第十六話 北岡の屋敷・風向あらたまる
清洲の城は、いつだって風向きから先に噂を知る。
その朝いちばんに顔をしかめたのは、西町の井戸端にしゃがみこんだ主婦だった。
井戸蓋をどかし、桶を沈めて引き上げた途端、水面に細かな瓦の粉と苔の欠片が浮かんでいるのが目に入った。
「まったく、昨夜はどこの家やら、屋根の上をうろつき回って……」
桶の縁を指で弾きながら、女は不満げに吐き捨てた。
「灰まで井戸に落として、水まで土臭くなっちまったじゃないか。」
そのひと言は、井戸端から巷へと、風に乗ってふわりと流れていった。
魚を売る台の上をかすめ、茶店の湯気の中へ紛れ込み、最後には、役所勤めの若い書記の耳へと落ちる。
そして昼前には、その書記は石段を駆け上がり、天守の畳の上に額を擦りつけていた。
「西町のあの小屋で、昨夜、屋根の上に人が走る音がしたとのことでございます。」
若い書記の額には薄く汗が滲んでいる。
彼は畳に手をついたまま、なるべく息を乱さぬよう言葉を継いだ。
「今朝、近所の者が見たところ、紙戸に小さな穴がいくつか増えており、土間には妙な粉の匂いが残っていたと。中におられた御客人は……ご無事とのことでございます。」
瓦の上に躍った影が何人であったのか、確かに見た者はいない。
ただ、あの屋根のきしむような微かな音が、夜風の中に一瞬だけ走り、すぐさま掻き消えたことだけが、皆の胸に薄いさざ波のように残っていた。
信長は、卓上に広げられた粗い地図の上に指先を置き、「西町」の文字の脇を軽くひと突きしてから、すっと離した。
「北岡の武家屋敷ひとつ、今は空いておったな。」
林秀貞が身を折る。
「もとは中層の武士の家でございましたが、去年、主が病で亡くなり、子も跡もなく、今は町奉行預かりの空き家に。」
「空屋というものは、風が勝手に入り込む。」
信長は淡々と口にした。
「風には、居場所を替えてもらうとしよう。」
彼は視線を丹羽長秀に移した。
「町奉行に申しつけよ。その屋敷を切り分け、今日より柳殿に与えるとな。」
「屋中の古い道具は、役に立ちそうなものだけ少し残し、余計なものはすっかりどけてよい。」
ひと呼吸おいて、さらに命じる。
「炊事と雑事を担う夫婦を一組、それに走り使いの童をひとり付ける。名簿上は丹羽家の預かりとせよ。ただし、その耳と足は、柳殿の声にのみ従うものと知れ。」
「ははっ。」
丹羽長秀は深く頭を下げた。
その朝の清洲の風向きは、静かなやり取りのあいだに、目に見えぬほどわずかに、しかし確かに、ひと筋ずれた。
――
日暮れ前、西町の屋敷の戸口が、こんこんと三度、控えめに叩かれた。
佐吉は反射的に肩を震わせた。
妖しい噂に怯えたわけではない。
昨夜、屋根の上を渡っていったあの足音――風に乗って瓦の上を踏むような、軽く、それでいて確かな音が、まだ耳の奥に残っていたからだ。
彼は先に戸の脇に立てかけてある棒に手を伸ばし、指先に木の重みを確かめてから、胸の奥のむず痒いような緊張を押さえつける。
「今、開けます。」
戸を引くと、そこには浅葱色の狩衣をまとった若い武士が立っていた。
腰には短刀のみ、背後には男ふたりと女ひとり、合わせて三人の下人が、竹の箱や包みを肩に担いで控えている。
若い武士は両手をつき、深々と頭を下げた。
「柳殿はおいでか。殿下の仰せを預かって参りました。」
柳澈涵は奥から外套を引っかけて出てきて、敷居の内側に立ち、軽く身を折る。
「ここに。――お言葉を。」
「北岡の武家旧邸一宇、今日をもって柳殿に下賜される由。」
