第十二話 山河の座 ・ 風を定むる
炭火は、さらに勢いを失いつつあった。
火鉢の炭がひとつかき回され、火花がぱちぱちと跳ね上がる。
だが程なくしてまた伏せ、広間の梁や障子に、薄く暗紅の光を落とすだけになった。
外の風は清洲城のまわりを巡り、時に疾く、時に緩く吹きすぎる。
まるで目に見えぬ獣が、城壁の隙間から匂いを嗅いでいるかのようであった。
屋内の沈黙は、その獣の息とは別に、一寸一寸、重さを増してゆく。
柴田勝家は既に言葉を止めていた。
両手を静かに柄に添え、さきほどまで荒々しく叩かれていた巨岩が、ようやく元の据わりを取り戻したかのように、じっと動かない。
諸人の視線は、音もなく、別の一点へと移っていった。
「……それでは。」
林秀貞が、ゆっくりと身を起こし、再び口を開いた。
その声は相変わらず穏やかで、まるで昔話でも語るかのようである。
しかし気づけば、その言葉は聞き手を、じりじりと退路のない場所まで追い詰めてゆく。
「美濃のこと、老骨はもはや武勇の側から多くを申しませぬ。」
「ただし、ひとつ別の憂いがございます。」
彼は軍陣図から目を離し、堂内の列座へと視線を滑らせた。
「尾張の諸郷が帰心を示したのは、つい最近のこと。」
「田地はようやく整い、民もようやく安んじ始めたばかり。」
「この時に大軍を起こし、美濃へ遠征するとなれば、後方諸郡の年貢や夫役、軍糧の調達……果たして、どこまで堪えられましょうか。」
「一域を得るために、本国を疲弊させてしまうのであれば――たとえ稲葉山城を落とせたとしても、その先、いかが致しましょう。」
堂内の年長の家臣たちの顔に、微かに表情の揺らぎが走る。
それは、彼らの胸の底に実際に澱んでいたもの。
負けることを恐れているのではない。
勝つ代償が、あまりにも高くつくことを恐れているのだ。
「林殿のお憂いは、下の者どもが日々計算している勘定、そのものにございます。」
丹羽長秀も、手にしていた書板を静かに置いた。
平板とも言える声でありながら、その底には現実を見据える鋭さが潜んでいる。
「尾張から美濃へ兵を出す道は、一筋ではございませぬ。」
「三筋ございます。」
彼は手を伸ばし、軍陣図の三か所をなぞるように示した。
「糧がどの道を通るのか。」
「兵がどの道を進むのか。」
「報せがどの道を行き来するのか。」
「いずれか一つでも狂えば、斎藤方が軍を出すまでもなく、こちらの兵が山野の真ん中で立ち往生することにもなりましょう。」
彼は一拍置き、言葉を継いだ。
「柳殿の先ほどの御説では、まず諸豪を動かし、風聞を流し、糧道を締めると。」
「この三つ、どれも人手が要る。」
「どれも糧を食います。」
「今の尾張の蓄えで、これほど多くの筋を同時に支え切れるかどうか――老骨の胸には、まだ十全の確信がございませぬ。」
「それだけではない。」
佐久間信盛の声は太く、まるで胸の内側から掬い上げた言葉を、そのまま放り出しているようであった。
「尾張の兵は、殿の一声でどこからともなく湧いて出るものではござらん。」
「一人を前線に引き出すごとに、田には一双の手が欠ける。」
「美濃の国人勢力は根深く入り組み、城多く、庄多く、人も多い。」
「稲葉一鉄ら数名が、幾度か殿に心を示したところで、それだけで局面を引き留め切れるものでもござるまい。」
彼は地図を睨みつけるように見つめ、眉間の皺をさらに深くした。
「内と外、どちらも手薄とあらば――正直なところ、胸が落ち着きませぬ。」
森可成は、ここまで一言も発していなかった。
ようやくこの時になって、顔を上げる。
「拙者にも、どうにも飲み込めぬことが一つ。」
この武人は、もとより言葉を飾る性分ではない。
回り道をせず、まっすぐに話す。
「美濃の諸城は、もともと疑い深い。」
「たとえ三人衆が実際に異心を抱いていたとしても、その気配が早く漏れれば、真っ先に疑いを向けられるのは、まず彼らでござる。」
「その時には、三人衆が身動きできなくなるだけでなく、尾張から伸ばした手足も、一本一本、斬り落とされることになりましょう。」
