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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第十一話 風向きの座 ・ 影を読む者  

清洲の大広間では、炭火がもう一盛りくべられていた。


 火舌は新たに押し上げられた炭を静かに嘗め、「パキッ」と小さな音を立てた。


 まるで、すでに刀で埋め尽くされた部屋に、そっともう一振りを掛け足したかのようである。


 誰も口を開かなかった。


 先ほど庭先での力比べの余韻はまだ消えず、柴田勝家は席に戻ってなお、背筋を伸ばしたまま座している。


 衣の襟に落ちた雪の痕はまだ溶けきらず、激しく波打っていた胸の呼吸も、ようやく静まりつつあった。


 彼は、柳澈涵の方をもう一度も振り返らなかった。


 だが、清洲でいちばん岩のように固いこの男が、あの白髪の若者の腕力と刀を認めたことだけは、誰の目にも明らかだった。


 武断派にとっては、それで十分である。


 しかし、織田家全体にとっては、それだけでは到底足りなかった。


 やがて、林秀貞が小さく咳払いをした。


 年長の重臣である彼は、ゆっくりと身を乗り出す。


 その顔立ちは温厚だが、目の奥には、水面下から決して浮かび上がらぬ老い魚のような光が潜んでいた。


「殿下。」


 まず信長に一礼し、声を整えて続ける。


「先ほど庭における一戦、柴田殿の武勇は衆目の一致するところ。


 あの柳殿の腕力と刀も、老臣とて軽々しく侮るつもりはございませぬ。」


 そのひと言で、広間のあちこちでわずかに視線が揺れた。


 林秀貞が、新参者をこうして正面から評するのは、きわめて珍しい。


「ただ――」


 彼は言葉の刃先を返し、袖を整えながら、軍陣図を一瞥してから、最後列の白い髪へと視線を落とした。


「武勇というものは、所詮ひとつの端に過ぎませぬ。


 ここは清洲軍議の間。


 語られるのは一国の興亡、城の去就、諸侯の離合集散。」


「柳殿には、家もなく、領地もなく、尾張のために一兵一卒を預かったこともない。


 軍役の功もない。


 その柳殿が本日、この堂の中に立ち、美濃合戦を評しておられる。」


 声音は相変わらず穏やかだが、その一つ一つが根を断つように的確だった。


「老臣の浅智では、どうにも疑念を拭いきれませぬ。」


「柳殿。


 かような大局において、いかなる拠り所をもって、そのお立場を得たと仰せになられますかな。」


 言葉が落ちると、森可成がほとんど聞き取れぬほど低く「ふむ」と唸り、佐久間信盛はあからさまに鼻で笑った。


 丹羽長秀だけが、微かに頭を傾け、静かに成り行きを見ていた。


 信長は沈黙を保っている。


 几帳の前で指先だけが軽く几帳面を叩き、その目は林秀貞をかすめ、濃墨で稲葉山城が描かれた軍陣図の一点に静かに止まっていた。


 稲葉山城のあの夜、すでに彼は自らの中で一つの判断を下している。


 灯影の外に座した白髪の若者は、ほんの数語で斎藤家の腐りきった根を、一筋一筋と剥いで見せた。


 ――あの瞬間、信長は心中で、男を「影見かげみ」の列に入れていた。


 軍師でもなければ、武将でもない。


 影に立ちながら、風向きを見通す者。


 今日という日は、ただ己の目が過たぬかどうかを確かめるだけの場である。


 柳澈涵は、一歩だけ前に出て、列のうしろで足を止め、深く頭を下げた。


「林殿の問いは、ひどく重うございます。」


 顔を上げたとき、その表情は静かだった。


 まるで、清洲政道の中枢から公然と詰問を受けているのではなく、対局の前に盤面をひと目眺めているかのようである。


「もし資格ということを申すならば、在座のお一人お一人、すべてにおいて在下は及びませぬ。」


「しかし、林殿が先ほど仰せられたように、ここで論じるは一国の興亡、城の去就、諸侯の合離。」


 彼は軍陣図の上を視線でなぞり、再び堂内の顔ぶれへと戻した。


「であれば、在下の方からひとつだけ、お伺いしてもよろしゅうございましょうか。」


「近ごろ稲葉山城が揺らぎ、美濃の諸豪が次々と向きを変えた。


 この一事を、在座の皆々様は、何を拠り所として見極めておられたのか――と。」


 林秀貞の目尻が、わずかにぴくりと動いた。


