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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第十五話 影夜の試し・甲賀三刃

夜はすでに深く沈みきっていた。


 清洲の風は、美濃よりも細く、そして冷たかった。


 新たに与えられたこの屋敷は、武家屋敷と城下町のあいだに位置し、最上級の華やかな邸ではないが、雑踏からもそう遠くはない。


 昼間は人声が渦を巻き、夜更けともなれば、かえって不自然なほど静まり返る。


 遠く、幸蔵の切り盛りする賭場にはまだ灯がともり、笑い声と罵声が幾重もの塀を越えて届いてくるが、風に削られるうちに薄くなり、最後には「人がいる」という気配だけがかすかに残る。


 室内には、まだ灯が一つ。


 囲炉裏の炭火は低く抑えられ、火の粉が灰の中でときおり小さく跳ねた。


 横木から吊られた鉄瓶の口には、白い湯気がうっすら輪をつくり、ときどき「く」と短く息を吐いては、また引っ込める。


 まるでそれ自身が眠気に負けかけているかのようだった。


 柳澈涵リュウ・テツカンは囲炉裏のそばに胡坐をかき、目の前には和紙が一枚広げられていた。


 紙面には、まだ書きかけの数行があるだけで、墨は乾ききっておらず、筆は硯の縁に置かれたままだ。


 右の手は澄心村正の鞘にゆるく掛けられている。


 指の節がわずかに曲がり、その様子だけを見れば、書き疲れて、ただ何となくそこに手を置いて休んでいるようにも見える。


 それでも、彼の気配は「屋内に座る人」というより、「水底に沈んだ石」に近かった。


 風も、火も、遠くの足音も、流れ来るものは皆、彼の手前でふっと向きを変え、どこかへ逸れていく。


 隣の部屋では、佐吉がぐっすり眠っている。


 昼は賭場へ、町へ走り回り、木下藤吉郎たちとも顔を合わせ、夜に屋敷へ戻ってからは帳面をつけ、勘定を締めてようやく床に入る。


 その寝息には、働き詰めたあとの、あの土のように素朴な疲労がくっきりと滲んでいた。


 風が庭の老梅のほうから吹き込んできた。


 さっきまで散漫だった風が、ある瞬間からふいに「揃った」気配を帯びる。


 梅の枝振りは、急に一定の拍子を刻むような揺れ方に変わり、石灯籠のそばの枯れ草は一斉に同じ方向へ倒れ込んだ。


 廊下の障子を縁取る木枠が、きわめて微かに「こ」と鳴り、何かの重みがそっと指ひとつ分だけそこに乗ったようだった。


 囲炉裏から立ちのぼる薄い煙は、誰かに横からそっと撫でられたかのように、空中で小さな弧を描いて折れ曲がる。


 柳澈涵は顔を上げる。


 視線はまず煙の筋に沿ってゆっくりと動き、梁を渡り、障子を撫で、廊下を越え、その先の――夜よりもなお濃い陰の塊へと落ち着いた。


「……甲賀か。」


 独り言のような調子で、しかしはっきりとそう口にする。


 声は高くない。


 それでも、確かに夜風のなかに落ちていった。


 指先が鞘から離れ、何気なさそうに、畳の縁をとん、と軽く叩く。


 あまりにかすかなその一打ちが、ちょうど囲炉裏の炭を揺らし、小さな火の粉をひとつ飛び上がらせた。


「もう一歩近づけば。」


 彼は低く言う。


「それは“探り風”ではなく、“踏み込み”になる。」


 先ほど屋根の棟に身を伏せていた忍びの身体が、ぴたりと固まった。


 男は瓦の棟に腹這いになり、全身を闇色の装束に包み、吐息すら細く短く抑え込んでいる。


 その足捌きであれば、清洲城を巡回する足軽でさえ、頭上を踏み越えられても気づかないだろう。


 にもかかわらず、今この男は、甲賀と見抜かれたうえ、人数まで「風の中で数えられた」ように言い当てられた。


 その一瞬、彼の心は、足元の瓦と一緒に、かすかに跳ねる。


 廊下の影が、わずかに沈む。


