第一百零八話 三条夜会・茶と箸
三条の没落した公家の旧邸は、夜になると、昼間にも増して水を含んだ古い箱のように見えた。
庭の池は浅く、細い桜の影だけを映している。石橋には苔がびっしりと生えていた。
縁側には紙灯籠がいくつか吊るされ、揺れる光に、軒下の古びた紋章がぼんやりと浮かんだり消えたりしている。
柳澄原は、わずかにあらたまった装いを選んだ。
濃い青の小袖に、素色の羽織を重ね、腰には刀。従えるのは弥助ただ一人。
足取りは急がず、気負いもない。あたかも、ただの夜の語らいにでも招かれたかのようである。
廊の中には、すでに数人が揃っていた。
里村紹巴は内側寄りに座り、折りたたみ扇を手に、声を高くもせず低くもなく、絶妙なところで人の言葉を受けている。
その隣には、痩せぎすの長身の男。衣は質素だが、袖口はぴたりと揃い、腰には細い金袋。
一目で商家の人間とわかる。
「こちらは堺・今井家の手代、石田殿」里村が紹介した。「茶も米も火も、皆、見て歩く役目だそうで」
「いやいや、帳面をつけるだけの者です」
石田は立ち上がり、丁寧に一礼した。
もう一方には、廊柱に身を預ける武者が一人。
狩衣はごくふつうだが、腰の刀の鞘口は使い込まれて艶が出ており、目は室内を絶えず巡って、そこにいるすべての人間を刻みつけていた。
「こちらは吉岡家の榊殿。ふだんは二条のあたりを走り回っておられる」
榊は軽くうなずき、礼を示した。
視線が一度、柳澄原の腰の刀と、その手に握られた扇を掠め、眼の奥にかすかな興味が宿る。
席にはほかに、若い公家や文士が二、三人混じっている。
「堺」「吉岡」といった名が出るたびに、笑みを大きくしながらも、深入りして口を挟むことはしない。
茶は石田が自ら点てた。
水は鴨川から引き、茶葉はもちろん堺から届いた上物。
火だけは、この旧邸の台所から持ってきた炭火である。
茶筅の音が碗の中を回るあいだ、座中の声は自然と落ちていく。
竹の擦れる細い音だけが、室内の空気を切り分けていた。
石田は表情を崩さないまま、ときおり、対座する柳澄原の様子をうかがった。
最初の一碗は、公家とその連れ合いの卓へ。
二碗目は里村へ。
三碗目がようやく柳澄原の前に置かれる。
茶の面は細かな泡で覆われ、鮮やかな緑がかすかに顔を覗かせていた。
柳澄原はすぐには口をつけず、指先で碗の外側をなぞる。
「水はよく澄んでいる」彼はふいに言った。「だが火が少し強い」
石田の手元の茶筅が、目には見えぬほどかすかに止まる。
「ほう? いかがしてそれを?」
「茶の香りが急いで立ちすぎている。水の気がじっくりと開ききる前に、火が上から押さえつけている」柳澄原は淡々と続けた。「この一碗を飲めば、頭頂が微かに熱く、足の裏は冷える」
ひと口だけ啜り、さらに言葉を足す。
「堺の茶は、本来こういう顔つきではないはずだ」
座中の者たちが顔を見合わせる。
堺の茶商は、自分の茶をあれこれ評されることを好まない。
だが、正確に評されるのは、もっと嫌いである。
「では先生の眼には、どうあるべきと?」石田は、声色を崩さずに問うた。
「火を一分、虚勢から引き、水に一分、めぐる余地を与える」柳澄原は茶碗を置いた。「京という城も、同じことだ」
その一言で、室の空気が一瞬凍る。
里村は静かに扇を振り、「京もまた一碗の茶」と心の中で書き留めた。
そのとき、一本の箸が空を切った。
投げたのは榊であった。