 まさか、第一声で問いを返してくるとは思っていなかった。


「美濃諸侯の胸の内など、老臣ごときが語り尽くせるものではありませぬ。」


 彼はゆっくりと口を開き、まだ体面を失ってはいない。


「ただ、斎藤龍興が失徳し、酒と女に溺れ、先祖伝来の家風を投げ捨てたことは、天下の知るところ。」


「諸豪が心に去意を抱いたのは、誰かが何かを言ったからではなく、積年の怨みが積もり積もった果てのことでございましょう。」


 柳澈涵は軽くうなずいた。


「龍興の失徳、それが根であることは違いませぬ。」


 否定はしない。


「ただし、天下の誰もが知っているそのことが、なぜ稲葉山城のあの夜を境に、ようやく『風向き』となって現れたのか。」


 広間はふっと静まり返った。


 あの夜、何が起こったのかを、細部まで知る者は多くはない。


 だが、その後まもなくして、美濃三人衆の気配が、確かに尾張の側へと傾き始めたことだけは、皆が知っている。


「殿下は、あの折、一度在下にお尋ねくださった。」


 柳澈涵は視線をふと上座へ滑らせ、すぐに伏せる。


「在下はただ、斎藤家の山がいかに他者の忍耐によって辛うじて立っているか、そしてどこから崩れ落ちるかを、そのまま申し上げたまで。」


「林殿は老成にして慎重、『一人の見立て』を軽々しく信じるべきではないと仰る。」


 柳澈涵は、口許にかすかな笑みを浮かべた。


「であるならば、在下もまた、ひとつだけ敢えて聞き返したく存じます。」


「あの夜までに、清洲において、殿下に同じことを進言した者が、果たしておられましたか。」


 何人かが、思わず林秀貞の方へ目をやった。


 林秀貞がその視線をすっと払うと、すぐに皆目を伏せる。


 老臣の顔色はさほど変わらなかったが、袂を握る指がゆっくりと縮み、また伸びていった。


「誰が先に見たか。」


 その一点において、この局で自らが先手を失ったことを、彼は十分承知していた。


「柳殿の言は、巧みにして虚しからず。」


 丹羽長秀が、静かに口を開いた。


 声は高くないが、霧に覆われた心中の一点に小さな針を刺すような響きがあった。


「されど……兵のことは『見る』だけでは終わらぬ。


『行う』ことこそ肝要。」


 彼は身を少しだけ横に向け、真正面から柳澈涵を見据えた。


「先ほど庭での一戦、その腕力は、柴田殿とて軽々しく扱えるものではない。」


「しかし、美濃のような大戦は、一度の試し斬りとは訳が違う。」


「口に三策を並べ、百の言葉を費やしたところで、いざ事が起き、そのすべてが見立てと違っていたならば……」


 そこで一拍置いてから、言葉を継いだ。


「――その時、この大広間に並ぶ者たちの血は、誰が背負うのか。


 尾張の田畑と百姓の暮らしは、誰が代わりに差し出すのか。」


 その言葉に、堂内でひそかにうなずく者が少なくなかった。


 丹羽長秀の言には悪意がない。


 だが、公平でありすぎるほど公平だった。


 柳澈涵が、ただ「口の上手い男」でしかないならば、それは所詮、芝居小屋の語り手と変わらない。


 実際に戦場で血を流すのは、織田家の兵であり、家臣であり、己自身である。


 信長は視線を上げ、丹羽をひと目見た。


 この男こそが、この堂でいちばん無駄口を叩かず、それでいて「勝敗と代償」という一点において、誰よりも執着する人間であることを、信長はよく知っている。


 今回は、自分のためというより、織田家の骨格そのもののために、彼は問いを投げていた。


 ――この白髪の若者は、本当に風を見ているのか。


 それとも、風の話だけをしているのか。


「丹羽殿のお言葉、在下ごときが反論する筋合いもございませぬ。」


 柳澈涵は、静かに頭を垂れた。


 その態度はいつもと変わらず、追い詰められた色もなければ、性急に身を守ろうとする気配もない。


「ただ、在下の考えでは――兵の事はもとより『勝てるか否か』ではなく、『その勝ちは果たして必要か否か』にこそあると思うのでございます。」


 丹羽の眉が、わずかに跳ね上がった。


 その一言の意味を、彼は理解している。


「この世には、『勝てる道』は山ほどございます。」


 柳澈涵は、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「一万人死んでも勝てる道もあれば、千人で済む道もあり、百人で済む道もある。」