若い武士は小さな木箱を捧げ持つ。
箱の中には折り畳まれた書状と鍵がひとつ、きちんと収められていた。
「これは町奉行所より出された示書にございます。屋内の粗末な道具立てはすでに整えられており、下人三名――夫婦ひと組と童一人――今後は柳殿の下で働かせていただきたく。」
夫婦と少年は慌てて平伏した。
「小者の阿新と阿久、それに倅の弥助と申します。これより柳殿のお屋敷にて、一椀の飯を得ることができますれば、何よりの仕合せにございます。」
若い武士は用件だけ告げると、長居は無用とばかりに襟を正した。
「屋敷の名義はすでに改められました。今夜より、北岡のその屋は、柳殿の家と相成ります。」
「殿下のお言葉は――『清洲の風を、いつまでも低い屋根ばかりに吹きつけておくことはない』、と。」
言い終えると、彼は再び深々と頭を下げ、供回りとともに城下の方へと戻っていった。
残された三人の下人は、戸口の前でいささか所在なげに立ち尽くす。
西町のこの屋敷には、粗末ながらもよく磨かれた囲炉裏、手入れの行き届いた低い卓、皺ひとつないよう畳まれた布団などが揃っている。
質素に整えられたそれらは、さきほどまでどこか温もりを帯びていたのに、今は一転して、不意にぽっかりと空洞を抱えたように見えた。
「……ほんとうに、屋敷をいただいちまったんだな。」
佐吉は頭をかき、振り返って室内を見まわす。
「じゃあ、この辺のものは……」
「持って行けるものだけ、少しだけ持って行けばいい。」
柳澈涵は静かに答えた。
「持って行けぬものは、このあと住む誰かに返してやる。」
「我らは、ほんの数夜、ここで借り寝をしたに過ぎん。枕を替えるだけのことだ。」
そう言いながら、まず澄心村正を丁寧に納め、医書と薬箱を古びた木箱に収めていく。
卓上の茶の道具も、一つひとつ布でくるみ、箱の中に静かに収めた。
隅に置かれた土の壺や、煤で黒くなった古い鍋には手を付けない。
それらには、この町の日々の匂いがしみ込んでいるからだ。持ち主が代わっても、また誰かの腹を温めるだろう。
佐吉はその横で、あれやこれやと手伝いながらも、何度か目を上げて箱の中の荷を見た。
箱が徐々に重たくなっていくにつれ、胸の奥でようやく、遅れていた実感が追いついてくる。
――長屋から西町へ。西町から北岡へ。
殿下は、一段ずつ、人を高い場所へと送り上げている。
「行きましょう。」
柳澈涵は木箱を軽く持ち上げると、振り返りもせずに言った。
「日が暗くなり切る前に。」
――
西町から北岡へ向かうには、まず野菜市の続く細い路地を抜け、小さな川筋に沿った緩やかな坂を上っていく。
人が高みに向かって歩みを進めるたび、風も一緒になって肩のあたりまで昇ってくる。
北岡は決して高い場所ではない。
とはいえ城下の低地よりはひと身ほど高く、城壁に近すぎもせず、門前の喧噪からはほどよく離れている。
商人は倉を借りるのに好み、中ほどの身分の武士は、ここに家を構えることを望む。
守りに近く、眠りは深い。
新しい屋敷は、石垣の陰にひっそりと身を潜めていた。
門も木戸には違いないが、西町の小屋のそれよりはひと回りもふた回りも高く、きちんと作られた長屋門である。
門口は広く、小さな駕籠と馬一頭が同時にくぐれるほどの間口がある。
軒先には小さな木札がぶら下がり、「北岡屋敷」とだけ記されている。
以前の主の家紋は、丁寧に削り取られており、木目の奥にかすかな輪郭だけが残っていた。
門を押し開けると、まずは細長い前庭がある。