もともと菓子をつまんでいた箸が、ふいに「手を滑らせた」ような形で指から離れ、柳澄原の前の茶碗めがけて飛ぶ――角度は絶妙で、もし当たれば茶は確実にこぼれ、場は乱れる。
誰も声を上げる暇もない。
柳澄原はただ、指を一つ動かしただけだった。
茶碗は卓から離れもせず、その場で静かに半周ほど回る。飛んできた箸は縁をかすめて「コツ」と音を立て、勢いを失うどころか、彼の空いていた指先に軽く弾かれて、別の方向へ弧を描いた。
「ドン」と鈍い音がし、箸の先は脇の柱に半寸ほど突き立った。
茶碗からは、一滴の茶もこぼれていなかった。
そこでようやく、喉まで上って止まっていた驚きの声が、一斉にあふれ出す。
柱に震えながら刺さっている箸を見て、何人かは唾をのみこんだ。
「ご無礼を」榊は立ち上がり、深く頭を下げた。「手が滑りました。ご容赦を」
目だけは、じっと柳澄原の手を追っている。――その手はすでに袂に戻り、そこにどれほどの力がこもっていたのか、痕跡さえ見せていない。
「試したのは、拙の手か。心か」柳澄原が静かに問う。
榊は一瞬きょとんとし、やがて小さく笑って答えた。
「少しずつ、両方ですな」
石田は、一部始終を黙って眺めていた。
この種の出来事を、彼は無意識のうちに細かく分解する癖がある。――箸が飛ぶ。茶碗は動かず、次の瞬間だけ回る。箸は偏向し、柱に刺さる。
一つひとつの動きは単純でも、連ねれば隙がない。
この夜から、堺の帳簿には「東山の澄原」の名が、小さく添えられることになる。
後半は連歌と与太話へと移っていった。
里村がときおり「火後の歌」の一節を引けば、若公たちは「焼け残りの城」を詠い、武者たちはそれに適当に合いの手を入れる。石田は終始、耳に徹していた。
柳澄原は、多くは語らない。
「東山の宅は縁起がよいのか」と問われても、ただ笑って答えるだけだ。
「火に一度焼かれてなお人が住めるなら、むしろ『吉』と呼ぶべきだろう」
お開きになるころには、夜はすっかり更けていた。
三条の石畳には、まだ水が残っており、灯籠の明かりが水面に映って揺れている。
石田はわざと半歩ほど遅れて歩き、柳澄原の脇に寄った。
「今井家の主人が知ったら、きっと興味をお持ちでしょうな。茶と箸のあいだで一滴もこぼさぬお方が京にいると」
「堺の興味は、いつも銀と一緒に動く」柳澄原は淡々と返す。「拙の医房は茶を売らぬ。見るのは病だけだ」
「病を見るほうが、茶を売るより儲かることもあります」石田は笑った。「ただ、そのとき儲かるのは、銀とは限りませんが」
それ以上は何も言わず、深々と一礼すると、音もなく夜の中へ消えていった。
榊は廊下に残り、ふと振り向いて、奥の暗がりを見やった――。
そこには一人、終始姿を見せずに帳の陰から様子を見ていた男がいる。
袖口から覗いた紋は、紛れもなく吉岡家の家紋であった。
「東山の澄原……」
榊は心中でその名を反芻した。
戻れば、今夜見たすべて――あの柱に刺さった一本の箸も、余さず主に報告しなければならない。
東山に戻ったころには、夜風がひやりとしていた。
柳澄原は縁先に立ち、「澄原医房」と書かれた木札の上を指で一撫でした。
「先生、今夜はいかがでした?」弥助は抑えきれぬ興奮を隠そうともしない。
「茶は悪くない。箸もな」柳澄原は言った。「ただし、火気がやや強い」
視線は城下へ向かう。
そこに連なる灯は、一団となって押し合い、誰かに押さえつけられた火のように見える。
「火気がもう少し募れば、山の上もじっとしてはいられぬだろう」
眼の底の光は、冷たく澄んでいた。




