幸蔵が小声で言う。
「貧乏なところほど、人の悪口がよう出る。」
藤吉郎は塩袋を担ぎ上げ、肩をぐいと前へ押し出した。
「罵りがきつけりゃきついほど、こっちには都合がいいのさ。」
こうして、美濃城下での十日の暮らしが、一船の塩と数反の布から始まった。
最初の二日間、彼らはおとなしく城門近くに屋台を出し、布と塩を売りながら道筋を覚えた。どの路地が賭場に通じ、どの路地の奥に寺があるのか。三日目の夕暮れになって、藤吉郎はようやく、いちばん騒がしい酒場を選び、物々交換で得た酒壺を提げて中へ潜り込んだ。
その酒場は城門のそばにあり、屋根板が二枚ほど欠けていて、夕焼けが隙間から斜めに差し込んでいた。空中の酒気と埃が、その光を受けて、濁った層のように揺らめいている。
藤吉郎は持参した布を店主に渡し、代わりに一番安い濁り酒をいく壺か受け取ると、わざと足軽たちの卓に近い席を選んで腰を下ろした。
その卓の足軽たちは鎧の紐をゆるめ、刀は壁に立てかけ、腰の酒袋は空っぽだ。酒が喉を通ると同時に、言葉も雪崩のようにこぼれ出す。
「戦支度だの、尾張を防げだのと偉そうなことを言いやがって、俸禄は三月も遅れっぱなしだ。草履の底まで擦り切れた。」
ひとりが乱暴に卓を叩いた。
「上の方じゃ毎日宴会、こっちは酒一杯もまともに飲めねえ。」
隣の者が声を落とした。
「静かにしろ。お城の耳目は多い。」
「耳目だぁ?」
さっきの男は鼻で笑った。
「耳目が草履を縫ってくれるのか? 飯椀に一杯でも多く盛ってくれるのか? それより――。」
身を乗り出し、さらに声を潜める。
「尾張のあの狂犬が、ついこの間三河と手を結んだって話だろ。いざ攻めてきたら、この人数で、本当に防げると思うか?」
藤吉郎は、聞き取れないふりをして大口で酒をあおりながら、耳はしっかりとそばだてている。幸蔵は卓に突っ伏し、見るからに酔いつぶれたふりをしているが、袖の中では炭片をつまみ、「いちばんきつく罵られた名」を、布の内側へこっそり書きつけていた。
「そういや聞いたか。」
別の足軽が、含み笑いを押し殺しながら言った。
「竹中家の若様、また城の宴席を断ったそうだ。」
「ほう? あの菩提山城の若少将か。」
誰かが口を曲げる。
「清廉ぶってるよな。『兵が飢え疲れている時に宴など』とか何とか。ふん、あいつが飲まねえからって、酒がこっちの椀に多く回ってくるわけでもなし。」
誰かが口を尖らせる一方で、別の者がその若者をかばった。
「だが、誰かは飲まずにいないといかんだろうさ。でなきゃ、美濃じゅうが主君の真似して、酔いっぱなしになる。」
数人が目を見交わし、笑い声の底に、やりきれぬ色が混じった。
藤吉郎の目がかすかに光る――「竹中」という名は、しっかり頭に刻んである。
「おお、そのお話は、竹中半兵衛様のでございましょう?」
彼は、わざと物知り顔をしてみせた。
「尾張を発つときにも噂を聞きました。若くして才があり、長良川でも手柄を立て、酒はお嫌いでも、計算はお得意とか。」
「計算なんぞ、何の役に立つ。」
さきほどの足軽が鼻を鳴らす。
「肝心の主君が計算をしねえなら、誰が算盤を弾いても同じこった。」
幸蔵は卓の下で、「竹中――清廉――兵の心は複雑」と、また一筆書き足した。
四日目、五日目の夜も、彼らは酒場を変えながら通い続けた。耳に入る怨嗟は、どこも似たり寄ったりだ。俸禄の遅配、軍装のぼろくなり具合、上の連中は宴と酒ばかり。その代わり、名は増えていく。どの村、どの屯田でいちばん罵声が上がっているか、幸蔵は袖の中に一つ残らず書き込んでいった。