乱れすぎぬように敷かれた石がいくつか、横向きに、あるいは縦向きに並び、その両側には躑躅と南天竹が植えられている。
今は寒の盛りで、枝には赤い実がいくつか残るばかりだが、そのわずかな色が、灰色がかった空気の中に、静かな火のように灯っていた。
前庭の小廊を抜けると、視界がふっと開ける。
西町の小屋前にあった、あの小さな空地とは比べものにならない、広い中庭がそこにはあった。
庭の真ん中には老松が一本、斜めに伸びている。
枝は低く張り出し、夏になれば、その下は涼しい陰となって寝転べるだろう。
松の傍らには井戸が切ってあり、井筒の石は多くの手に撫でられてつるりとしている。石の目には、若い苔がこっそりと根を張っていた。
一角には石灯籠が立っている。
灯籠の窓は、風に晒されて久しく空になっているが、石肌にはかつて灯火に燻された暗い跡が、今もなお薄く残っていた。
もう一方の隅には、低い土蔵が一棟。
小さな窓に厚い扉、重々しい鉄の錠前。甲冑であれ帳簿であれ、大切な物を納めるにはうってつけの風情だ。
中庭に沿って、低い小部屋が連なっている。
そこが下人たちの住まう場所だ。
軒は低く、敷居も高くない。戸口の前には桶や木鉢が置かれ、壁際には雨だれの跡が薄く染みこんでいる。
阿新と阿久、それから弥助は、これからここに寝起きすることになる。
主屋の縁側は広く、板はよく磨かれて白く光り、中庭をぐるりと囲むように伸びている。
三人四人が並んで歩いても窮屈ではなく、夏の夜には柱にもたれて星を眺めるのにちょうどよさそうだった。
襖を開け放つと、畳の草の香りがふわりと立ちのぼる。
奥には六畳ほどの書院がひと間。
隅には木製の書棚が据えられているが、棚板にはまだ何もなく、薄い冊子が数冊と、針と灸の道具を収めた箱がひとつ置かれているだけだ。
その外側には、八畳二間の居室が続いており、襖を開け放てばひと続きの空間になる。
縁側に近い方には、わざわざ四畳の小部屋が仕切られている。
――管事の部屋、と昔から呼ばれてきた場所だ。
佐吉は、その四畳に片足を踏み入れ、しばし呆然と立ち尽くした。
畳は使い込まれてはいるが、角はきちんと押さえられている。
壁には粗雑な釘跡はなく、小さな床の間がひとつ、静かに口を開けていた。
灯を置いてもよく、一冊の本を立てておいてもいい。いずれ、何か大事なものを据えることになるのかもしれない。
「この部屋は……誰が使うんです?」
思わず口から言葉が漏れる。
阿新は指を立て、小声で答えた。
「町奉行の者が申しておりました。『ここは総管の部屋だから、手を出すな』と。」
「総管……」
佐吉は、そのふた文字を口の中で転がしてみてから、ゆっくりと顔を上げた。
「じゃあ、その総管ってのは、誰のことなんでしょうね。」
「おまえ以外に、誰がいようか。」
柳澈涵は、何でもないことのように木箱をその小部屋に運び入れながら、淡々と答えた。
「ここにはおまえという古い手がひとりと、阿新たち三人がいる。」
「この先、薪や米や油、誰が出入りして誰が去っていくのか、どの銭がどう使われるのか、そのすべてを胸の中で数えておく人間が要る。」
「この屋敷の勘定を預かるというのは、あの者たちの命の勘定も一緒に預かるということだ。」
喉の奥がひゅっと鳴り、佐吉は目の前の四畳が、長屋の広い通い床よりもはるかに重たく感じられた。
「……本当に、俺が管家ってことですか。」
口元が自然と緩む。
信じきれぬ半分と、どうしようもなく浮かび上がる得意と緊張とが、入り混じった笑いだった。
――