 ひとりがすでに縁板の前へ下り立ち、柱の影に身を貼りつける。


 梅の木の脇、夜よりもなお濃い闇の塊のなかでも、ひとりがゆっくりと上体を起こし、腰のあたりで冷たい鉄片を探る。


 三人のあいだに交わされたのは、目配せではない。


 わずかな呼吸の揺らぎだけが、合図のすべてだった。


「まずは試しだ。」


 屋根の男が心の中でつぶやく。


 梅の木の陰に潜む男が手首をひと振りすると、苦無が一枚、夜気をまとった細い光となって飛び出した。


 半ば開いた障子の隙間を斜めに擦り抜け、柳澈涵の刀を握る手首めがけて真っ直ぐ差し込まれてくる。


 ほとんど同時に、屋根の男も動いた。


 彼の苦無は投げるのではない。


 下へ向けて「落とす」。


 わずかな重みと巧妙な手首の返しを借り、鉄の刃をいったん軒先に叩きつけ、そこから弾ませるように室内へ跳ね込ませる。


 その一撃は角度が異様で、落ちどころも奇妙だ。


 もし相手が「真正面から飛んでくる暗器」だけを警戒しているのなら、確実に虚を突かれる筋道である。


 廊下の男は苦無を使わない。


 柱の影からするりと抜け出したとき、彼の手には、ほとんど目に見えないほど細い黒い縄が握られていた。


 縄の先には、小さな鉄輪。


 彼に与えられた役目は殺しではなく拘束だった。


 足首か手首のどちらかを輪に掛けられさえすれば、ほんの一瞬の拘束であっても、仲間の刃が致命の仕事を果たすには十分である。


 三つの刃と一本の縄。


 一つは上から、一つは前から、一つは下から。


 同じ瞬間に、屋内のほとんどの退路が塞がれた。


 火の明かりがひときわ強くまたたく。


 苦無が障子紙を貫くときの小さな音が、この瞬間だけは不自然に引き延ばされ、時間そのものが細く長くなったかのようだった。


 柳澈涵の身体が、ようやく動く。


 彼は飛び退きもしなければ、抜刀もしない。


 ただ、囲炉裏の熱気に少し炙られたかのように、身をわずかに横へ傾けただけだった。


 一枚目の苦無は、彼の手首をきっちり貫くはずだった軌道で飛び込み――


 実際には、袖口を一筋きれいに裂いただけで、皮膚ひとつ傷つけられなかった。


 宙にほどけた布の端が、ひらりと一度揺れる。


 散り落ちた早梅の花弁のように。


 二枚目の苦無が耳元を掠めていく。


 彼はふと視線を上げ、囲炉裏から立ちのぼる煙に目をやる。


 指先が、極めて軽く動いた。


 弾いたのは鉄ではない。


 炭火が立ち上らせた一筋の熱気だった。


 その熱が苦無にぶつかり、ふっと持ち上げる。


 喉元へ向かっていたはずの軌道は、ほんの一寸だけ高くずらされ、そのまま背後の柱へと突き刺さった。


 木屑が四方へ飛び散る。


 三つ目の気配は、地を這うように近づいてくる。


 廊下の男の縄は、床板すれすれを滑りながら円を描き、鉄の匂いをまとって柳澈涵の脛に絡みつこうとしていた。


 縄が締まりきろうとする寸前、彼は一歩、前へ踏み出す。


 ――まさに輪が収束しようとした、その一点を軽々と跨いで。


 縄の輪は空を切り、彼が先ほどまで立っていた場所に落ちた影だけをからめ取った。


「風が、まっすぐ過ぎる。」


 彼は静かにそう言い、さらに半歩、前へ踏み込む。


 つま先でそっと縄を踏みつけ、榻板と敷居のあいだに押さえ込む。


 廊下の男が思い切り引いてみても、縄は何か重たいものに押さえつけられたように、一向に動かなかった。


 屋根の男は、最初の試しが完敗に終わったことを悟る。


「並みの剣客ではないな。」


 心の中で、素早くそう結論を下した。


 試しは済んだ。


 次に来るのは「試し」ではなく「殺し」だ。


 彼は深く息を吸い込み、指先に最後の苦無を挟む。


 それは極限まで薄く研ぎ澄まされた刃であった。


 喉元をかすめるだけで、皮膚がひと筋裂け、当人は喉を押さえたまま地面を転げ回ることになるだろう。