城下のもう一方では、賭場に灯がさんさんとともっていた。
半端に新しい着物を着た小者武士たちが、低い卓を囲んで座り、賽桶が上下に舞い、銭がじゃらじゃらと音を立てていた。その隅に、一人の男が腰を下ろしている。袖を肘までまくり上げ、指には数枚の銭を挟みながら、冷めた目で卓上の流れを見つめていた。
幸蔵である。
「張る。」
彼は銭を二枚、音を立てて卓の中央に押し出した。声は大きくはないが、不思議と周りのざわめきの上に乗る。
何巡かするうちに、幸蔵は続けざまに勝ちを引き寄せ、小山のような銭の塊が目の前に積み上がった。
「さすがは尾張から来ただけのことはあるな。」
向かいに座る美濃の若武士の顔は、すでに赤い。
「こっちへ来て、俺たちの数か月分の俸禄を、丸ごと持ってっちまう気か。」
幸蔵はにこにこと手を振った。
「運がよかっただけでございます。昔、商隊にくっついて美濃まで来たことがありましてな。こちらの賽の癖を、少々知っておるだけで。」
傍らの男が声を潜めた。
「程々にしておきなよ。あんたが勝ち過ぎると、城ん中の“あるお方”の顔まで潰すことになる。」
「あるお方?」
幸蔵は何気ないふうを装って尋ねる。
男は酒を一口飲んでから、城代の名をひとつ囁き、さらに付け足した。
「負けるたびに、また村々へ行って粮の催促だ。ここ半年で、あの辺りの村はすっかりしぼり取られちまった。」
幸蔵の目は動かなかったが、卓の下の指先が、こつこつと二度、木を叩いた――藤吉郎と決めていた合図、「要の名だ」。
その後もいくつか勝ちを重ねると、今度はわざと得意になったふりをして、銭を卓の上で勢いよくかき回した。
「まだまだ行きやしょう。さあ、もう一勝負!」
やがて、外から足音が近づき、戸が開いて誰かが数声叫んだ。若武士たちは慌てて立ち上がり、一斉に頭を下げる。さっきまでの酔いは、いくらか引いたようだ。
第七の夜、幸蔵はまた銭を山のように積み上げた。その隙を見計らい、袖の裏にびっしりと書き込んだ名や肩書きを、汗を拭うふりをしてそっと翻す。灯の下で、文字が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに再び隠された。
「もういい。」
彼は心の中で呟く。
「これ以上勝てば、本当に刺される。」
賭場からそう離れていない城中の大寺では、鐘の音が低く重く響いていた。
十日の間に、藤吉郎は、ほとんど一日おきに寺を訪ねている。そのたびに、少しでも野暮ったい身なりに変え、小さな菓子の包みを両手に捧げ、一隊の参詣人のあとに付き従って、恭しく香を焚き、額を畳につけた。
一人の小沙弥が香台を片付けながら、その「いかにも田舎臭い他国の商人」風の姿を見て、つい目を留めた。
「お師匠さん。」
藤吉郎は菓子を一つ差し出した。
「尾張から持ってまいった粗末な菓子でして、たいしたものではございませんが、通りがかりのご縁に、方々にも召し上がっていただければと。」
小沙弥の目が輝き、同時に、いささか躊躇いを帯びる。
「南無阿弥陀仏、これは……受け取るわけには……。」
口ではそう言いながら、手は素直にそれを受け取っていた。
軽口を交わすうち、話は自然と米の値に及んだ。
「最近は、米がひどく値上がりしておりまして。」
藤吉郎は大げさに嘆いてみせる。
「美濃でも戦支度と聞きました。粮がみな城へ運ばれているとか。」
小沙弥は菓子を頬張りながら、もごもごと呟いた。