「柳殿の先ほどの御説、段階を分けてことを起こすというのは、軽々しく侮れるものではござらん。」
森可成は柳澈涵に視線を向ける。
「ただ……そのどの段でも、人は出る。」
「力も出る。」
「誰が行くのか。」
「どれほど行くのか。」
「どれほど倒れるのか。」
「それが見えぬうちは、どうにも足許がふわつき申す。」
このやりとりのあいだ、誰一人として「よそ者」という言葉を口にはしなかった。
柳澈涵の存在は、もはや「ここに座ってよいかどうか」という次元の話ではない。
そうではなく――
ここに座っているからには、彼らの胸に積もっているこの数々の憂いを、どこまで引き受け得るのか。
話はそこまで進んでいた。
火の光が軍陣図の上を揺らぎ、稲葉山城を示す一団の濃墨を、明滅させる。
柳澈涵はしばし沈黙したのち、すっと立ち上がり、ゆっくりと図の前へ歩み出た。
控えていた小姓が慌てて進み出て、厚い紙図をもう一度きちんと広げ、指先で隅を押さえる。
風でめくれ上がるのを恐れているのだ。
「林殿、丹羽殿、佐久間殿、森殿の憂い、在下とて、決して余計と考えてはおりませぬ。」
柳澈涵は、視線を落とし、そこに描かれた山河を凝視した。
「ただ一時の鋭さだけを頼りに、山に頭からぶつかってゆくのであれば、それは賭けに過ぎませぬ。」
「勝てば運。」
「敗れれば愚。」
「在下が本日こうして言葉を費やしているのは、殿に一国の命運を賭けて、在下一人の口先に乗っていただきたいからではござらぬ。」
彼は指を上げ、美濃の国境線の一点を、そっと突いた。
「不遜を承知で申せば――在下は、美濃をひとつの家に見立てております。」
「ひとつの大きな石ではなく、どうにかこうにか貼り合わせている、五枚の板壁。」
指先はゆるやかに動き、いくつかの位置を順に示してゆく。
「北の国人衆は、山とひと続き。」
「彼らの目が向いているのは、山田と山の神。」
「稲葉一鉄らのような者は、城と兵を握りしめている。」
「彼らが見るのは、自らの身と家の門。」
「龍興の嫡流は、ただ本丸高みの灯火だけを見ている。」
「外戚や遠縁の者たちは、元より縄で引きずられてきた板のようなもの。」
「風が幾分か強まれば、すぐに釘を抜きたくなる。」
「城下の商人どもは、軒下に自分たちで小さな棚を拵えた者たち。」
「雨さえ凌げれば、誰が上に立とうと、さほど頓着せぬ人の群れ。」
「このような家も、表から見れば、やはり『美濃』と呼ばれましょう。」
柳澈涵の声は、淡々としていた。
「ですが、板と板の隙間から風を通してみれば、見えてくるものは変わります。」
「それが大きな石ではなく、どうにか支え合っているだけの、古びた家であることが。」
「板壁が、それぞれ外へ一寸ずつ反り返れば、屋根は自ずと落ちる。」
堂内の誰かが、胸の内でそっと息を呑んだ。
これまで彼らは「美濃」を、一枚の旗、一つの城、一筋の川として見てきた。
ひと塊の「国」として、そう捉えてきたのだ。
それを、目の前の青年は初めて、いくつもの板に解き分けて、ここに並べてみせたのである。
「稲葉一鉄は、突然悟りを得たわけではありませぬ。」
柳澈涵は、稲葉山城の下辺の一点を指で押さえた。
「彼の領地は山と谷に挟まれ、進むも退くも難しい。」
「龍興がこの先も勝手気ままを続ければ、まず苦しむのは本丸の高みに座る者ではない。」
「こうして一城一方を預かる者たちでござる。」
「氏家直元の地形は、一鉄ほどには険しくはござらぬ。」
「しかし、高くも低くもないその位置ゆえに、殿が強く攻めかかれば、彼が最も恐れるのは敗北そのものではない。」
「どちらに身を翻せば、本宗を保てるのか、先が見えぬことでござろう。」
「安藤守就は、また別。」
「彼の急所は、城外の地ではなく、稲葉山城の内。」
「人質も、親類も、城中に在る。」
「龍興の疑心がひとたび動けば、真っ先に詮議の座に押し据えられるのは、この手の者たち。」
柳澈涵は手を引き、諸人を見渡した。
「皆さまは、『彼らが信じられるかどうか』を案じておいでです。」
「在下の見方は、少々違います。」
「彼らは突然『信じられる者』になったわけではない。」
