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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第十四話 西町の猿・木下藤吉郎、泥中より

清洲の西町の朝は、いつも城下のほかの場所より、半拍ほど遅れて目を覚ます。


 城下町の低いあたりでは、魚売りがすでに川べりで声を張り上げ、味噌屋の前からは、木槌で樽の蓋を叩く鈍い音が響いている。だが、西町のこの小さな丘の上では、まず風だけが先に目を覚まし、人々はまだ戸口の内側で寝返りを打っていた。


 屋敷の襖が、すっと静かな音を立てて開く。佐吉が水盆を両手で抱え、廊下をとことこ歩いて入ってくる。


 座敷には、すでに茶器が整えられていた。机の上には薄い紙が数枚、文鎮で押さえられている。淡い墨で、骨格だけを描いた人形がいくつも並び、顔は描かれず、身体のあちこちに星のような点が密に打たれ、細い線で結ばれていた。


「どこまで覚えた。」


 柳澈涵リュウ・テツカンは筆を手にしたまま、顔を上げない。


「昨日おっしゃったのは……この手から胸へ上がる線が、手少陰心経で……この足の先から胸までの線が、足陽明胃経で……。」


 佐吉は水盆を置きながら頭をかき、目を凝らして紙を覗き込む。


「でも、ツボの名前が多すぎて、後ろのほうを覚えると、前のほうがぐちゃぐちゃになっちまいます。」


「ぐちゃぐちゃになるのがふつうだ。」


 柳澈涵は細い竹串を水に浸し、紙の上一点を軽くつつく。


「ここは、人がいちばん痛みに弱いところだ。針を刺せば、罵る者もいれば、歯を食いしばって耐える者もいる。笑いながら『もう一針』と言う者もいる。」


「おまえが覚えるのは、名前だけではない。その一本の気の流れ──そして、人の心の流れだ。」


 彼は竹串をすっと動かし、別の一点を指した。


「この線は、病を診るより、人を見るのに向いている。ここへ針を入れれば、心にやましいところのある者は、まず目が泳ぐ。これから人に針を打つときは、針先だけを見るな。目を見ろ。」


「へ、へい……目を見る。」


 佐吉は慌ててうなずいたが、すぐにまた心配そうな顔になる。


「でもですねえ、澈涵様。医術ってのは、何年も修行しなきゃ身につかないもんでしょう? こっちは毎日、博打場の帳面つけたり、薪や米を買いに走ったりで、手が回らねえ気がして……。」


「だからこそ、学ぶんだ。」


 柳澈涵は竹串を置き、ふっと目を上げる。


「今のおまえは、銀を触る手だ。誰の懐にいくらあるかは、すぐに勘定が立つ。」


「そのうち病を診られるようになれば、誰の身体に、あとどれだけの命が残っているかも見えてくる。」


「銀も命も、どちらも帳面だ。長くつけていれば、そのうち、どちらの帳に目を多く配るべきか自ずと分かる。」


 佐吉はきょとんとしたあと、なんとなく背筋に冷たいものを感じ、それでも心の奥に妙な高揚が生まれるのを抑えられなかった。


「今日の博打場の帳面は、昼過ぎでいい。」


 柳澈涵は紙をたたんで、机の下の木箱にしまう。


「先に西町の薬屋へ行ってこい。昨夜、幸蔵の足に処方した薬を、もう一度分だけ取ってこい。あの足を治しておかないと、夜道で転んで死にかねん。」


「かしこまりました!」


 佐吉は威勢よく返事をしながら、心の中ではすでに計算を始めていた。


 ──薬屋、博打場、米屋、薪屋……一日走り回ったら、前よりよほど骨が折れるぞ。


 だが、部屋の中の新しい畳と、隅にきちんと積まれた米俵をちらりと見ると、そのささやかな不満もすぐに、足元の土のような安堵感に押し流された。


 彼は小さな手帳をつかむと、口の中でぶつぶつと唱えながら立ち上がる。


「薬屋、博打場、幸蔵の足、井戸の水を二桶多めに……夜はまた薬草の見分け方……ああ、忙しい忙しい……。」


 口ではぼやきながらも、足取りは軽く、廊下を駆け出していった。


 西町の路地は、だんだんと賑わいを増していく。


 行脚僧が木魚を叩きながら門前を通り過ぎ、少し離れた倉のほうからは、掛け声と車輪の軋む音が聞こえてきた。清洲織の布を担いだ商人が、粗布の端を肩にかけ、高地から城下へと降りていく。布の角が空気の中に浅い弧を描いた。