「『勝てるかどうか』だけを問うのであれば、柴田殿が旗を掲げて山を攻め、昼夜構わず突き続け、たとえ兵の半数を失おうと、いずれは稲葉山城を落とすことはできましょう。」


「しかし、『それは本当に必要な勝ち方か』と問うならば――それはもう、『勝てるかどうか』の話ではなく、『どの道を使って勝たねばならぬか』という話に変わります。」


 彼は手を上げ、軍陣図をそっと指さした。


「美濃合戦を、『勝てるかどうか』だけで論じるならば、殿下はとうに軍議など開く必要はございません。」


「殿下の手にある兵力、尾張の勢い、その北に斎藤家のような主家がいる。


 この天下において、『どうしても攻めねばならぬ場所』など、はたしていくつあるものでしょう。」


「本当に数えねばならぬのは、この一戦が勝てるか否かではなく――」


 彼はひと言ごとに力を込めた。


「――勝った後、尾張にどれほど手が残るか、という一点でございましょう。」


 誰かが、思わず息を呑む音がした。


 これは、美濃の勝ち負けそのものの策ではない。


 清洲の先へ続く路のために、今、何を削り、何を残すかという計算である。


 佐久間信盛が鼻を鳴らし、堪えきれず口を挟んだ。


「言うことは立派だな。」


 荒い声で身を乗り出す。


「糧道を断つだの、風を断つだの、威信を断つだの。


 どの言葉も耳には心地よい。」


「だが柳殿、そなたは所詮、素寒貧の一介の身。


 一兵も預からず、一城も持たず、口を開けば『三つの糧道』『豪族の離反』と大きなことを言う。」


「――本当に出来るのか。」


「出来ぬなら、それはただの空言よ。」


 柳澈涵は彼を見なかった。


 視線は再び図上に落ち、指はある山裾の一点に触れた。


「佐久間殿の率直さ、在下も嫌いではございません。」


 淡々とした声音で続ける。


「ちょうどよい。


 糧道の話なら、まさしく佐久間殿こそが、もっとも語る資格をお持ちでしょう。」


「美濃の糧道は、おおまかに見れば三つしかございません。


 ひとつは長良川沿い。


 ひとつは関を抜けて小城を経る道。


 もうひとつは、南から遠回りして山へ入る路。」


 指先が図の上で淡く動くたび、要害の近くで止まった。


「そのうち二つは、いずれも豪族の手の中にございます。」


「豪族が織田に靡くならば、一兵も動かさずとも、糧道はすでに四割方断たれたも同然。」


 佐久間の顔色がわずかに変わった。


「残る三つ目は――」


 柳澈涵は指を移し、連なる山々の間の狭い谷口をそっと示した。


「ここは山路が険しく、荷車も馬も通いづらい。


 そこへ、もう一つ二つ小さな騒ぎが続けば、この道も次第に死んでいきましょう。」


 初めて佐久間の方を振り向き、まっすぐに見据える。


「もし在下の言が信じ難ければ、丹羽殿にお尋なさればよろしい。」


「天下でもっとも地の利と道筋に通じた方が誰か、在下は軽々しく名乗り出るつもりはございません。」


 視線のほとんどが、いっせいに丹羽長秀へ注がれた。


 丹羽長秀はしばし黙し、それから静かにうなずいた。


「糧道の話、その筋立ては、おおよそその通りだ。」


 それだけを言い添え、余計な評は加えない。


 だが、堂内の者たちには、それで十分だった。


 佐久間の首筋の筋がさらに太く盛り上がり、顔は紅潮していく。


 まだ何か言い返したかったが、これ以上言葉を重ねれば、もはや白髪の若者を疑うのではなく、自分たちが長年築いてきた地理の目を疑うことになる。


 彼はうなり声とともに、言葉を喉の奥へ押し戻した。


 空気が、目に見えぬほど微妙に変わった。


 先ほどまでの空気は、「老い狐たちが新参の白毛を値踏みしている」ものだった。


 今は逆に、何匹かの老い狐が、胸の内でひっそりと自問している。


 ――この白毛は、本当に我らの上から物を見ているのか。


 それとも、誰かが耳元で囁いた知恵を繰り返しているだけなのか。