「ただ、局面が彼らをして、『歩かざるを得ぬ一歩』の前に立たせているだけ。」
「道には、自ら選び取る一歩もあれば、人に、あるいは事の流れに、少しずつ追い込まれて踏み出さされる一歩もござる。」
「今の彼らが立っている場所は、『倒戈するか否か』の岐れではござらぬ。」
「『いつ倒戈するのか。どちらへ倒れるのか。そして倒れたのち、どれほど生き残れるのか。』」
「その三つを、嫌でも考えねばならぬ地点に立たされているのです。」
この一席が終わると、広間には、炭がときどき爆ぜる音だけが残った。
林秀貞は伏し目がちで、その表情は読み取りづらい。
丹羽長秀の指は、書板の裏を、無音のまま軽く叩いた。
なにかを暗算しているようでもあり、すぐにその動きは止んだ。
張り詰めていた佐久間信盛の眉間の皺は、ほんのわずかにほどける。
森可成はと言えば、このとき初めて、真正面から柳澈涵を見据えた。
「……そうなると、美濃という家は、もとより頑丈ではないというわけか。」
林秀貞は、長く細い息を静かに吐いた。
「ただ、清洲から眺めていると、屋根ばかりが一枚につながって見える。」
柳澈涵は、かすかに口元を緩めた。
「軒は一線に見えましても、その下の柱が一本木とは限りませぬ。」
「綻びが見えたからといって、それだけで足りるものでもござらぬ。」
丹羽長秀が、そこで言葉を継いだ。
「先ほど、風を動かし、糧を断ち、威信を崩すと申された。」
「ではその風は、どこから吹き込むのか。」
「どの道の糧を切り、どの道は残すのか。」
「威信は、どこを押さえれば崩れるのか。」
「そのひとつひとつが、結局は誰かの手と足を要する。」
「ただ口で線を引いただけで、我らが兵と糧をそこに投げ込むのであれば、それは策ではなく、ただの愚行。」
柳澈涵は、小さく頷いた。
「丹羽殿の仰る通り。」
「在下一人、決して『こうすれば必ず勝てる』などと豪語するつもりはございませぬ。」
彼は手を伸ばし、几帳の端に立てかけてあった筆筒から、炭筆を一本抜き取った。
「ただ殿が許されるのであれば――不遜ながら、一枚の図を描いてみせるのみ。」
「決めつけではなく、あくまで『道筋の一つ』として。」
炭筆が図面の上を走り、細い砂を擦るような音を立てた。
まず稲葉山城の外周に、不完全な円が描かれる。
続いて、そのさらに外側に、三つの小さな点が打たれ、それらを弧が結んでゆく。
「第一が、風。」
「兵を動かす必要は、まだござらぬ。」
「ただ北方の国人たちに、『殿は龍興のように、田畑を気ままに取り上げはしない』と知らしめること。」
「城下の商人どもには、『殿の軍令の中には、銭と糧、そして契約の二文字がある』と悟らせること。」
「三人衆には、『尾張は決して彼らを見捨てて、ひとり龍興の刃の前に突き出したりはしない』と信じさせること。」
「この三つで、家の板壁は、それぞれが外側へと、少しずつ捻じれ始める。」
「第二が、力。」
さらに外側の円環に、いくつかの小さな矢印が描き加えられる。
「急いで稲葉山城そのものを攻める必要はござらぬ。」
「国人領と外戚領を狙い、細かな戦、小さな焼き討ち、小規模な攪乱を仕掛ける。」
「城を奪うのが目的ではなく――『龍興は彼らを守ることができない』と悟らせるのが狙い。」
「田畑を守れず、穀倉を守れず、自分たちが美濃という土地の上で占めてきた位置を守れぬと、はっきり思い知らせる。」
「第三は、殿が最も得意とされる一手。」
彼は稲葉山城の記号の上に、軽く一点を落とした。
「風が既に偏り、家が傾き、板壁がそれぞれ外へ開いている時。」
「その刻を見極め、一度だけ戦を起こす。」
「多くは要らぬ。」
「一度の戦を、きれいに、決定的に勝ち切ればよい。」
「その時、城内には三人衆を疑う者も、国人を疑う者も、外戚を疑う者も残らぬ。」
「恐怖と怨嗟は、自然と一条の線を成し、ただ龍興一人に向かう。」
「その瞬間から、稲葉山城は、自ら崩れ始めましょう。」
柳澈涵は、炭筆を静かに置いた。
「崩れるのが早ければ早いほど、城内で死ぬ者も少なくて済む。」
「我らのすべきは、ただ、その家から逃げ出してくる者たちを、受け止める手を用意しておくこと。」