 ほど近い場所に、幸蔵たちの小さな博打場がある。


 看板はひどく目立たない。古い板切れに二文字を刻んだだけのものが、軒先にぶらさがっている。風が吹けば、かすかに揺れるが、気をつけて見なければ見過ごしてしまう。


 中はすでに熱気でむんむんだ。


「ほらほら、大小、どっちに張る! びびってるなら帰んな!」


「昨日は散々負けたからな、今日は俺が取り返す番だ!」


 サイコロの陶片が盅の中でぶつかり合う乾いた音、あふれた濁酒の酸っぱい匂い、男たちの押し殺した罵声と笑い声が入り混じり、西町の風と一緒に渦を巻いていた。


 佐吉が戸を押し開けると、常連の何人かが笑いかけてくる。


「おお、小さな奉行様が見回りだ! 今日も帳面の検めか? あんたのところのご主人様は、本当に締まり屋だな。」


「締まりが悪いより、よほどましだ。おまえらがすっからかんになって借りに来ないようにな。」


 佐吉は口では負けずに返しながら、ひょいひょいと奥の勘定場へ回り込み、帳簿を引き抜いてめくり始める。


 幸蔵が出迎えてくる。足の怪我はまだ完全には癒えておらず、歩くときにわずかに引きずるが、数日前に比べれば顔色は見違えるほど良くなっていた。


「昨夜はな、丹羽家の蔵のほうから人が二組来た。」


 幸蔵は声を落とし、帳場の陰で身振りを交えて話し始める。


「どいつも飲みっぷりがよくて、口もよく回る。ここのところ、丹羽長秀様ご自身が何度も兵を見に来て、夜の見回りを増やしたってよ。『そのうち、美濃方面へ何度も運ぶことになる』ってな。荷車も新しくこしらえてるらしい。」


「それからだ、森家の連中が、このところ頻繁に来る。どいつも顔が炭みたいに真っ黒で、槍の話ばっかりしてやがる。『次の合戦こそ殿のために先陣を切るんだ』ってな。」


 幸蔵の口から出る「丹羽様」「森様」という言葉には、馴れと畏れが入り混じっている。


 佐吉はうなずきながら、手帳に素早く書きつける。


「丹羽──夜の蔵番増。森──槍の稽古、先陣狙い。」


「林様のほうは?」


「林通勝様か?」


 幸蔵は頭をかく。


「林様の手の者は、こっちにはあまり来ないな。代わりに、書き付けをしてる小役人が、茶屋で酒飲んで舟をこぎながら愚痴っていた。」


「『また殿に文書を書かされる、先代様の掟を持ち出しては、あれこれ止めておられる』ってよ。」


 佐吉は口を尖らせる。


「年長の方は、どうしても足元を固めたいんだろうさ。」


 心の中では、すでに線を引いていた。丹羽は穀倉、森は先鋒を狙い、林は先代の掟を盾に、まだどこかで足を引いている。


「柴田様のところの者は?」


「来るさ。ただ、ここで大きく暴れるような真似はしねえ。」


 幸蔵はさらに声を落とす。


「柴田勝家様の配下は、一目で戦場慣れだと分かる。勝っても負けても多くは語らず、酒を飲み干せばさっさと陣へ戻っていく。二度ほど、前田利家様の名が出た。」


「なんと言っていた。」


「『又左様は、こういうところは好かぬ』とさ。『刀の先の力を無駄にする』ってな。」


 幸蔵は槍を振る真似をしてみせる。


「一度、酒の席で槍を振り上げたら、帳場の提灯がびくっと揺れたらしい。」


 博打場に、またどっと笑い声が広がる。


 西町のこの小さな一角だけで、すでに織田家のいくつかの筋が、ほのかに浮かび上がっていた。


 穀は丹羽、文は林、鋒は柴田と森。若い利家は、こうした泥臭い場所を好まずとも、その影に潜む風向きを確かに胸に刻んでいる。


 そして、その背後には、まだ名もろくに知られていない一人の男の存在があった。その名がこの日の午後、小さな瓦片が風にあおられて転がり込むように、西町の路地へ転がり込んで来る。