 同じとき、廊下の男は縄を捨て、柱の陰から低く飛び出していた。


 腰の短刀が鞘から抜け、刃を逆手に握り、ほとんど地面に吸いつくような体勢で、柳澈涵の膝を狙って突進する。


 膝さえ折れれば、そのあとの動きはもうついてこられない。


 梅の木の陰の男は、闇の中から細長い鉄串を引き抜いた。


 先には、きつく巻かれた小さな包みが括りつけられている。


 甲賀特製の煙粉だ。


 囲炉裏に叩き込めば、たちまち煙が室内を満たし、目も鼻も喉も、唐辛子水を流し込まれたような地獄になる。


 三人が一斉に動く。


 庭の風が、さらに一段冷たく締まる。


 今度こそ、殺意は本物だった。


 柳澈涵は、ゆっくりと息を吐く。


 左手で茶椀を持ち上げ、これらの殺気とはまるで無縁であるかのように、何気なく脇へと置いた。


 その「ことり」とした小さな音が、ちょうど廊下の男が踏み込む拍子の上に重なる。


 すでに満ちていたはずの力が、ほんのわずかだが、その一音によって乱れた。


 足運びが気づかぬうちに、ひと拍だけ遅れる。


 その一拍。


 短刀が届くより一瞬早く、横薙ぎに振るわれた鞘がそこにあった。


「どん」という鈍い音が鳴る。


 刃のない木鞘は、鋭さこそないが、ずしりと重い。


 その重みは、男の手首の関節にぴたりと落ちた。


 骨の中に火を押し込まれたようでもあり、氷の花をひとつ咲かされたようでもある。


 指先から一気に力が抜け、短刀は手を離れ、半円を描いて飛んでいき、囲炉裏のなかに沈んだ。


 炭火が弾け、火の粉がぱっと散る。


 男の身体は本能的に横へ転がり、距離を取ろうとする。


 だが、それより早く、鞘がもう一度、その肩口を軽く叩きつけた。


 先ほどよりも明らかに軽い一打ち。


 しかし、場所はえげつなく正確だった。


 古傷のうえに、きっちりと重なる。


 肩が痺れ、片側の身体が一気に沈み込む。


 屋根の苦無は、すでに放たれていた。


 鉄の刃は空を裂き、鋭い鳴き声をあげながら、柳澈涵の片目を真正面から狙って落ちてくる。


 柳澈涵は右腕を上げ、鞘を水平に構える。


「ちん」という澄んだ音と共に、苦無は鞘に弾かれ、火花を散らして軌道を外れた。


 そのまま斜めに飛び、衣桁に突き刺さる。


 衣桁は丸ごと倒れ、床に「がらん」と派手な音を響かせた。


 隣の部屋の佐吉が寝返りを打ち、寝ぼけ声で何かを呟く。


 すぐに、また静かな寝息に戻った。


「よく眠る。」


 柳澈涵は心のなかで、淡々とそう思う。


 梅の木の陰の男は、もう悠長に構えていられないと悟る。


 歯を食いしばり、指先を弾く。


 煙粉を括りつけた鉄串が、火の光を噛みながら、まっすぐ囲炉裏へ飛び込んでいった。


 鉄串が空を走る短いあいだに、彼は違和感を覚える。


 狙った軌跡どおりに、串が落ちていない。


 囲炉裏の上で、何か見えないものに支えられたように、わずかに持ち上げられた。


 火の上で一瞬だけ、宙にとどまる。


 極めて短いその一瞬で、柳澈涵の手が届く。


 彼は鉄串を掴まない。


 指先で炭の灰をひとつまみ、そっとひとなでして放つ。


 目に見えぬ熱の流れが、火から立ち上がる。


 鉄串はその熱に支えられるようにして軌道を変え、囲炉裏の縁を掠め、脇の土間に突き刺さった。


 煙粉が弾け、鼻を刺す辛味の匂いがふわりと広がる。


 しかし、屋内の空気を支配するほどには至らず、部屋の隅に小さな渦をつくるだけに終わる。


「甲賀の薬は、こんな使い方をするものではない。」


 柳澈涵が低く言う。


 彼の身影がふいに前へ傾き、足が榻板を蹴る。


 ほとんど音も立てずに、梅の木と廊下のあいだを一直線に駆け抜けた。


 梅の木の陰の男の目には、一瞬白い影が流れたように見えた。