「聞いていると、一幅の画のようだな。」
森可成が、低く呟いた。
「描いてしまえば円は丸いが、実際に歩けば、その円の上は血だ。」
「その通り。」
柳澈涵は、否定しなかった。
「ゆえに先ほども申した通り、これは『必勝の策』ではない。」
「ただ、『死ぬ者を、いくらかでも減らすための道筋』に過ぎませぬ。」
「どの道を選び、誰をその道に立たせ、どこで立ち止まり、どこで折り返すか。」
「それをお決めになるのは、終始一貫して殿にござる。」
信長は、ここまでずっと沈黙を守っていた。
上座にもたれ、彼の視線は、新たに引き加えられた円と点のあいだを行き来し、やがて、稲葉山城の墨線に留まる。
しばしののち、彼はゆっくりと上体を起こした。
「林。」
「はっ。」
「尾張の諸郷、諸郡。」
「民心を散らさずに、兵を養い得る年数は、いかほどか。」
「どれほどの糧を出させれば、『この先』を見据えたうえでも耐えられる。」
「美濃のためだけに全てを絞るのであれば、もっときつく締め上げることもできよう。」
林秀貞は顔を上げ、その目には静かな決意が宿っていた。
「殿がこの先を、さらに広くご覧になるのであれば――愚考ながら。」
「二年のあいだ、本国の根を揺るがすような策は、避けるべきにございましょう。」
「糧は重ねて徴してもよろしゅうございましょうが、人は、これ以上絞り尽くすべきではありませぬ。」
「丹羽。」
「はっ。」
「柳の図の通り、三段に事を運ぶとすれば。」
「断つべき糧道が三つ、守るべき道もまた三つ。」
「その見積もりを改めて洗い出せ。」
「承知。」
丹羽長秀は、迷うことなく答えた。
「下がりましてすぐ、改めて算を立て直しまする。」
「佐久間。」
「はっ。」
「兵の召集は、ひとまず以前の数を変えずにおけ。」
「ただし、余の欲するは『動ける兵』であって、『城壁の上の数を飾る兵』ではない。」
「一日で郷から集結地点まで駆けつけられる者が誰で、そうでない者が誰か。」
「お前の胸のうちに、ひとつ帳面を作っておけ。」
「胸に記すは、紙に記すより難しゅうございますな。」
佐久間信盛は、苦みの混じった笑みを浮かべつつも、頭を垂れて「はっ」と答えた。
「森。」
「はっ。」
「前線のことは、お前が一番よう知っておる。」
「余は、『勝てるかどうか』を今ここで訊きはせぬ。」
「ただ一つ。」
「この道筋にてことを運んだ場合、兵の死傷は、正面からの力攻めと比べて、少なくなるか。」
森可成は、しばらく沈吟した。
「柳殿の申されるように、まず家の中を自ら荒れさせてから、あとで戸を押すのであれば……。」
彼は、地図の稲葉山城を見やった。
「城壁の下で倒れる兵は、確かに、いくばくか減りましょう。」
「もっとも、暗がりや路上で倒れる者は、なお絶えぬでしょうが。」
信長は、小さく一度、顎を引く。
諸々を問い終えると、彼はようやく、図の前に立つ白髪の青年へと視線を戻した。
「柳。」
「はっ。」
「今日のそなたの言葉、余はしかと聞き届けた。」
「だが――聞き届けたからと言って、そのまま行うと決まったわけではない。」
信長の声は、大きくはなかった。
しかし、そのひとつひとつが曖昧さを許さぬ輪郭を持っていた。
「美濃のことは、どこまでも余が裁断する。」
「そなたの描いたものは、あくまで『通い得る道』に過ぎぬ。」
「どの道が歩けて、どの道が折れ、どこで足を止め、もし歩みを誤れば、その後始末を誰が負うのか。」
「それは、最初から最後まで、一人の肩の上に乗るものではない。」
そこで、ふっと口角を上げる。
「とはいえ――」
「この図の上で、山の下のあれこれを、あのように板一枚一枚に見立てられる者も、そう多くはなかろう。」
「少なくとも、余はこれまで見たことがない。」
広間の誰かの顔に、わずかな変化がよぎり、またすぐに伏し目がちになる。
そのひと言だけで、十分であった。
「柳。」
「はっ。」
「ここ数日、城下のどのあたりの長屋に身を置いていた。」
柳澈涵はわずかに面食らったが、すぐに恭しく答える。
「城下町のはずれ、長屋が幾つも連なる一角にて。」