 入ってきた男は、小柄だが、肩は締まり、日焼けした肌をしている。笑うと、どこか猿を思わせる顔つきだ。


 一歩、博打場の土間に足を踏み入れると、まずわざとらしく周りを見回し、口の中でぼそぼそとつぶやく。


「いやあ、ずいぶん狭い場所だねえ。サイの目が隅っこまで転がったら、拾うだけでひと苦労だ。」


 言うが早いか、自分で先に笑い出した。


 幸蔵は横目でちらりと見る。


 場数を踏んだ者には、すぐに分かる。この男は、初めて博打場に足を踏み入れた者ではない。


 本当の素人なら、入って来た途端、目は卓の上に貼りつく。


 筋の通った博打打ちは、人を見る。


 猿じみたこの男の視線は、卓の上をかすめると、まず梁の太さや、戸口、裏口の位置を測り、そのあと何気ない風を装って、一つの卓に腰を下ろした。


「木下藤吉郎と申します。」


 男はサイコロの盅を取り上げ、片手で放っては片手で受け止める。身のこなしは軽い。


「城内でお茶を運んだり、味噌を配ったり、ついでに薪を担いだりしている、小さい者でございます。」


「三つとも六、どうだい、乗るかい?」


 彼は点を口にしながらも、口は止まらない。


「このところ、丹羽様の蔵には、ずいぶん新米が入ったそうじゃないか。川向こうの小船が沈みそうだって、皆笑ってた。」


「戦となれば、丹羽様の機嫌一つで、刀の切れ味なんぞ変わってしまう。米が切れたら、どんな名刀でも、人は斬れない。」


 卓の端から、鼻で笑う声が上がる。


「何を分かったような口を。まだ戦の影も見えないのに、先に米を心配とはな。」


 藤吉郎はにこにこしながら、わざと小さく負けるように手を開いた。


「これは心配というより、美濃の連中が先に腹を空かせないか、気になってね。何しろ尾張者は、昔から太っ腹だろう?」


 再び、どっと笑いが起こる。


 言葉には油が乗り、ところどころ棘もある。それでも、不思議と人を逆なでするような嫌らしさはない。


 幸蔵は勘定場の陰からしばらく眺めていて、ふと気づく。


 ──この小僧、言葉の運びが、刀を振るう者に似ている。速く、正確で、引き際も心得ている。


 佐吉が店に入ってきたとき、ちょうど藤吉郎が卓の周りで猿のように笑いながら、こう言っているところだった。


「森様の兵は、昨夜も槍を振り回して稽古してたよ。信長公が、そのうち日を選んで、美濃の城壁の前を走らせるんだとか。」


「俺たちみたいな茶運びの小者は、せいぜいその端っこで土煙を浴びるくらいだ。」


「いやあ、いつか美濃の瓦の上を、堂々と踏んづけて城に入れたら、それこそご先祖様も、仏様も、夢の中で笑ってくれるだろうさ。」


「おまえの先祖は、その前に博打で供養代を使い果たされるぞ。」と、誰かが突っ込む。


 また、腹の底から笑いが湧く。


 佐吉は目を細め、帳簿を懐に押し込みながら、ゆっくりと勘定場のほうへ回る。


「あの小僧の名は。」


 顎で卓の方を指す。


「木下藤吉郎、と名乗った。どこの家臣かは、はっきりとは言わなかったな。」


 幸蔵も声を低める。


「賭けは軽い。だが、口がよく回る。張った分より、聞いたことの方が多い。どう見ても、ただの博打打ちじゃねえ。様子を見に来た目だ。」


 佐吉はしばらく考え、同じく小声で返した。


「じゃあ、好きなだけ見させておこう。こっちはこっちで、見させてもらうさ。……あとで屋敷に戻ったら、お話します。」


 昼過ぎ、川向こうから湿り気を帯びた風が、西町へと吹きつけてきた。


 柳澈涵は窓辺に座し、廊の外の老松の影が、庭の上をゆっくりと移ろっていくのを眺めている。


 佐吉は一気に、博打場の様子や藤吉郎のことを語り終え、最後にひとことまとめた。


