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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第一百一十話 東山夜訪・三つの戸叩き

 八坂での演武から、そう日は経たぬうちに、東山の夜はたしかに少しずつ変わり始めた。


 ある夕方、弥助が医房の片づけを終え、最後の客を見送ると、柳澄原は短く命じた。


「今夜は、これ以上診は取らぬ」


「誰かが来るんですか」


「吉岡の刀を見て、三条で堺の茶を飲んだ。御所の方から何ひとつ声がかからぬようなら、そのほうがかえって妙だ」


 そう言って、門前の灯をつけさせる。

 灯はささやかで、だがひどく安定した光を放っていた。


 暮れきるかきらぬかのうちに、第一の足音が門前まで届いた。


 足取りは速くも遅くもなく、人数は多くない。

 だが、その一歩一歩には、どこか見覚えのある「屋内の気配」がついている。

 広い屋敷の廊下を歩き慣れた者の足だ。軽く、しかし、踏む場所一つひとつを選び抜いている。


 弥助が戸を開ける。


 そこには、きちんとした直垂を纏った中年の男が立っていた。後ろには灯を持った小姓が二人。


「ご無礼をいたします」

 深々と頭を下げる。「中御門家の家司にて候。御主人の仰せを受け、澄原先生にお目にかかりたく参上仕りました」


 柳澄原は廊から出て、同じく一礼した。


「中御門殿は、いかなる御用向きで」


 家司は顔を上げると、さりげなく庭を見回した。楓、焦げた梁、「澄原医房」の小札。

 どれも、彼が知る御医の宅とは違う。だが妙な規矩があることも、すぐに感じ取れた。


「家中にて、このところ夜も安らかに眠れぬ御方がおられまして」家司は言う。「側室が先に先生の薬に預かり、この数夜はよく眠れると申しておる。主はその話を聞き、ひどく感心なされ、ぜひ一度は先生にも御所の中を見ていただきたく――」


 弥助は「御所」という一言に身を固くした。


「御所には御医も多い。頭痛や風邪の類なら、担当の者がいるだろう」柳澄原は淡々と言った。


 言葉の端に、穏やかな拒絶が含まれている。

 家司はそれを聞き取ったが、面を崩さない。


「たしかに、病そのものだけであれば。ですが……」と、少し言葉を探し、「御所の壁は厚うございます。声はなかなか外まで届きませぬ。主が先生を招こうとするは、一方で信頼、一方で――この御所の中から見た城の気をも、診ていただきたきゆえにござります」


 よく練られた言い回しだった。

 乞うでもなく、恩を売るでもない。柳澄原を「城を見てものを言える者」として扱う、ぎりぎりの位置である。


「拙がたびたび御所へ通えば、耳は否応なく壁の内側の話を拾うようになりましょう」柳澄原は静かに返した。「聞きたくもない声ばかり聞こえてくるのは、医者にとって必ずしも良いことではない」


 家司は苦笑する。


「先生は、壁が厚すぎれば、反響ばかりが増えると仰せか」


「壁が厚ければ、反響も重い」柳澄原は言う。「拙は、風の通いのよいところで病を見るのが性に合っております。中御門殿に真に重い病が生じ、他では手がつけられぬときには、その折に東山を訪ねられればよろしい。この山の門のほうが、御所の門よりはずっと開きやすい」


 家司は、しばし無言で彼を見つめ、やがて大きく一礼した。


「承知いたしました」


 頭を上げた顔には、残念さと同時に、どこか晴れた表情も浮かんでいる。

 立ち去り際、声をひそめて一言、付け足した。


「いつの日か先生が、御所の内の風を確かめたくなりましたら、その折は、山の上からこちらを少し長めに見やってくだされ。こちらから参ります」


 強要ではない。暗い約束のような、淡い合図だった。


 彼と小姓たちの灯が闇のなかに消えると、東山の一角は、ふたたび静かになった。


 だが、その静けさも長くは続かない。


 次の足音は、さきほどよりずっと軽い。

 草履が石畳を擦る音さえ、ほとんどしない。ただ灯だけが、人影に合わせて揺れる。


 弥助がまた戸を開ける。


 今度立っていたのは、ごくありふれた町人風情の男で、背丈もそこそこ、腰には小さな金袋。


 柳澄原の姿を見るなり、深く頭を下げた。


「澄原先生」


「堺の石田か」柳澄原は頷く。


 石田は顔を上げると、さっと一度、庭と建物を見渡した。あの三条の夜と同じ、寸分の無駄もない視線だ。


 袖から小さな包みを取り出し、両手で差し出す。


「宗久様より、ささやかな物を預かって参りました。『あの夜、こぼれずに済んだ一碗の礼』とのことで」


 弥助は思わず肩を震わせる。

 一本の箸から始まった出来事が、こうして堺の主まで伝わったことに、今さらながら驚いた。


 柳澄原は、茶葉の包みを受け取った。

 ことさらに辞退はしない。


「宗久殿にはこう返しておいてくれ。――『堺の茶、水はよいが、火は静かに。火が荒れれば、茶はすぐに苦くなる』と」


 石田の目がかすかに光る。


「そのままお伝えいたしましょう」


「もうひと言」柳澄原は続けた。「もし、これから堺の船が山城へ足を増やすつもりなら、まず風がどちらから吹いているか見るべきだ。風に逆らって入ってくる船は、港に着いても、ただ水面をかきまわすだけだ」