屋敷は立派だが、しばらく空いていたせいで、よく見れば直すべきところがそこかしこにある。
中庭の石の一枚はわずかに浮き、長屋門の閂は片側が緩んでいた。井戸端の水受けには苔が増え、縁側の板の何か所かは、踏みしめると小さな軋む音を立てる。
「いずれ、町奉行の方から職人衆が参りましょう。」
若い武士は帰り際にそう言い残していった。
「直すべきは直し、替えるべきは替える。ただし、主屋の襖をくぐるのは、屋の主と管事以外は控えられたし、と。」
二日もすると、北岡のこの中庭はまるで目を覚ましたかのように賑やかになった。
門の外には小車が何台か横付けされ、瓦や板、灰や石灰が降ろされる。
職人たちは粗い布の短衣をまとい、腰には木槌や墨壺を吊るしている。誰かは屋根にあがり瓦を検め、誰かは庭の片隅の地面を掘り起こして、雨水の流れをもっと素直な筋に変えようとしている。
その中に、肩幅のしっかりした、腰の据わった男がふたり混じっていた。
手に握った槌の握りには、古い繭のような硬いタコが見え、物を運ぶ歩調は、ただの職人にしては妙にそろっている。
幸蔵が連れてきた「手伝い」の連中だった。
「この石板、きちんと据え直しておかないとね。」
幸蔵は井戸端にしゃがみ込み、粗い茶碗に水を汲んで、さも一服だけのつもりのような顔でどっかり腰を下ろしている。
だが、視線は井戸の縁から、井戸口から門までの距離をきっちりと測っていた。
「水を汲む者の足が半分でもずれりゃ、水は濁るし、人も井戸に頭から落っこちる。」
その声は、賭場でサイコロを振る時の調子と寸分違わぬ響きだった。
ただ、今手にしているのは賽の盅ではなく、石灰と木片だ。
幸蔵は終始、中庭から先、主屋の敷居を一歩もまたがない。
屋内に運び入れられる荷物は、すべて最後に佐吉の手で縁側から受け取られる。
庭に出入りするのは、大工、瓦職人、石を据える者、土をならす者――見たところただの「修繕」であり、あたかも、武家の旧邸がひとつ「きちんと片づけられている」ようにしか見えない。
昼下がり、仕事の手を休めた職人たちは、庭の隅に腰を下ろし、茶をすすり、誰かは手拭いで汗をぬぐいながら空を仰ぐ。
幸蔵は、人の目の少ない隙を見計らって、そっと縁側の方へと目を投げた。
薄暗い縁側には、柳澈涵が立っている。
一方の手は背中に回し、もう一方の手には茶碗を軽く持ち、何気なく中庭を眺めているふうを装いながら、その視線には、槌の音の高低も、人の足の運びもすべて吸い込まれているようだった。
幸蔵は心の中で舌を巻く。
――これじゃ、まるでどこぞの大名屋敷の主じゃねえか。
――
修繕がひととおり終わった日の夕方、川辺から吹きあげてきた風に、わずかな湿り気が混じった。
清洲城の天守には、すでに格子窓の内側に灯がともり、その金の灯が、暮れなずむ空に淡く滲んでいる。
北岡の長屋門の外から、重すぎない足音がふたつ三つ、近づいてきた。
「殿下がお着きだ。」
阿新の、押し殺した声が耳元でささやく。
普段、竈の前から動かぬ彼でさえ、その声の端にわずかな緊張が絡みついている。
門が開き、入ってきたのは、ほんのわずかな供を連れた一行だった。
信長は濃い色の狩衣をまとい、腰に二刀を帯びているが、鎧は身につけていない。
後ろには前田利家が一歩下がって続き、そのさらに後ろに、近習が二人、門際に控えた。
信長はまず庭に立ち、しばし黙ってあたりを眺めた。
老松から井戸、石灯籠、土蔵の扉へと、視線はゆっくりと移り、そのたびに、以前にこの屋に漂っていた気配と、今ここに満ちている気配とを、心の中で半分ずつ測り比べているようだった。