 柳澈涵は目を伏せ、指先で軍陣図の上をゆるやかになぞった。


「佐久間殿の仰る通りでございます。


 口で言うだけなら、何の値打ちもない。」


「ゆえに、在下は自ら『妙策あり』などと吹聴する気はございません。」


「在下にできるのは、ただ一つ。


 殿下の御前に並ぶ幾筋もの道を、少しでも鮮やかに浮かび上がらせることだけ。」


 再び、稲葉山城の周りに散らばる小さな城や庄、関所のあたりを軽く叩く。


「糧を断ち、風を断ち、威信を断つ。」


「この三つを成そうとするなら、どれも人が歩かねばならぬ道であり、どれも血を見る筋でございます。」


「ただ、山の下で死ぬか、山の上で死ぬか、その違いがあるだけ。」


「在下としては、山の上で倒れる者の数が、少しでも減ればよいと、それだけを思うまで。」


 しばらくの間、堂内には物音ひとつしなかった。


 信長はずっと口を閉ざしたままだった。


 その目は、軍陣図と柳澈涵の間を静かに行き来し、他の者たちのような驚きも、「そうだったのか」という驚愕も映してはいない。


 あるのはただ、「やはりそうか」という色のみ。


 稲葉山城のあの夜――。


 彼はすでに見ていたのだ。


 この若者が見ているのは「物語」ではなく、「構造」なのだと。


 今日はただ、城も人も変えて、同じことをもう一度確かめているに過ぎない。


 影見の者が本当に影見であるなら、ひとつの場所でだけ物が見えるはずがない。


「柳殿の言、筋道は通っておる。」


 丹羽長秀が、静かに言葉を継いだ。


「だが、正直なところを申せば――こうした事柄は、そなた一人の力で成せるものではない。」


 彼は信長を見やり、再び柳澈涵へと視線を戻す。


「糧道を断ち、風を散らし、豪族の心を揺らす。


 その一筋一筋に、人が命を賭け、家を賭けねばならぬ。」


「そなたには領地もなく、家に残してきた老若もない。


 成否の間において、背負うものの重さは、ここに並ぶ者らとは比べ物にならぬ。」


「その一点だけは、どうしても気にかかる。」


 それが、丹羽の最後の抵抗だった。


 彼は人材を認めぬのではない。


 ただ、自分たちと同じだけの代償を負わずに、あまりにも大きな決定の行方を委ねることに、どうしても踏ん切りがつかないのである。


 柳澈涵は、静かにその言葉を聞き終え、薄く笑みを浮かべた。


「丹羽殿の御憂慮、在下ごときが『すべて解せます』などとは、とても申しませぬ。」


「ただ――」


 彼は目を上げ、在座の者たちの頭越しに、上座にいる男を見つめた。


「――在下は、自らをして『殿下に代わり決断を下す者』だとは思っておりませぬ。」


「影は地を這って歩くだけで、山の形を描くことはできぬ。」


「山の姿を描き得るのは、結局のところ、頂に立つ御方お一人に他ならぬ。」


「在下にもし役目があるとすれば、それはただ、その山の頂に立つ御方のために――山の下を吹き抜ける風を、ひとつでも多く見ておくこと。」


「そして、その風に合わせやすい道筋を、いくつか指し示すことだけでございましょう。」


 その言葉が落ちると、広間の何人かの胸中に、鋭い震えが走った。


「影は地を這って歩くだけで、山の形を描くことはできぬ。」


 彼は、自らを「軍師」や「総領の参謀」と名乗らなかった。


 むしろ、あえて己の位置を、ある一隅にきちんと描き込んでみせた。


 ――決断する者ではなく、ただ風を見る者として。


 信長の指先が几帳面の上でふっと止まる。


 ついに口を開いた。


「……言の骨は、通っておる。」


 声は高くない。


 だが、その響きは、この場にいる誰の耳にもはっきり届いた。


「この場には、刀を見る者がおる。


 地を読む者もおる。


 民の暮らしを見る者もおる。」


 信長の視線が、一人一人をなぞるように巡る。


「人の心を見る者なら、寄せ集めれば辛うじて数人は挙げられよう。」


「ただ――」


 軍陣図の白い余白に視線を止めた。