「城だけじゃありません。この前までのご住持様は、城の偉い方々と仲がよくて……粮もまずは寺を通ってから、上へ行くことが多かったんです。そのせいで、下の村々は……いやはや、真面目な百姓ほど難儀しております。」
「そのご住持様は、今もこちらに?」
「この前ご病気になって、稲葉山のお城にお呼ばれしたと聞きました。替わって入られた方は気が強くて、『仏門は人の良心を削るところではない』なんてことをよく仰るので、ちょっとはマシになりましたけど。」
藤吉郎は、その言葉を一字一句違えず胸に刻み込み、笑いながら菓子をもう一つ押し付けた。
「それは何より。仏門までもが粮で人を締め上げるようでは、百姓は川の神様にでも縋るしかなくなりますからな。」
小沙弥は目を細めて笑った。
「口のうまい方ですね。」
寺の鐘が再び鳴り、その余韻が梁から柱へ伝わりながら、堂内を回っていく。藤吉郎は深く頭を下げた。だが心の中で唱えているのは仏号ではない。寺、粮倉、城代、住持――そうした名と場所のいくつかだった。
それらはすべて、やがて柳澈涵の地図の上に落とされる印になる。
第十の夜。城門はすでに閉じられ、城下の路地は、月明かりすら入り込む隙間もないほど狭かった。
藤吉郎と幸蔵たちは、賭場の裏口から身を滑り出し、こっそりと河岸の小さな船着きへ向かおうとしていた。角を一つ曲がったところで、前方の路地口から、鎧の金具が擦れ合う音が聞こえてきた。
「まずい。」
暗がりの中で、幸蔵が低く言った。
「見回りが来ております。」
思った通り、ほどなく路地の向こうで提灯の火が灯り、足音が一列になって近づいてくる。
「ここんとこ、酒場の連中の口が軽くなりすぎたな。」
藤吉郎は歯を噛んだ。
「多分、俺たちの訛りに、何か引っかかるもんがあったんだろう。」
引き返せば賭場の方だ。人目が多い。前へ出れば巡回。狭い路地で、身の置き場は限られていた。
「どう動きましょう。」
一人の足軽が押し殺した声で問う。
幸蔵は、抱えていた金袋を、突然その男の胸に押し付けた。
「お前が、あっちへ行け。」
「え、俺が?」
男は目を丸くした。
「路地の向こうまで走って、一番たちの悪そうな若造を見つけて、その懐に全部突っ込め。それから外へ飛び出して、『賊だ』って大声で叫ばせる――いいか、叫びはめちゃくちゃであればあるほどいい。」
足軽は一瞬呆然としたが、すぐに悟って金袋を抱え込み、横手の薪小屋の影に飛び込んだ。
巡回の足音は刻一刻と近づき、提灯の灯が壁に長い影を揺らす。藤吉郎は身を低くして、幸蔵ともう一人を引き連れ、半開きの戸がついた裏庭の方へ潜り込んだ。そこから低い塀を越えると、豚小屋の脇のぬかるみに落ちた。
「いい匂いだこと。」
藤吉郎は尻から泥に沈み込み、鼻をひくつかせた。
「これぞ、美濃産の本場の香り。」
幸蔵は、彼を蹴り飛ばしたくなる衝動を堪えた。
「黙って。」
その時、少し離れた別の路地から、甲高い叫び声が上がった。
「泥棒だあっ! 賊だ賊だ、この辺りだ――!」
声は無駄に鋭く、どこか笑いも混じっている。そのすぐあとで、銭が地面にばら撒かれる音が、しゃらしゃらと夜気を裂いた。
巡回の足が、条件反射のようにそちらへ向かう。提灯の火が一斉にそちらへ流れ、こちらの路地は、逆に闇を取り戻した。
「行くぞ。」
幸蔵が低く囁いた。
彼らは暗がりに紛れ、壁を伝いながら河岸へと急いだ。崩れかけた家、薪の山、糞溜め――いちいち鬱陶しい障害物を、泥と臭いにまみれながら乗り越え、ようやく船着きの歪んだ柳の木の下まで辿り着いた。
川風が吹き抜け、藤吉郎は、まるで身体にまとわりついていた糞の匂いが、いくぶん吹き散らされたように感じた。