「空き家だった頃よりは、いくらか風が素直になったな。」
ごく何気ない調子で、信長は言った。
柳澈涵はすでに縁側で待っており、深く礼を取る。
「殿下。」
「長屋から西町、西町からここへ。」
信長は縁側に上がり、当たり前のように腰を下ろす。
「屋を替えたのは二度だが、中身は変わらんな。」
茶はすでに用意されている。
利家は一歩下がった位置に立ち、まず柳澈涵の顔を見、それから室内へと視線を走らせる。
畳、几帳、茶道具、医書、針灸の箱、それに清洲から稲葉山城までを粗く記した地図。
「昨夜の、あの屋根の音。」
信長は茶碗を受け取り、まるで家族のことを問うような口ぶりで言った。
「もう、西町の井戸端から、ここまで届いているぞ。」
彼は少し目を上げる。
「三人の手の冴え、どう見た。」
「足は悪くありません。手の方は、まあ中の上といったところ。」
柳澈涵は静かに答えた。
「薬も上等なものを使っておりましたが、煙を屋の中に吹き込んで驚かせることしか考えていない。」
「まずは、風がどこから入り、どこへ抜けるかを読めてこその薬でしょう。」
「瓦の上を歩いても灰ひとつ落とさぬ連中というのは、たしかにおります。」
「昨夜の三人は、そこまでの道のりには、まだ届いていない。」
利家の胸の内に、ひやりとしたものが走る。
井戸の水に浮いたあのわずかな灰のことは、自分の耳にも入っていた。だが、そこまで含めて評されるとは思っていなかったのだ。
信長は喉の奥で小さく笑った。
「ありゃ、もともとは『影を見る』つもりで動いていた。」
「命を取るつもりまではなかったろうさ。」
「しかし、最後に見られていたのは、向こうの影だったというわけだ。」
「連中に、言葉だけ持たせて帰した手際は、無駄がなくていい。熱田の神前で灯を点けているあの男、この二日、酒をひと椀分減らしているぞ。」
「寺社というものは、香煙の勘定にはうるさい。」
柳澈涵は淡々と返す。
「どの勘定が合い、どの勘定が割に合わないかと分かれば、袖の中の手をまず引っ込める。」
「豪族たちは。」
彼は目を上げ、そのまま問いを重ねる。
「豪族には豪族の算盤がある。」
信長は茶を飲み干し、空になった碗を托盤に戻した。
「お前が屋敷を下げ渡されたと聞けば、尾張に腰を据える気かと勘ぐる者もいる。」
「北岡に置いたと聞けば、俺がどちらに立つつもりか、お前を使って覗こうとしているのだと見る者もいる。」
「好きなように想像させておけばよい。」
「思い巡らせれば巡らせるほど、己の足許が覚束なくなる。」
彼は立ち上がり、縁側に歩み出て、老松の向こう、ぼんやりと浮かび上がる城壁の線を眺めた。
「稲葉山城の夜、俺はもう分かっていた。」
「お前がただの軍師ではないことを。」
「影を見る者――影見というのは、風がどこに落ちるかを見るものであって、目の前の竹だけを数えるものではない。」
信長はわずかに横を向き、柳澈涵を一瞥する。
「だからこそ、お前をいつまでも低いところで風に晒しておくわけにはいかぬ。」
「屋根を与えたのは、風にまとわりつくものを作るため。」
「下人を付けたのは、お前の眼に足を生やすためだ。」
「やがて風が美濃へと向きを変える時、この屋根に落ちる雨粒と向こうの雷鳴とが、きちんと呼応せねばならぬ。」
利家は黙って耳を澄ませている。
それが屋敷を与える言葉であると同時に、この男を、確かにこの地に打ちつける釘でもあることを、ひしひしと感じていた。