「本当に『風』が見える者は、本来、一人もおらなんだ。」


「稲葉山城のあの夜、余はひとり、その姿を見た気でおった。」


「今日の様子を見る限り、どうやら目の錯覚ではなかったようだ。」


 堂内が、ぴたりと静まる。


 その一言で、十分すぎるほどだった。


 林秀貞は深く目を伏せ、心の中でほろ苦い笑みを浮かべる。


 政道の老臣として、信長の何気ない言葉がどれほどの重みを持つか、誰よりもよく知っている。


 ――これで、この白髪の若者の清洲における立ち位置は、「客人」ではなく、「主君に名指しされた者」として決定づけられた。


 信長は視線を引き戻し、柳澈涵を真っ直ぐに見た。


「柳。」


「はっ。」


「今日より、軍議の折には、そなたは末席に立て。」


 信長は軍陣図の脇に、指で小さな一角を示した。


「門外の風も、堂内のやりとりも、すべて聴いておけ。」


「家も土地もなく、兵も卒も持たぬ身――それが、ちょうどよい。」


「見た風は、そのまま余の耳へ運べばよい。」


 末席。


 座次の栄光を意味する場所ではない。


 それでも、「この堂の内側」に立つ者としての承認が、そこにくっきりと刻まれている。


 清洲の大広間にいる者たちは、胸の内で同じ算盤を弾いた。


 これからの軍議の度ごとに、この白髪の若者は、必ずこの図の端に立つ。


 官職も俸禄も与えられてはいない。


 だが、すべての謀と経路と秘事が、その耳をかすめることになる。


 それこそが、信長が彼に与えた「位置」。


 ――影見の位置であった。


「御意。」


 柳澈涵は深々と頭を垂れた。


 声には昂ぶりの色はなく、ただ珍しく、重みのある響きが宿っていた。


 それは何かを「得た」というより、むしろ、自らが渦の中心へと引き込まれたことを受け入れる声に近い。


 これからは、清洲の風向きが変わるたびに、真っ先にその風を浴びるのは、彼自身となる。


 信長は姿勢を正し、再び軍陣図に目を落とした。


「柴田。」


「はっ。」


「そなたは山を攻めると言った。」


「柳は、まず山を削り、しかる後に攻めると言う。」


「丹羽は、その道々の責を負う者を問うた。」


 ひとつひとつを、兵法書の条のように拾い上げる。


「よい。」


 信長の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「これでこそ軍議よ。」


「美濃合戦は、本日より――ようやく始まったと言える。」


 炭火は一層勢いを増して燃え上がる。


 大広間の冷気は消えぬままだが、目に見えぬ熱が、確かに空気の底から押し上げられていた。


 柴田は再び手を刀の柄に添え、丹羽は板札にさらさらと数行を書き加え、林秀貞は深く息を吸い込み、胸中のわずかな遅れを押し沈めた。


 誰もが理解していた。


 この日を境に、清洲の大広間には新たな一対の瞳が加わったのだと。


 その瞳は、どの列にも属さない。


 だが、すべての列を見渡す場所に立つ。


 風が未だ起こらぬうちから、葉がどちらへ傾こうとしているかを見抜き、


 いざ風が吹き荒れる時には、自らが真っ先に吹き飛ばされかねない位置に、否応なく立たされる。


 信長は、すでにそのこともすべて計算に入れていた。


 ――影見の者とは、もとより主君と運命を共にする存在である。


 賭けに勝てば、それは国の行く末。


 賭けに敗れれば、その身は山の尾根に晒された一つの白骨。


 信長は、そうした賭けを恐れたことがない。


 相手が他人でない限り。


 相手が、未来そのものである限り。


 清洲軍議は、なお続いていた。


 炭火のぱちぱちと爆ぜる音、風の吹き抜ける気配、紙の上で明滅する山川の影。


 刀の戦はひとまず決着したばかり。


 舌の戦は、その第一枚の頁を、いまようやくめくったところだった。

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