 石田は深々と頭を下げた。


「お言葉、しかと。堺で通じるのは、銀ばかりではございません。風もまた、よく通じるところで」


 来るときと同じく、去るときも足音は軽かった。

 灯が二度ほど揺れ、すぐに夜の闇に沈み込む。


 三度目の足音が聞こえたのは、そのずっと後である。


 その頃には、鐘も何度か鳴り、山腹の多くの家は灯を落としていた。

 ただ「澄原医房」の門灯だけが、安定した一つの目のように、夜を見張っていた。


 足音は、門前で長くためらっていた。

 戸を叩くか否か、何度も迷っているようだった。


 やがて、木戸がかすかに鳴る。


 弥助が立ち上がろうとしたとき、柳澄原が手を上げて制し、自分で戸へ向かった。


 戸を少しだけ開ける。その隙間から見えた顔を、彼は知っていた。


 榊である。


 昼間の侍装束とは違い、この夜は地味な濃色の小袖一枚。

 腰の刀は布で鞘口を包んでいたが、離されてはいない。


「こんな夜更けに、榊殿」柳澄原は淡々と言う。


「夜分に恐れ入ります」榊は頭を垂れた。「主のお言葉を、預かって参りました」


「吉岡清十郎からか」


 榊の目がわずかに動き、苦笑が浮かぶ。


「先生の名は、すでに吉岡家の帳面からは消えませぬ」


 二人は縁先に腰を下ろした。

 弥助は気を利かせて下がり、遠くで灯に火を足す。


「主は申されました。京には刀を持つ者が多い。しかし、箸を確かに持つ者は多くない。八坂での一太刀も、あの方は見ておられました」


 柳澄原は、謙遜も驕りも見せず、ただ一言返した。


「吉岡の刀は、この城のために掲げるものだ」


「先生の刀は?」榊が問う。


「己のために持つ」


 榊はしばし黙り、やがて本題を切り出した。


「いずれ、この城で本当の戦が起こるやもしれませぬ。山から火が下り、人の世に刀が上がる。その折――先生の一刀は、どちらの側に立つおつもりか、と」


 これで三度目である。

 「どちらに立つ」と問われたのは。

 比叡山で、そして今、吉岡から。


「あなた方は、先を見すぎている」柳澄原は静かに言った。「火がまだついてもいないのに、先に陣形を並べ始める」


「先生には、何かに与する心はないと?」


「ある」


 榊の眉がわずかに寄る。


「拙は、火にいちばん近いところに立つ」


 榊は息を呑んだ。


「それでは、いちばん危険ではございませんか」


「医者が傷口から遠く離れていて、どうして針を打てる」柳澄原は穏やかに答える。「やがて刀が本当に陣を割る時が来れば、まず誰の刀が無闇に振り回されているかを見る。無闇に振るっている側には、先に拙の一刀が入る」


 榊は長い沈黙ののち、小さく息を吐いた。


 同じ言葉を他の者が言えば、ただの大言壮語でしかない。

 だが八坂の一合を見た今となっては、その「一刀」が、どれほど重いかを想像せずにはいられない。


「主が聞けば、お気を悪くされませんかね」


「されるだろう」柳澄原は、あっさりと言い切る。「だが吉岡清十郎が、耳に心地よい言葉だけ欲しがるようなら、この城の刀を預かる資格はない」


 榊は苦笑を隠さなかった。


「先生は、主に対しても容赦がない」


「あなた方が差し出したのは酒ではない。箸だ」柳澄原は言う。「ならば、こちらも一本、刺して返さねば」


 外の風が廊下を抜け、灯火が一度ふらりと揺れ、すぐに持ち直した。


 榊は立ち上がり、深く頭を下げる。


「承りました」


 門口まで歩みかけたところで、柳澄原の声が背へ届いた。


「一つ、言付けを頼みたい」


「仰せのままに」


「吉岡殿に伝えてくれ。この城には、彼の刀を見ている目がいくつもある。三好が見ている。将軍家が見ている。堺が見ている。山門もまた見ている」


 一言ごとに、針を打つような静けさで、言葉を置いていく。


「皆、自分が何者かを見失う前に、まず自分の影を見ておくことだ――と」


 榊は呆然と聞き、やがてもう一度深く頭を下げた。


「寸分違えず、お伝えいたします」


 彼の背は、夜の中にすぐに紛れ込んだ。

 ただ足音だけが、東山の石畳に細く長く響き、やがて消える。


 弥助がそっと縁先に出てくる。


「先生、今夜だけで三度も……」


「一人は門を借りに来た。一人は風を借りに。一人は刀を借りに」柳澄原は静かに言う。「それぞれ、借りようとするものが違う」


「で、先生は貸したんですか?」


「門は貸さぬ。風は少し話した。刀は……」柳澄原は腰のほうをちらりと見て、「これから、どう使うか次第だな」


 そう言って、内室へ戻っていった。


 机には、細い線でびっしりと埋め尽くされた紙が広げられている。


 筆を取り、一筆、また一筆と線を足す。

 一つは御所から東山へ、一つは堺から三条を経て城中へ折れ、一つは八坂から吉岡道場へ、さらに比叡山から下りて来る線と交差させる。


 弥助はその線の重なりを見て、背筋に寒気を覚えた。


「先生、この線は最後、どこにつながるんです?」


「火が教えてくれる」柳澄原は、ほとんど聞こえぬほどの声で答えた。


 筆を置き、焦げた梁を仰ぎ見る。

 庭の楓が、山からの風を受けてさらさらと鳴る。


 それはまだ点けられていない火が、ひそかに息を吸い込んでいる音にも聞こえた。


 その夜、東山の残院の灯が消えることはなかった。


 この夜を境に、「東山の澄原」の名は、御所、公家、堺、吉岡のあいだをひそやかに往き来し始める――。


 火そのものは、まだ遠くで眠ったままだ。

 だが、どちらに向かって燃え上がるか、その筋だけは、すでに定まりつつあった。

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