第一百零九話 八坂初見・吉岡遠眺
八坂社前の石段は、古くから人の集まる場所だ。
この日の午後も、石段の下は人だかりになっていた。
町の婆さん、町家の子供、手持ち無沙汰の浪人が肩を並べ、「京一の剣」の演武を見ようと押し合っている。
弥助は、朝からその話を聞きつけていた。
小さな腰掛けを二つ抱えて戻ると、目を輝かせて言った。
「先生、せっかく京に来たんです。いちどは吉岡の刀を見ておかないと」
「刀を見るのか、人を見るのか」
「両方です」弥助は笑った。
石段の上には、簡単な木製の台が組まれ、その前には綱が張られている。
弟子たちがかわるがわる刀を振るい、稲藁人形を豆腐でも切るように斬り倒してゆく。
小判の音、喝采の声、驚きと囃し立てる声が入り混じり、賑やかというより、どこか浮ついた空気になっていた。
廊下は静かだった。
その奥の陰影の中に、整った直垂をまとった男たちが二、三人並んでいる。その中のひとり、すらりとした体躯に、背筋をぴんと伸ばした男が、横顔だけを見せていた。
吉岡清十郎である。
彼は自ら剣を振るうことはなく、ときおり、傍らの侍に何かひと言ふた言、言づてをするだけだった。
それが前へと伝えられるところには、榊が立っている。
榊は木台の脇から観客を見渡し、やがて、あまり目立たぬ二つの影を見つけた。――東山の儒医と、目を丸くしたその弟子である。
「先生、あちらがこっちを見てます」弥助が小声で囁く。
「こちらだけではない。あの目は、ここにいる者を一人残らず見ている」柳澄原は淡々と答えた。
木台の上の演武に目を向ける。
吉岡の刀筋は、たしかに独自のものがある。
一本目で勢いをつけ、二本目でその勢いのままに圧しかかり、三本目で退路を封じる。
三本を浴びせられれば、並の武士には息つく暇もないだろう。
「城の人間に見せるには、よくできた刀だ」柳澄原は、つぶやくように言った。「だが、本当に人を斬るときには、きっとこの三本通りには振らぬ」
弥助は背筋がぞわりとし、質問を飲み込んだ。
そこへ榊が木台から降り、観客を分けてまっすぐ近づいてくる。
「澄原先生もおいででしたか」
榊は軽く一礼した。笑みは浅く、声は丁寧だ。
「京に来たからには、一度は目を開いておかねばな」柳澄原も礼を返す。
榊の視線が、彼の腰の刀に滑り、その先の手に止まる。
「先生は手が確かだと伺いました」榊は言った。「主も、ああした方が刀を取ればどうなるのか、興味を持っておられます」
弥助が息を呑む。
「先生は医者で――」
「医者こそ、手を確かにしておかねば、針一本も打てません」榊は笑う。「ただ、ほんの手合わせです。笑いものにはいたしません」
言葉とともに、木台の上の弟子が一人下がり、代わりに木刀が一本、下へ投げられた。
柳澄原は自然な手つきで、それを受け取る。
握った瞬間、纏っていた文士の空気がわずかに退き、ごく細い刃の気配だけが、その下から顔を出す。
「先生……」弥助の声には、不安と興奮が入り混じっていた。
「少し、手を見せるだけだ」柳澄原は静かに言った。
人波を抜けて木台へと跳び上がる。
台がわずかに揺れたが、その足はびくともせず、しっかりと板に根を張る。
対面するのは榊自身であった。
今回は遠慮なく踏み込み、足捌きも隠さない。
鞘に入った刀は、いつでも飛び出せる蛇のように、ぴたりと腰に収まっている。
「お手柔らかに」榊が言う。
喝采は自然と静まり、周囲の空気がぴんと張り詰める。
誰もが、今からが「本番」だと悟っていた。
先に動いたのは榊である。
一本目は様子見。
続く二本目が、本当の一撃だ。斜めに振り下ろされる太刀筋は、柳澄原の肩口を狙っていた。
見物には、ただ一筋の閃光にしか見えなかった。
柳澄原は退らない。
足を半寸だけずらし、木刀を斜めに上げて、まるで何気なく受けるように見せた――。
だが、その一瞬に、榊の二本目の斬撃は、どこかでぷつりと途切れた。
勢いが真ん中で断ち切られたように、刀の軌道がわずかに鈍る。
それは「硬く受け止める」防ぎではない。
ほんの一瞬、目には見えぬ「断線」であった。
三本目の太刀は、形になりきれない。
本来なら、ここから手首を返して収めの一刀となるはずが、このわずかな遅れで全体のリズムが狂い、榊の肩が勝手に落ち、重心がわずかに滑った。
柳澄原は、その隙を突いて追うことをしない。
ただすっと一引き、木刀を榊の刀背に沿わせて滑らせ、最後は榊の手首の上、寸ほどのところで止めた――そこから先は、まさに手筋である。
その一寸のあいだに、すべてが込められていた。
榊は刀を収め、半歩下がった。
そこでようやく、押し殺されていた歓声が爆発する。
吉岡の名を叫ぶ声に混じって、「あの男はどこの道場の者だ」と驚く声が飛び交った。
廊下の陰で、吉岡清十郎がわずかに顔を傾ける。
側の侍が耳打ちする。「東山」「医房」「湖東」という言葉が、その耳に届いた。
清十郎は、ただひとことだけ返した。
「名を記しておけ」
木台の上で、榊が深く頭を下げた。
「御見それいたしました」
「三本目を収めるのが早すぎる」柳澄原は静かに言う。「本当に人を斬るなら、その一刀は自分の胸に返ってくる」
榊はきょとんとし、すぐに理解した。
先ほどの一合手は、相手の隙を衝いたのではない。自分の致命的な綻びを、はっきりと教えられたのだということを。
「ご教示、痛み入ります」
その一言には、心からの礼が込められていた。
刀を納めて台を降りるころには、背中は汗でぐっしょりと濡れていた。
弥助は台に駆け上がり、柳澄原の袖を握る。
「先生、さっきの一刀は――」
「少し遊んだだけだ」柳澄原は木刀を軽く放り、笑うでもなく言う。「今ので、『刀が振れぬ医者ではない』くらいは、見てとったろう」
「吉岡清十郎は恨みに思いませんかね?」
「覚えるさ」柳澄原は言う。「だが先に覚えるのは、恨みではなく、『名』だ」
木台を降りながら、彼の視線は廊下の高い影へと流れた。
その影は柳澄原を真っ向から見ることはなかった。
だが彼が通り過ぎる瞬間、その肩がわずかに傾く。――それだけで、「東山の儒医」の存在は、すでにどこかの帳簿に記されてしまったことがわかる。
黄昏、八坂の鐘が鳴り出した。
人波はゆっくりと散り、石段に残った足跡も、風が吹くうちにぼやけていく。
東山への帰り道、弥助の舌は止まらなかった。
柳澄原はしばらく黙って歩き、ある辻へ差しかかったところで、ふいに足を止め、路肩の土を足先で一本、すうっとなぞった。
「先生、何を描いているんです?」
「さっきの連中の目が、東山まで伸びてくる道だ」柳澄原は淡々と言った。「そのうち、誰かがこの線に沿って、うちの戸を叩きに来る」