 後退ろうとする寸前、視界の端には、すでに横合いから振り抜かれた鞘の姿が映っている。


 その一打ちは、手首と肘のあいだ、まさに痺れの走る一点に落ちた。


 腕全体に重い槌を受けたかのような衝撃が走り、指が勝手に開く。


 握りしめていた予備の薬丸が、ころりと床に転がり落ちる。


「粗末にするな。」


 鞘がそのまま薬丸をすくい上げ、軽く払うと、丸薬はまた男の足元へと転がり戻った。


「甲賀の薬は、火にくべれば煙となり、井戸に投げ込めば毒となる。」


 柳澈涵は男の前に立ち、黒い鞘を肩に担ぎ上げる。


 それはまるで、ただの竹竿をぶら下げているだけのように見えたが、その声色はさきほどよりも冷ややかだった。


「神前の供え物に忍ばせれば、信徒に自分の手で飲み干させることもできる。」


「そんな品を、ただの度胸試しに使うのは、もったいないと思わないか。」


 先ほど屋根にいた忍びは、最後まで警戒を解かなかった。


 同僚がすでに押されていると見て、正面からの打ち合いは避け、腰の後ろに隠していたものを引き抜く。


 短い柄に、鎌と鎖、鉄球がついた武具。


 鎖鎌くさりがま


 これは、並の武士に見せるための武器ではない。


 彼は夜気と一緒に音を呑み込み、屋根から静かに飛び降りる。


 梅の枝を踏み、反動をもらって身を落とした瞬間、鎖鎌はすでに唸りをあげていた。


 鉄球が廊下の柱にぶつかり、鈍い音を立てる。


 鎖はそのまま角を回り込み、柳澈涵の腰に佩かれた刀を狙って絡みついた。


 この一撃は命ではなく、刀を取りにいっている。


 一瞬でも刀を引き剥がすことができれば、それで十分。


 その一瞬あれば、追い打ちの刃は必ず通る。


 柳澈涵は背中をこちらに向けていた。


 多くの剣客にとって、それは致命的な大きな隙である。


 鎖がぴんと張り詰める、その刹那。


 彼はふいにその場で身を返し、身体をわずかに傾けて腰を沈めた。


 刀は鎖鎌に引かれていくどころか、その引き付けられる力を借りて、かすかに震える。


「刀が欲しいのなら。」


 彼は淡々と言う。


「まず、この刀自身が許すかどうかを聞いてからにしろ。」


 次の瞬間、鞘は鎖の走る方向へ一気に引き戻された。


 柳澈涵は鞘尻を握り、榻板を蹴る。


 風のような速さで、鎖の延びた先へと走り抜けた。


 屋根にいた忍びは、手に痺れを感じ、とっさに鎖を放す。


 すぐさま鎌の刃を持ち替えて反撃に移ろうとしたときには、鞘がすでに彼の手の甲を押さえ込んでいた。


 その一押しは重くない。


 ただ、逃げ場のない一点を正確に踏んでいる。


 手のひらの筋をぴたりと塞がれ、鎌の刃は半ばで完全に止められた。


 手首を振る余地すらない。


 そこへ膝がひとつ、みぞおちを突き上げた。


 視界が黒く塗りつぶされ、吐き出しそうな息が喉で詰まる。


 膝が勝手に折れ、片膝を床についた。


「お前たち三人。」


 柳澈涵は肩をひとつ上下させた。


 まるで、ついさっきまで数度ばかり軽く身体をほぐしていただけ、という様子だった。


「ここへ来る前、熱田のあの神官とは、どういう口上で話をつけてきた。」


 廊下で肩を打たれた忍びは、身体を丸め、額から冷や汗を滴らせている。


 歯をきつく噛み、低く答えた。


「……清洲に現れられた御方が……尾張に福をもたらす神か、それとも……祟りを呼ぶ、あやかしか……見極めよと。」


「“妖”という字は。」


 柳澈涵はふっと笑う。


「寺社というものが、もっとも好んで口にする言葉だ。」


 膝を引き、鞘の先で廊柱を軽く「こん」と叩く。


 思案の拍子をとっているような、そんな仕草だった。


「では今はどうだ。まだ、俺を妖だと思うか。」


 梅の木の下にいる隊長格の男は、荒い息を二つ三つ吐いたあと、ようやく身を起こした。