「サイの目より、目の方がよっぽどよく動く猿ですよ。」


 柳澈涵は、ふっと笑みを洩らす。驚いた様子は微塵もない。


「殿下の差し金だ。」


 疑問ではなく、事実を述べるような口調だった。


「こういう者が、何の縁もなしに転がり込んでくるはずがない。」


「じゃあ、こっちは……身を隠したほうが?」


 佐吉は思わず首をすくめる。


「何から隠れる。」


 柳澈涵は立ち上がり、机の上の医書をぱたりと閉じた。


「風が吹き込んできているのに、ひたすら戸を締め切っていれば、いずれ家中が黴だらけになる。」


「行って、あの男をここへ招いてこい。『屋敷に尾張味噌が少し入りました。値の良い商人を紹介していただけないか』とでも言えばいい。」


 佐吉は目をぱちくりさせたあと、にやりと笑った。


「そんな話なら、あいつ、目を輝かせて飛んで来ますね。」


 日が少し西に傾いたころ、木下藤吉郎は、小さな薪の束と味噌を包んだ布包みを抱えて、西町の小高い丘にある屋敷へとやって来た。


「いやはや、こりゃまたいい場所だ。」


 彼は庭の老松を仰ぎ見ながら、舌を巻く。


「川のほうから吹いてくる風が、まずここで一度、枝に引っかかってから城へ向かう。耳に蝋を詰めてでもいない限り、ほかの者が聞き逃す音も、ここならよく聞こえるでしょうな。」


「木下殿、目が利くな。」


 柳澈涵は廊下に佇み、穏やかな目で彼を見ている。


「中で話そう。」


 藤吉郎が一歩座敷に上がると、さっきまでの博打場の騒がしさが、すっと背後へ遠ざかったように感じた。


 新しい畳の匂いがするが、余計な贅沢品はひとつもない。


 机の上には茶器と数冊の薄い冊子が置かれ、隅には鍼灸道具を収めた木箱が寄せてある。


 障子越しに、老松の影が濃淡を変えながら揺れている。それは、水面に広がった波紋が止まった瞬間を、そのまま切り取ったかのようだった。


「これは……医書でございますか。」


 藤吉郎は机の上を一目見て、大方を察した。


「殿のそばには、兵法に通じた者も、刀に長けた者もおりますが……針を打てる者は、そう多くはない。」


「病を治せる者なら多い。」


 柳澈涵は静かに答える。


「だが、人を治せる者は少ない。」


「清洲をどう見ているか、聞かせてみろ。」


「『人を治す』……ですか。」


 藤吉郎はいったんその言葉に詰まりながらも、すぐに口元をほころばせた。


「清洲は、そうですな……。」


 彼は障子に映る老松の影に指先で触れる。


「西町は風の入り口だ。どこの家の荷車がこの坂を何度通るのか、どこの蔵が夜も灯りを絶やさないのか。耳と足が鈍っていなければ、そのうち兆しが見えてくる。」


「東へ行けば下町で、城門に近い。あそこの茶屋の半分は茶を売り、残りの半分は話を売っている。」


「丹羽様の兵は、酒はよく飲むが、博打は控えめ。これは蔵の締まりが固い証拠。」


「柴田様の兵は、ここで金を張っても、勝っても負けても多く語らず、酒を飲み終えればさっと陣へ戻る。自分たちの槍に、よほど自信があるんでしょう。」


「森家の若い連中は、やたらと声ばかり大きくて、槍の稽古だ、先陣だと騒いでいる。いざ戦となれば、真っ先に斬られるのも、そういう連中だ。」


 そう言って、柳澈涵を振り返る。


「殿の周りには、だいたいこういう人たちが揃っている。穀を握る人、文を握る人、刀を握る人、首功を狙う人。」


「で、わたしみたいな猿はと言えば……。」


 どこか自嘲気味に笑い、顔の前でひらひらと手を振る。


「そういう人たちのそばで茶を運んだり、味噌の桶を担いだり、走り回って文を届けたりしながら、『この人の足にはどれくらいの泥がついているか』を、こっそり眺めている小者でございます。」