「この十日で、美濃の豚小屋にまで礼参りしたようなもんだな。」
思わず笑いが漏れる。
「生きて出られただけでも、ありがたく思いなさい。」
幸蔵は息を切らしながら言った。
「先生のお言葉、忘れましたか。俺たちが持ち帰るのは怨みであって、首じゃない。」
小舟が暗闇の中で小さく岸の杭にぶつかり、鈍い音を立てた。彼らは素早く乗り込み、綱を解き、竿で底を一突きして、舟を静かに岸から離した。黒い水面へと滑り出す。
背後では、城壁が闇に沈み、遠く稲葉山の方角がぼんやりした影となって、空の端に重くのしかかっていた。
清洲城下・西町。あの見慣れた小屋。
油皿の灯が、再びともされた。
柳澈涵は地図の前に正座し、脇にはすでに冷えきった茶壺が置かれている。戸が開いたとき、彼はほんの少しだけ視線を上げた。
藤吉郎が土を跳ね上げながら、片足を踏み入れる。全身泥だらけで、どう説明していいか分からない匂いまでまとっている。
「先生、戻りました。金はだいぶ負けましたが、酒はあまり飲んでおりません。」
「人は、全員連れて帰ったか。」
柳澈涵の最初の問いは、それだった。
「一人も欠けておりません。」
幸蔵は戸を閉めると、袖をばっと捲り上げた。裏地には、乱れた字で名や地名がぎっしりと書き込まれ、その合間には途切れ途切れの怨嗟の言葉が並んでいる。「俸禄三月未発」「某城代博打好き」「粮、寺を経る」「住持病にて交代」などなど。
柳澈涵はそれを受け取り、一度目を通し、もう一度読み返した。
「美濃の兵の怨み。」
酒場を印した箇所に、小さく丸を描きながら呟く。
「三月の遅配。」
続いて城門近くの通りに、さらりと線を引き加えた。
「某城代、賭場通い。負けるたびに村々を搾る――ここが“命綱”だ。」
最後に、寺の位置のそばに小さな「仏」の字を書き、その横に一行添えた。
「粮、ここを経て城へ。前任の住持は稲葉山に与し、現任は心中に不満あり。」
藤吉郎と幸蔵は顔を見合わせ、思わず同時に唾を飲み込んだ。彼らが命がけで十日間聞き集めた断片が、柳澈涵の筆先で、「誰が粮を握り、誰が兵を握り、誰が香火を握っているか」を示す一枚の図に、徐々に姿を変えていく。
柳澈涵は筆を止め、「竹中家」と書かれた小山の下に、さらに一行書き加えた。
「宴を好まず、権に近づかず。兵は敬しつつも、怨みもまた深し。」
「このお方は、いずれ役に立つので?」
藤吉郎が堪えきれずに問う。
「いずれ――。」
柳澈涵は静かに言った。
「あの山を攻める時、必ずしも最初に壁を叩く必要はない。先に、綻びを打てばいい。」
そう言って、「美濃」の二文字の上に、指先で墨を一滴落とした。その点はじわりと滲み、水の中に広がる墨の花のように、紙の上へ染みていった。
「この十日でお前たちが飲んだ酒、負けた金、浴びた罵声は、いずれすべて、攻城の武功として数え上げられる。」
「これも、功として数えられるんで?」
藤吉郎が頭を掻いた。
「当然だ。」
柳澈涵は筆を収め、立ち上がって茶壺に水を足した。
「刀は、一度で人を殺す。金は、一国まるごと殺す。お前たちはただ、その刀を先に、奴らの酒と賭場と香案の前へ埋めてきただけだ。」
外では、清洲の夜がすでに更けている。
木曽川の水音が、いく筋もの路地を隔てて、ぼんやりと聞こえてくる。下流へ行けば三河。上流へ遡れば美濃だ。
今夜、太鼓も鳴らなければ、法螺も吹かれず、戦況を告げる書状も飛び交わない。
だが、美濃に対する「最初の一戦」は、すでにこの小屋の地図の上で、静かに始まっていた。




