第一百零七話 寺町の書影・里村の局
三日目の正午、東山には晴れ間がのぞいたが、寺町にはまだ湿り気が残っていた。
弥助が井戸から戻ると、門前に僧姿の男が一人、静かに立っていた。
法衣は古いが、洗いざらしてあり、帯はただの木綿紐。
彼は合掌し、まず弥助に深々と頭を下げた。
「こちらが澄原先生のお宅でございましょうか」
弥助も慌てて礼を返す。「先生は中におります。お待ちくださいませ」
ほどなく、廊下に柳澄原の姿が現れた。
僧は顔を上げ、一瞬だけ観るような目をしたが、すぐに視線を和らげ、小さな包みを差し出した。
「寺に一人、経師がおりまして。長年写経を続けておりますが、このところ肩背が凝り固まり、指先が痺れて筆が持てませぬ。住持申すには、『この者が筆を持てぬようになれば、先に仏に会いに行く者が出る』と」
言い回しは穏やかだが、その重さは偽りがない。
「経師は普段どこで筆をとっている?」
「寺町の方に、書肆兼写房がひとつございます」僧は答える。「どうか一度お運びいただければ。診金のことは、住持がなんとか致しますゆえ」
柳澄原は頷いた。
「弥助、お前は留守を守れ」
寺町の書肆は、茶屋とはまるで匂いが違う。
戸を開けると、墨と紙の匂いが立ちのぼり、酒や汁の湯気ではなく、わずかな澱みと辛さを含んだ墨の気が鼻を刺した。
店先には本棚が何本か並び、奥には几を並べた一角がある。そこが写房だ。几には乾き切らぬ経文がずらりと並んでいた。
中年の男が一人、几の前に座っている。肩は少し丸く、右手には筆、左手は紙を押さえている。筆先はなお安定しているが、その運びにはどこか迷いと遅さが混じっていた。
「里村殿、医師が参りました」僧が小声で告げる。
男はようやく筆を置き、顔を上げた。
目尻には細かな皺が刻まれているが、老人びてはいない。年季の入った大工の刃物のように、一見鈍そうでいて、実はよく研がれた眼差しであった。
「湖東から来られた澄原先生、であったかな」
「拙はその澄原だ」柳澄原は礼をとる。
僧は店の前の棚に移り、書物を繰りながら二人を残した。
「写経は長いこと続けておられるのだろう」柳澄原が口を開く。「この肩背の痛みは、ただ筆を持ち続けたせいだけではあるまい」
男は笑みを浮かべた。
「拙は里村紹巴と申す。たまさか、公家や武家の座敷にも顔を出すようになりましてな」
さらりと言いながら、「あの方々がおっしゃることが、みなこの肩に乗ってくるのですな」と、冗談とも本音ともつかぬ言葉を付け足した。
柳澄原はその冗談には乗らず、後ろに回って軽く前屈みになるよう促した。
指先を項から肩甲骨、さらに背骨脇の筋に沿って滑らせる――そこは弓の弦のように張り詰め、誰かが少しでも爪弾けば、今にもぷつりと切れそうなほど固かった。
「あなたの写している経は、紙の上だけにはない」柳澄原は静かに言った。「他人が刀を肩に差し入れ、代わりに刻ませているものが、そこにも一本ある」
里村はまだ笑っていたが、その一言で、笑みがわずかに凍った。
「先生は病を診る前に、まず心を診る」
「肩背は、胸の中身を外に運び出して背負わせた結果だ」柳澄原は続ける。「公家の愁えを、武家の野心を、寺社の慈悲を代わりに書きつけてやって、自分の文を一行も残していない」
言葉と同時に、指はある一点に深く押し込まれる。
里村は抑えた呻きを漏らし、額に一気に汗が噴き出た。
「夜眠れぬとき、『今書いたあの一節、もう少し字を減らすべきではなかったか』などと、何度も反芻しているだろう」
室内は静まり返る。
紙の上の墨はまだ完全には乾いておらず、空気にわずかな苦味を加えていた。
やがて、里村は低く言った。
「先生に笑われるだけだが」
「笑うかどうかと、病は別の話だ」柳澄原は針箱を開いた。「拙のするのは、肩の上の『一つの城』を、わずかに脇へずらしてやる程度のことだ」
針は飾り気なく、しかし驚くほど速く入ってゆく。
肩甲から脊柱の脇に沿って道を開き、ところどころ指圧を加えると、石のようだった部分が少しだけ柔らかくなる。
里村は肩を回し、思わず小さく息を吐いた。
「まるで、誰かが肩の石を横へ押してくれたようだ」
「どかしたわけではない。ただ、『それは骨に生えた石ではない』と、身体に思い出させただけだ」
針を収め、立ち上がろうとしたとき、里村が呼び止めた。
「先生」
振り向くと、彼は脇の棚から一枚の招状を抜き取り、差し出した。
紙には数行の文字と、「連歌小会」の字。場所は「三条の某公家旧邸」とある。
「明後日、三条で小さな会がありましてな」里村は扇を軽くあおぎながら言う。「堺からの手代も来ますし、吉岡家へ走り回っている侍も一人。あとは、ただ賑やかしに来るだけの公家の若造たち……先生が東山で針ばかり打っているのは、いささか惜しい」
柳澄原は一瞥し、紙の古さと質を確かめた。――その旧邸もまた、程度の違う「残り物」であることが、その黄ばみからもわかる。
「あなたは彼らを一所に集めて、何を見るつもりだ」
「火ですな」里村は微笑んだ。「京の大火の後で、本気で消そうとしている者と、火を借りて他人を焼こうとしている者。ひと座敷に押し込めれば、だいたいわかる」
少し間を置き、こうも付け足した。
「ついでに――彼らにも見せてやりたいのです。東山の澄原先生が、誰のために針を打つ人なのかを」
柳澄原は、承諾も拒絶もせず、招状を折りたたんで袖に差し込んだ。
「では、見物してみよう」
店を出ると、雨上がりの寺町は日の光に照らされ、やや白く眩しかった。
石塔から滴る水滴が、墨のまだ乾ききらぬ経文のように、一粒一粒と落ちてゆく。
外で待っていた弥助が駆け寄る。
「先生、今のお方が里村紹巴殿ですか?」
「ああ」
「これからも、あの方は先生を頼りに来るようになりますか」
「なるだろう」柳澄原は、遠く立ち上る城の煙を眺めながら言った。「針を頼りにではなく、この城の『局』を頼りにな」
袖の中の招状が手首に当たり、ちょうど今打った一本の針のように、ひそかにそこに在った。




