第一百零六話 医房開き・最初の病人と風
翌朝、東山の残院は早くも忙しさを帯びていた。
弥助は袖をまくり、井戸から水を汲み上げる。廊下と庭をざっと洗い、ついでに脇の和室を一間片づけ、畳を敷き直し、隅に矮い几と薬箱を一つ据える。
門口の古い家紋札は外され、代わりに新しい小さな木札が掛けられた。
文字は柳澄原が自ら筆を取った――
「澄原医房」。
字そのものは華やかではない。だが、あくまで端正でまっすぐだ。
村医の多くは丸く愛想よく、御医の字はかえって固くこわばる。
こういう、筆が鋭く、折れ目が静かに収まっている文字は、書いた者の骨のありようを、そのまま映していた。
「こんな立派な院なのに、こんな小さな札だけじゃ、むしろ貧相に見えません?」弥助は木札をしげしげと眺めた。
「札を大きくすれば、来なくてよい目まで寄ってくる」柳澄原は言った。「まずは近所が、ここに医房が一つあることに慣れればいい。それから先のことだ」
診の間の支度も、ごく簡素である。
一枚の畳、一つの几、数巻の経書と医書。
壁には一枚の経絡図を素描で掛け、その脇に署名のない小さな墨絵――山、火、城が三筆で描かれている。まるで、誰かがかつて美濃の高所から見下ろした景を、そのまま写しとったような。
午前のうちに、最初の病人がやって来た。
近くの寺の屋根を直している瓦職人の弟子で、腰を梁に打ちつけてからというもの、重い物を担ぐたびに伸び上がれなくなったという。
庭の楓と焦げた梁を見て、一瞬足が止まる。
「ここ……本当に医房ですか?」
弥助は手招きした。「中に入ればわかるさ」
柳澄原は余計なことは言わない。
畳にうつ伏せにさせ、指を背骨に沿って滑らせ、ある椎の横でぴたりと止まった。
「これは去年の転落だな」
若い職人はびくりとした。
「先生、どうして……」
「骨は樹と同じだ。一度斧を入れられれば、必ず痕が残る」柳澄原は淡々と言った。「お前は一度では済んでいない」
数本の針を打ち、二、三度、急所を捉えた指圧を加えると、それまで糸のように張りつめていた筋肉が、ふっと一節だけ緩んだ。
弟子が恐る恐る身を起こして前屈みになると、自分でも驚くほど腰が利く。今にも畳に額をつけて拝みそうになった。
二人目の患者は、寺町の茶屋の女主人であった。
日々竈の側に立ってきたせいか、咳が止まらず、最近は天気が少し崩れるだけで息が上がる。夜は鐘の音を聞くたびに目が冴えてしまうという。
柳澄原は脈を取り、舌を見せさせ、さらに窓の外に向かって息を吐かせ、その長さと細さを確かめた。
「煙に焼かれているのは肺だけではない」彼は静かに言った。「火の回ったあの年、お前も山道を走っている」
女主人の顔色が変わる。やがて、諦めたように長く息を吐き、あの夜、子どもを抱えて火から逃げた話をぽつぽつと語り出した。
針を数本、薬はごく平凡な煎じ薬を一服。
だが帰り際に一つだけ言い添える。
「これからは鐘が鳴ったとき、耳を塞ぐな。むしろ窓を開けるんだ」
女主人はよくわかったわけでもないまま頷いた。
帰り際、茶葉をどっさり弥助に押しつけてゆく。
「先生が救ったのは命、茶なんてほんの薄礼さ」
午後になり、三人目が門をくぐる。
肩幅が広く背中も厚い、陽に焼けた肌の男で、掌の豆が妙なつき方をしている――虎口と掌根に古い厚い豆、指先はやけに可動域が広い。
足を引きずりながら登り口を上がって来る。
「澄原先生はいらっしゃるか」
弥助は男が担いでいる棒に目を留めた。片側は木箱、片側は縄できつく縛った茶桶である。
「その足は、今日の捻挫じゃない。昨日だ」廊下から出てきた柳澄原は、足元など一瞥もしないまま言った。「昨日、城のほうまで行って、帰りに一歩踏み外した」
男は仰天した。
「どうしてそれを……」
「草履の底に北町の泥がついている。この数日、あの辺りの道が作り替えられている」
弥助は内心で笑う。――先生は、人を見るより先に、足元の土を見る。
座らせ、踝から足背にかけて軽く押す。
「普段担いでいるのは米ではないな。茶だ」
男は口を開け、やがて少し得意げに頭を掻いた。
「堺の今井家のお茶を運ばせてもらっております……いや、ただの荷運びで」
「誰のところまで?」
「堺の今井様から……」と言いかけて、相手の目の奥がわずかに動いたのを見て、慌てて付け足した。「小僧の身では、上のことは存じませぬが」
柳澄原はそれ以上、根掘り葉掘りはしない。
指を一つ立て、関節を鳴らすように踝を捻る。細い音がひとつ、関節から逃げていった。痛みに男はひゅっと息を呑んだが、すぐに、さっきまで入らなかった力が戻っているのを感じた。
「帰りは平地の道を回れ」柳澄原は言う。「いつもの坂道は、来年雨が大きく出れば崩れる」
「崩れる?」男は呆然とする。「あの道は十年以上……」
「十年崩れなかったのは、崩れる分がまだ溜まっているからだ」柳澄原は淡々と付け足した。「信じるなら道を変えろ。信じないなら、戯言だと思って笑えばいい」
男は何度も頭を下げ、すでに心の中で別の道筋を思い描いている。
門を出るとき、一度振り返り、「澄原医房」と書かれた小木札をじっと見た。――堺に戻ったら、帳簿の端にこの名前を一つ書き加えるべきかもしれない。
日暮れが近づくと、客足はがくりと減った。
弥助は廊下に腹這いになり、粗紙に一文字一文字、今日の帳をつけている――銭の多少はさておき、人情の重さは別の欄だ。
柳澄原は奥の間に座り、昼間耳にした地名と人名を、別の紙に書き出している。
どの町にどの家があり、どの脚夫が誰の荷を担いでいるか。堺の茶はどの裏道から京に入ってくるか。寺の屋根には、このところどこの棟梁が出入りしているか。
「先生、それは病の記録ですか。それとも、城の記録ですか」弥助はつい聞いた。
「人の病は、身体にだけは宿らない」柳澄原は答えた。「一つの城も同じだ」
夜更け、紙を折りたたんで薬箱のいちばん奥にしまい込む。
この一日で、銭はまだ大して動いていない。
だが「風向き」は、一層分だけ読めるようになっていた。