信長は「そうか」とうなずいた。
「あのあたりは、おおよその様子は知っておる。」
「風はよう通るが――臭いがいささか混ざり過ぎておる。」
彼は几帳を軽く叩き、なにかを量るような仕草を見せる。
「そうだな。」
「城下西町に、空きの小さな屋敷が一つあったはず。」
「もともと客人のために用意した場所だ。」
「前庭は狭いが、裏手に古い松が一本、それから井戸が一つ。」
「辛うじて、『人の住まい』と呼べる程度には整っておる。」
「今日からそこを、そなたの屋敷とせよ。」
広間に、かすかなざわめきが走った。
屋敷を賜うというのは、ただの褒美ではない。
その者を、城下の秩序の中へ、正式に組み入れることを意味する。
長屋に住む者も人。
自前の屋敷を持つ者も人。
だが、そのあいだに横たわる距離は、城門から山裾までより、なお遠い。
それはつまり――
信長が柳澈涵を「清洲に一時滞在させる」のではなく、「ここで根を張ることを許す」という決断を示したことでもあった。
「お屋敷の下賜、ありがたく存じます。」
柳澈涵は深く身を折り、その声音には先ほどよりも一段、重みが加わっていた。
「ただ――在下には、ひとつ分かっていることがございます。」
「その屋敷は、決して安穏の場ではございませぬ。」
「むしろ、風口に一層近づく場所。」
信長は、目にわずかな愉悦を灯し、笑った。
「風が見えぬのであれば、どこに住もうと同じこと。」
「自らを『風を見る者』と称するのであれば、風口に寄ってもらわねば困る。」
「城下西町は、人の出入りも多い。」
「噂も、消息も、あちらこちらから吹き込む。」
「そこは、長屋雑居の地より、よほど役に立つ。」
そう告げると、彼は再び視線を柳澈涵から離し、堂内の諸臣へ広く向けた。
「諸卿。」
「本日語られたものは、一枚の図に過ぎぬ。」
「一陣の風に過ぎぬ。」
「明日よりの諸事は、ひとまず旧例どおりに行う。」
「林はまず後方の台帳を整え、家の勘定を洗い直せ。」
「そのうえで、出すべき兵数を論じる。」
「丹羽、佐久間、森、それぞれ己が任を果たせ。」
「柳――」
そこで、わずかに言葉を区切る。
「そなたは、まず屋敷を移れ。」
「その門先に立ち、風の通りに慣れたのち。」
「見えたものを、少しずつ余に聞かせよ。」
「はっ。」
堂内の声が一つに揃う。
その響きとともに、一日中この大広間を押さえつけていた重たい風は、行き場を見つけたように、音もなくほどけてゆく。
信長が立ち上がる。
衣の裾がゆるやかに揺れ、その動きに合わせて、足元に伸びた影が長く引かれ、やがてまた収まる。
「本日の軍議は、これにて終いとする。」
彼は几帳の裏手へまわり、二列に並んだ家臣たちのあいだを、足取りも乱さず通り抜けた。
諸人は一斉に頭を垂れ、道を開ける。
その背が大広間の端に至り、帳の向こうに消えてゆくころ。
ちょうど外の高みを、ひときわ強い風が掠めていった。
低く長い鳴き声のような音が、城のどこかでこだました。
まるで清洲城そのものが、深く息を吸い込んだかのようであった。
炭火は次第に小さくなり、人の声もまばらになってゆく。
林秀貞が最初に歩み出て、丹羽長秀と森可成は、低声で何事か言葉を交わしながら退席する。
佐久間信盛はぶつぶつと何か呟きつつ、鞘を整え、腰の刀を持ち直した。
誰一人として、すぐさま軍陣図に歩み寄る者はいない。
しかし、その場を離れる者は皆、心のどこかで、あの新しく描き足された円と線を、しっかりと焼き付けていた。
末席に立つ柳澈涵は、静かに諸人の背を見送る。
やがて彼も身を翻し、大広間をあとにした。
殿門を出ると、夜風はいっそう鋭く肌を刺した。
廊下に吊られた灯籠が揺れ、その影の端に、ひとつの人影が深く身をかがめている。
城の陰に紛れるようにして、じっと待ち続けていたのだろう。
佐吉であった。
彼は頭を上げることもできず、木履の音が近づくのを聞いてから、おそるおそる声を絞り出した。
「澈涵さま……。」
「行こう。」
柳澈涵は、軽く頷いた。
「城下西町の風というものが、どのような匂いか――見に行くとしよう。」