 脛には鞘を食らった痛みが残り、筋肉がひくひくと痙攣している。


 片膝をつく姿は、まるで無理やり礼をさせられているかのようだった。


「……妖ではない。」


 彼は畳を見つめ、掠れた声で言う。


「人だ。ただ……我らのような者が、軽々しく手を掛けてよい御方ではない。」


「それでいい。」


 柳澈涵は小さく頷く。


 鞘を握ったまま、二歩、前へ出た。


 三人を視界のなかに納める位置だ。


 炭火の光が彼の周りをなぞるように立ち昇り、白い髪のあたりで淡く光を返す。


 その顔は、ほとんど冷淡と言っていいほど静かだった。


「戻って、伝えろ。」


 隊長格の男が顔を上げる。


 初めて、その目に血の匂いを帯びた頑なさが浮かんだ。


「誰に……何を伝えよと。」


「もちろん、神前で香を焚き、社で酒を飲み、見えぬ場所で金を数えているあの男にだ。」


 柳澈涵の声は平板だが、その一言一言は、はっきりと打ち込まれていく。


「今夜、この一歩を踏ませたのは、他ならぬあいつだとな。」


 鞘を廊柱から離し、指先で柱の木目に残った、鉄球が擦った小さな傷を撫でる。


 どうでもいい些事を眺めるような、そんな目つきだった。


「お前たちが戻ったあと、あいつはどう動く。」


 隊長はしばらく答えなかった。


 だが、答えは難しくない。


 任務は果たせず、相手に底まで見透かされた。


 あの寺社の理屈からすれば、彼ら三人の身体には、すでに“穢れ”がまとわりついているということになる。


 そういうとき、もっとも手っ取り早く、もっとも清潔に済む方法は決まっている。


 人目の届かぬところで、その“穢れ”ごと、跡形もなく消してしまうことだ。


「甲賀の者どもよ。」


 柳澈涵が口を開く。


「高野から近江へ。伊賀から甲賀へ。」


「任務の最中に死んだ者より、任務の外で消された者のほうが多い――そういう数を、お前たちはきちんと数えたことがあるか。」


 彼はゆっくりと前へ歩み出る。


 炭火の光が足元に広がり、風に少しずつ削り取られていく。


「お前たちが、これまで何人を斬り、何人を毒に沈めてきたか――それは、お前たち自身がいちばんよく知っているはずだ。」


 隊長の喉仏が小さく上下する。


 思わず目をそらしそうになり、それを無理やり堪えて、指の関節を白くなるほど握りしめる。


 屋根を駆けてきた忍びは、前髪に隠された視界のすみでじっと地を睨み、もう一人は歯を噛みしめたまま沈黙していたが、その背筋はいつのまにかぴんと伸びていた。


「熱田のあの神官は、昼は神旗の下で功徳を語り、夜は酒を酌み交わしながら、お前たちに何を説いた。」


 柳澈涵の声は淡々としている。


「奉仕だと。宿命だと。“この地を社の名のもとに守る務め”だと。」


「どれも立派な文句だ。」


 彼は土間に突き刺さった鉄串を見下ろした。


「だが、いざ自分の身や、周りに集めた太りきった供奉や侍たちの番になったとき――」


「果たしてあいつらは、お前たちと同じように、その命を包みに括りつけて、刃の先にぶら下げる覚悟を持っているか。」


 炭火が小さくはぜ、火の粉がひとつ跳ね上がる。


「今夜、お前たちをここへ送り込んだ。」


 柳澈涵は顔を上げる。


「明晩でも、その次の晩でも、もし別の勢力が動いたとしたら――」


「“今夜の汚れ”を、まとめて俺のせいにし、お前たちごと、きれいに洗い流そうとは考えないと思うか。」


 隊長は長い沈黙のあと、低く言った。


「我らは……命じられたとおりに動くのみ。」


「だからこそ、お前たちは危うい。」


 柳澈涵は小さく頷く。


「お前たちは命令だけを受ける。あいつは命令を出すだけでいい。」


「軽い調子の命令ひとつで、死ぬのはいつだってお前たちだ。」


 彼は鞘をまっすぐ、庭の外――見えぬどこかを指し示す。


「伝えろ。」