 佐吉は横で聞きながら、思わず身震いした。


 わずかな言葉のやり取りだけで、この数日自分が走り回って見てきたものを、ほとんど言い当てている。


 だが、柳澈涵は淡々とうなずくだけだった。


「よく見ている。」


 彼は藤吉郎の右肩を指さした。


「片側だけ、衣を脱げ。」


「え?」


 藤吉郎は目を丸くする。


「斬るなら、せめて一杯くらい酒を飲ませてからにしてもらいたいですが……。」


 そう言いつつも、躊躇なく片肌を脱いだ。


 右の肩甲のあたりに、古い刀傷が一筋残っており、皮膚が盛り上がって暗く変色している。


 柳澈涵は指先でそこを押し、肩甲骨の内側をなぞるように、ゆっくりと撫で下ろした。


「この傷は、背後から斜めに斬りつけられて、左の胸に抜けきる前に力が抜けている。」


「おまえが身を捻るのは速かった。だが、斬りつけたほうも、一瞬ためらった。」


「もう少し深く振り抜かれていたら、今こうしてしゃべっている途中で、息が漏れていた。」


 藤吉郎の身体が、ぴくりと強ばる。


 それは、彼が昔、入り乱れた小競り合いのさなかに食らった一太刀だった。敵味方入り乱れる中、背中から振るわれた刃を、反射的に身を捻ってかわした。


 ――あのとき、相手が本気で振り抜いていたら、自分はもうこの世にいなかった。


 そういう記憶は、誰にも詳しく語ったことがない。


「おまえは、うまく身を捻った。」


 柳澈涵は手を離す。


「だから、生きている。」


「風を見るのも、道を見るのも、人の顔色を見るのも、周りより半歩はやい。」


「それが、おまえがまだここに立っている理由だ。」


 藤吉郎は、いつもの猿のような笑い方をしながらも、そこにほんの少しだけ真剣さを滲ませた。


「柳殿から見れば、拙者の命は『身を捻った一太刀分』の値打ちということですか。」


「命そのものには、大した値打ちはない。」


 柳澈涵の目は、冷ややかでありながら、不思議と突き放すだけの冷たさではない。


「値打ちがあるのは、自分の命が安いと知りながら、それでも上へ上へと這い上がろうとする、その性分だ。」


「泥の中から這い出してきた者は、足についた泥を嫌われる。だが、掌にできた豆は、いずれ誰かが欲しがる。」


 藤吉郎は一瞬黙り込み、それから大声で笑った。


「いやはや、殿が『影見』だとおっしゃったのは嘘じゃない。」


「我々みたいな猿は、自分では上手く隠れているつもりでも、柳殿の目には、素っ裸で踊っているようなものですな。」


「まだ持ち上げるな。」


 柳澈涵は自分の茶碗と、藤吉郎の前の茶碗に、静かに湯を注ぐ。


「おまえが城下で見ているのは、道であり、蔵であり、誰が生かされ、誰が切り捨てられるかだ。それは確かにおまえの才だ。」


「だが、おまえが今見ているのは、あくまでもこの城の泥だ。少し外側はどうだ。」


 彼は茶碗の底で、机の上を一筋なぞる。


「美濃のほう──稲葉山城の麓の河筋、田畑、山道。米はどの道を通って運ばれ、兵はどこを迂回し、火はどこからつけ、百姓はどこへ逃げる。」


「ここで清洲をよく見たなら、その目でそのまま美濃を見ることもできる。おまえが、もう一段上へ登ろうとするなら、だ。」


 藤吉郎の手の中の茶碗に、わずかに力がこもる。


 茶の面に映る自分の猿じみた顔の隣に、小さな老松の影が揺れているのが見えた。


「つまり……柳殿のお言葉は──。」


「殿がこれから戦うのは、路地の喧嘩ではない。一国を呑み込む戦だ。」


 柳澈涵の声は、淡々としている。


「おまえが泥の中で転げ回るだけに甘んじるなら、一生、少し気の利いた小者止まりだ。」


「だが、顔を上げて、風がどちらへ吹いているかを見ようとするなら、いつか自分の屋根を持てるかもしれない。」