信長は長居を好まない。
主屋を出る前に、ふと書院の入口で足を止め、壁にかけられた地図をひと目見た。
清洲から稲葉山城まで伸びる河筋、山道、村落の位置――荒い筆致ではあるが、すでにいくつかの「通り道」が、細い線となって描き込まれている。
「まずは、清洲の屋を見届けろ。」
信長は振り返り、言葉を投げる。
「この屋を見切ったと胸を張れるようになったら、その時にまた、俺に美濃の話をせよ。」
そう言い残し、縁側から降りて、利家や近習たちとともに、暮色の中へと姿を消した。
門の外で風が一度だけ強く鳴り、それから、じわじわと遠ざかっていく。
――
夜になると、新旧の屋敷の違いはいっそう鮮やかに浮かび上がる。
西町では、サイコロのぶつかる音、女たちの言い争い、子どもらの泣き声と笑い声が、細い路地一筋に押し込められ、ひとつの塊となってうねっていた。
北岡では、坂と石垣が音を幾度も折り曲げ、細く裂いてしまう。
遠くの練兵場からは、隊を解く前の短い号令が時折聞こえ、城門の辺りからは、巡邏の鈴の音が、風に揺られて届いてくる。
中庭の老松の影が畳の上に落ち、一筋の灯によって、濃淡の違う幾枚もの影の板となる。
阿新と阿久はすでに下人部屋に退き、戸を閉じている。弥助も布団の中で二度三度寝返りを打ったのち、ようやく静かな寝息に変わった。
院の門は内側からしっかりと掛け金が降ろされ、夜回りの足音が通りかかっても、ただ灯の隙間を一瞥するだけで、立ち止まることはない。
佐吉は、自分の四畳の小部屋に胡坐をかき、膝の上の帳面を睨んでいた。
「薪、一束。米、二斗。瓦の修繕銀、幾許……」
筆を走らせる手が、ふと止まる。
頭上の低い天井を見上げる。
この狭い空間が、「自分ひとりの畳」であると気づいた途端、その狭さが、妙な心地よさと重さを伴って胸に落ちてきた。
――管家ってのは、こういうところで寝るのか。
その時の心持ちは、賭場で一晩勝ち続けたときの浮かれよりも、ずっと足元の確かなものだった。
主の居間では、灯が強すぎもせず、弱すぎもせず、ちょうど自分の手の形がはっきりと見えるほどの明るさでともっている。
柳澈涵はひとりで湯を沸かしていた。
茶碗は大きくない。湯は半分だけ注ぐ。
茶の粉が湯の中でしばらく踊り、それから静かに沈んでいく。静まった茶の面には、灯の影、松の影、障子の桟が、倒れた文字のように映り込む。
遠くで、練兵場の最後の槍が、整然と架台に戻されていく。
槍先が木に当たる軽い音が、いくつもいくつも重なって、夜気の中を伝ってくる。
まるで、それぞれの位置に戻るべき秩序が、一つひとつ、音を立てながら収まっていくかのようだった。
柳澈涵は筆を取り、薄い紙片に、細い字を三行したためた。
北岡や
一椀の茶に
稲葉風
墨はまだ乾ききっていない。
彼はそっと息を吹きかける。
紙の上には「北岡」があり、碗には茶があり、その字の中には、稲葉山の風がひそんでいた。
美濃の山河はいまだ遠い闇の中に沈んだままだが、その風だけが、この半椀の茶の上に、先に折り畳まれている。
ひと口、茶を含む。
濃すぎもしない茶が、舌の奥でほんの一瞬だけ止まり、まだ形を取らぬ出来事が、細く長い影となって胸の奥に差し込んでくる。
小さな紙切れは几帳の隅に重しを載せられ、その上に灯が斜めに落ちる。
外では、風が北岡の屋根をくぐり、老松の梢を撫で、それからふたたび城の方へと流れていった。
今夜の清洲は、誰も気づかぬほど静かに、しかし確かに、前夜とは違う顔つきになりつつあった。