 炭火の光が黒い鞘に沿って這い上がり、その先端で、白い髪がまたぼんやりと光を返す。


「これから先、二度と俺の住処に足を踏み入れるな。」


「寺社の道でも、豪族の道でも、どこの抜け道でもよい。」


「誰の差し金であれ、一歩でも踏み込めば、その足跡を辿って道そのものを断ち切る。」


「もし本気で俺を禍の元だと思うなら。」


 柳澈涵は、ひと語ひと語を噛みしめるように、ゆっくりと言う。


「大人しく自分の香煙の領分だけを守っていればいい。」


「清洲の外に出るものには、俺も目を向けない。」


「だが、この風を利用して、また見えぬところで何かを企むつもりなら――」


 そこで言葉を切る。


「そのときは、神前の灯を、俺が代わりに吹き消してやる。」


「それは……脅しと受け取ってよいのか。」


 先ほど屋根にいた忍びが思わず口を開き、隊長の鋭い視線に押さえ込まれる。


 隊長は深く息を吸い、額には細かな汗を浮かべながら、それでも視線を上げた。


「今宵、我らを生かして返されるとは。」


 声は掠れていた。


「戻ったのち、また同じように命じられ、ここへ向かえと仰せつかるやもしれぬ。……そのことは、恐ろしくはないのですか。」


「恐ろしい。」


 柳澈涵は、あっさりと頷いた。


「お前たちが再び来るなら、俺は、もう今夜のように言葉を費やすつもりはない。」


 目を伏せ、鞘を握る指を、ひとつだけ緩めてから、また締める。


「そのとき俺の代わりに口を開くのは、刀の刃だけだ。」


「その頃には――」


 彼は静かに言葉を継ぐ。


「戻れなくなるのは、お前たちではない。」


「二度と“人を出せなくなる”のは、あいつのほうだ。」


 庭に、短い沈黙が落ちた。


 その静けさの中で、何かがかすかに緩み、また別の何かが静かに張りつめていく。


 隊長は長く息を吐き出す。


 深々と頭を垂れ、畳に額をつけた。


「……今夜のこと、甲賀は忘れませぬ。」


「お言葉、確かに然るべきところへ届けましょう。」


 ひと呼吸置いて、小さく言葉を足す。


「そして――清洲には、“夜に戸口を踏まれるのを好まぬ御方”がいることも。」


「それで十分だ。」


 柳澈涵は身を少しだけ脇へずらし、道を開けた。


「行け。」


 三人は互いに肩を貸し合いながら立ち上がる。


 ひとりは足を引きずり、ひとりは肩を押さえ、残るひとりはなおも片膝を床につき、何度か大きく息を吸って、ようやく足に力を戻した。


 彼らは余計な言葉をひとつも残さない。


 ただ、塀を乗り越える間際に、つい振り返ってしまう。


 囲炉裏のそばに静かに腰を戻し、白い影がまた筆を取る、その姿を。


 炭火の薄暗い光の中、紙の上に細く澄んだ一行が描かれていく。


 今宵の影とも刃とも、何の関わりもないかのように。


 ――風止むとも、影はなお消えず。


「行くぞ。」


 隊長が声を低く絞る。


 三つの影は塀の向こうへ消え、夜の闇に一息で呑まれた。


 やがて、庭先の風はまたどこか頼りない、散漫な吹き方に戻る。


 まるで何事もなかったかのように。


 隣の部屋の佐吉は寝返りを打ち、少しばかり耳障りな鼾をひとつ洩らし、そのまままた深い眠りへと沈んでいった。


 柳澈涵は、そっと灯を吹き消す。


 灰の中に沈んだ炭火だけが、赤い光をわずかに残している。


 清洲の夜は、再び目を閉じた。


 ただ、ごく限られた者だけが、そう遠くないうちに薄々気づくことになる。


 急に慎重になった足取りや、むやみに伸びてこなくなった幾つかの手の気配を通して。


 この城の冷たい風のなかで、一度だけ、刀と影が言葉を交わした夜があり――


 神旗の下に立つあの男は、「どこまで手を伸ばすか」を考え直さざるを得なくなったのだと。

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