 しばし、二人は黙って相手を見た。


 やがて、藤吉郎は、茶碗を酒盃のように両手で持ち上げ、丁寧に掲げる。


「柳殿のお言葉は、酒よりも喉に沁みますな。」


「肝に刻んでおきます。」


 彼は熱い茶を一気に呷る。あまりの熱さに、目尻にうっすらと涙が滲んだが、それでも口の端には笑みが残っていた。


「この泥猿が、もし本当にいつか屋根の上まで這い上がったら、そのときは下で見ている連中を、きっと驚かせてみせますよ。」


「誰を驚かせるかは、先の話だ。」


 柳澈涵は視線を外す。


「今はまず、清洲を見極めろ。やがて殿から美濃を任されたとき、おまえ自身が、足元の泥の出どころを忘れないようにな。」


 彼の心の中では、小さな駒が一つ、盤上に置かれていた。


 ──泥から上がってきた猿。美濃の泥をこね回す戦は、いずれこの手に任せることになるだろう。


 いずれ信長に、「穴にもぐることも、影の道を行くことも、一人で旗を背負うこともいとわぬ男」として薦めるとき、目の前の木下藤吉郎は、きっと有力な候補の一人になっている。


 黄昏どき、清洲城の天守に灯がともる。


 風は西町を抜け、城壁のまわりで何度か渦を巻き、高く積み上げられた石垣に突き当たって散っていく。


 城内の一室では、織田家の重臣たちが輪になって座り、両脇の壁には山川を描いた掛け物が垂れていた。


 信長は上座に腰をおろし、片肘をついて頬を支えながら、卓上の粗い地図を眺めている。


「西町の屋敷は、静かに暮らしているようだな。」


 目線は地図から外さないまま、何気ないふうを装って問いかける。


 下座で、林秀貞が小さく咳払いをして、言葉を探そうとする。


 丹羽長秀が一歩、先に口を開いた。


「林殿がお遣わしになった者の報せでは……柳殿は、屋内にこもって書を読み、針を打ち、人を診ることが多く、ときおり西町の路地を歩くぐらい。怪しい者との往来は、見られなかったとか。」


「怪しい者……か。」


 柴田勝家が鼻で笑う。


「そなたらが怪しいと見るものが、殿の目にも同じように映るとは限らぬ。」


 口調は相変わらず荒いが、視線だけは正面の信長から外れない。


「勝家。」


 信長が名を呼ぶ。声は低く、それだけで十分だった。


 柴田は頭を垂れながらも、なおも口の端を曲げる。


「老いぼれの杞憂かもしれませぬがな。影見でも、異人でも、本心を違えるとなれば……そんな刀は、収まりがきかぬ。」


「収まらぬ刀は、良い刀とは言えぬ。」


 信長は淡々と言う。


「収まりきらぬ人間もまた、良き人間ではない。」


 何気ない一言だが、その場にいる者はそれぞれ、心のどこかで冷たいものを覚えた。


 そのとき、廊下から足音が近づいてきた。


 木下藤吉郎は、襖の外で正座し、額にうっすら汗をにじませている。どうやら、階を駆け上がってきたらしい。


「木下、入れ。」


 信長は顔を上げずに言う。


「見てきたことを、そのまま申せ。色をつけるな、削るな。」


 藤吉郎は深く一礼し、そのまま簡潔に、だが息の乱れぬ調子で話し始めた。


 西町の風向き。丹羽家の蔵の夜回り。林の配下の小役人が、茶屋で愚痴る文書の山。幸蔵たちの博打場で、今や皆が大人しくしていること。どの卓で、どういう種類の人間がいちばんよくしゃべるのか──。


 そして最後に、柳澈涵の名が出た。


「柳殿は……。」


 藤吉郎は言葉を選び、視線を地図の上の稲葉山城のあたりへと自然に落とした。


「高い木に止まった烏のようなお方にございます。」


「泥の中を走り回っている猿は、自分ではうまく気配を消しているつもりでも、足跡がどれだけ深くついたか、誰に泥を跳ねかけたか──あの方がひとたび見下ろせば、すべて見透かされてしまう。」


「柳殿の目に映っているのは、この城の路地や蔵や門だけではなく、美濃の山や川の姿までも、重なっているように感じられます。」


「殿は稲葉山城の夜に、『影を見る』とおっしゃいました。」


「今日お会いして、拙者の感じたところでは……あれは影だけでは足りぬものかと。」


 室内の空気が、一瞬止まった。


 林秀貞は眉根を寄せ、その評を素直には認めたくないといった面持ちになる。


 佐久間信盛は表情を変えず、胸の内の帳面に、ひとつ印を付けた。


 森可成が低く呟く。


「もしそうであれば……いつか我が家が殿のために先登を願い出る折には、あの男の言葉をひとつふたつ、耳に入れておくのも悪くはない。」


 柴田勝家は、ふんと鼻を鳴らす。


「わしの知ったことではないがな。わしは、血の付いた槍先しか信じぬ。」


 その言葉に、信長はようやく目を上げ、藤吉郎を見やった。


「あの稲葉山城の夜──あのとき、わしはすでに知っていた。」


「やつは、ただの知恵者ではない。」


「影見よ。」


 二文字を、平然と、しかし揺るぎのない調子で吐き出す。それは、今この場で下された新しい評ではなく、すでに心中で確定していた事実の確認にすぎなかった。


「だからこそ、一人で風の中に放り出しておくわけにはゆかぬ。」


 信長の目は地図から離れ、藤吉郎へと移る。


「泥の中から這い出してきた手足だけが、あの目と歩調を合わせられる。」


「木下。」


「はっ。」


 藤吉郎は両手を畳につき、額を深く押しつける。


「いずれ、美濃の泥をかき分ける戦で、おまえの足が必要になる。」


「今はまず、清洲を走りきれ。博打場でいちばん声の大きい者、蔵でいちばん勤勉に見回りをする者、酒の席で主家をいちばん激しく罵る者──全部、頭に叩き込め。」


「覚えきれなんだら、そのたびに己の命で覚えよ。」


「かしこまりました。」


 藤吉郎の声は大きくはない。だが、そこには歯を食いしばるような決意が宿っている。


 自分がもう、ただ茶と味噌を運ぶだけの小者ではないことを、彼ははっきりと悟っていた。


 今この瞬間から、自分は殿の手に掴まれ、「泥中の手」の一つとして盤上に置かれたのだ。


 廊下の隅では、前田利家が、静かに座して室内のやり取りに耳を傾けていた。


 彼は柳澈涵への警戒心を消してはいない。木下藤吉郎に対しては、どこか嫌悪と好奇心が入り混じった、妙な感情を抱いている。


 ──尾張という土地は、いつからこんなにも奇妙な連中を抱え込むようになった。


 利家は心の中で冷ややかに吐き捨てながらも、同時に理解していた。


 今日この日から、この二人は殿の描く大局の中で、それぞれの持ち場を与えられることになるのだと。


 夜の帳が、ゆっくりと清洲城を覆い始めた。


 西町の小さな屋敷では、灯火が黄味を帯びている。


 佐吉は机の前に座り、帳簿を開いて、一行一句、筆を運んでいた。


「林殿 情分一分。丹羽殿 銀二分。殿下 影一分。」


 書き終えると、小さく息を吐き、欄外に小さな字で付け足す。


「幸蔵の博打場 米三斗、酒一樽。」


「筆で書くのは銀だが、心で記すのは命だ。」


 柳澈涵は、その様子を見守りながら、独り言のように、しかしはっきりとした声で言った。


「長くつけていれば、そのうち嫌でも分かる。どの勘定は支払いを延ばせるか。どの勘定は、血でしか払えぬかを。」


 外では風が老松の枝を鳴らしている。


 遠く、博打場からはまだサイコロが転がる音と、笑い声、罵声がかすかに届く。さらに遠くでは、稽古場から夜稽古の槍の掛け声が。もっと遠く、城壁の上からは、巡邏の兵の甲冑が触れ合う小さな音が響いてくる。


 三つのまったく異なる声が、寒い夜気の中で重なり合い、一陣の風となって、西町の小さな屋根の上をかすめていく。


 柳澈涵は茶碗を手に取り、湯面に揺れる灯の影をじっと見つめた。


 ──影は水の上に落ちる。だが、水のほうは、風の向きを覚えている。


 彼は心の内で、静かにそう呟く。


 清洲という城は、もはや初めて足を踏み入れたあの日のような「主を欠いた城」ではなかった。


 影見はすでに座につき、泥中の手もまた盤上に置かれた。


 次に吹く風が、美濃の山河へ向かって吹き荒れるのは──もはや、疑いようもないことであった。

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