表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

106/249

第一百零六話 医房開き・最初の病人と風

 翌朝、東山の残院は早くも忙しさを帯びていた。


 弥助は袖をまくり、井戸から水を汲み上げる。廊下と庭をざっと洗い、ついでに脇の和室を一間片づけ、畳を敷き直し、隅に矮い几と薬箱を一つ据える。


 門口の古い家紋札は外され、代わりに新しい小さな木札が掛けられた。

 文字は柳澄原が自ら筆を取った――


 「澄原医房」。


 字そのものは華やかではない。だが、あくまで端正でまっすぐだ。

 村医の多くは丸く愛想よく、御医の字はかえって固くこわばる。

 こういう、筆が鋭く、折れ目が静かに収まっている文字は、書いた者の骨のありようを、そのまま映していた。


「こんな立派な院なのに、こんな小さな札だけじゃ、むしろ貧相に見えません?」弥助は木札をしげしげと眺めた。


「札を大きくすれば、来なくてよい目まで寄ってくる」柳澄原は言った。「まずは近所が、ここに医房が一つあることに慣れればいい。それから先のことだ」


 診の間の支度も、ごく簡素である。

 一枚の畳、一つの几、数巻の経書と医書。

 壁には一枚の経絡図を素描で掛け、その脇に署名のない小さな墨絵――山、火、城が三筆で描かれている。まるで、誰かがかつて美濃の高所から見下ろした景を、そのまま写しとったような。


 午前のうちに、最初の病人がやって来た。


 近くの寺の屋根を直している瓦職人の弟子で、腰を梁に打ちつけてからというもの、重い物を担ぐたびに伸び上がれなくなったという。


 庭の楓と焦げた梁を見て、一瞬足が止まる。


「ここ……本当に医房ですか?」


 弥助は手招きした。「中に入ればわかるさ」


 柳澄原は余計なことは言わない。

 畳にうつ伏せにさせ、指を背骨に沿って滑らせ、ある椎の横でぴたりと止まった。


「これは去年の転落だな」


 若い職人はびくりとした。


「先生、どうして……」


「骨は樹と同じだ。一度斧を入れられれば、必ず痕が残る」柳澄原は淡々と言った。「お前は一度では済んでいない」


 数本の針を打ち、二、三度、急所を捉えた指圧を加えると、それまで糸のように張りつめていた筋肉が、ふっと一節だけ緩んだ。


 弟子が恐る恐る身を起こして前屈みになると、自分でも驚くほど腰が利く。今にも畳に額をつけて拝みそうになった。


 二人目の患者は、寺町の茶屋の女主人であった。


 日々竈の側に立ってきたせいか、咳が止まらず、最近は天気が少し崩れるだけで息が上がる。夜は鐘の音を聞くたびに目が冴えてしまうという。


 柳澄原は脈を取り、舌を見せさせ、さらに窓の外に向かって息を吐かせ、その長さと細さを確かめた。


「煙に焼かれているのは肺だけではない」彼は静かに言った。「火の回ったあの年、お前も山道を走っている」


 女主人の顔色が変わる。やがて、諦めたように長く息を吐き、あの夜、子どもを抱えて火から逃げた話をぽつぽつと語り出した。


 針を数本、薬はごく平凡な煎じ薬を一服。

 だが帰り際に一つだけ言い添える。


「これからは鐘が鳴ったとき、耳を塞ぐな。むしろ窓を開けるんだ」


 女主人はよくわかったわけでもないまま頷いた。

 帰り際、茶葉をどっさり弥助に押しつけてゆく。


「先生が救ったのは命、茶なんてほんの薄礼さ」


 午後になり、三人目が門をくぐる。


 肩幅が広く背中も厚い、陽に焼けた肌の男で、掌の豆が妙なつき方をしている――虎口と掌根に古い厚い豆、指先はやけに可動域が広い。


 足を引きずりながら登り口を上がって来る。


「澄原先生はいらっしゃるか」


 弥助は男が担いでいる棒に目を留めた。片側は木箱、片側は縄できつく縛った茶桶である。


「その足は、今日の捻挫じゃない。昨日だ」廊下から出てきた柳澄原は、足元など一瞥もしないまま言った。「昨日、城のほうまで行って、帰りに一歩踏み外した」


 男は仰天した。


「どうしてそれを……」


「草履の底に北町の泥がついている。この数日、あの辺りの道が作り替えられている」


 弥助は内心で笑う。――先生は、人を見るより先に、足元の土を見る。


 座らせ、踝から足背にかけて軽く押す。


「普段担いでいるのは米ではないな。茶だ」


 男は口を開け、やがて少し得意げに頭を掻いた。


「堺の今井家のお茶を運ばせてもらっております……いや、ただの荷運びで」


「誰のところまで?」


「堺の今井様から……」と言いかけて、相手の目の奥がわずかに動いたのを見て、慌てて付け足した。「小僧の身では、上のことは存じませぬが」


 柳澄原はそれ以上、根掘り葉掘りはしない。

 指を一つ立て、関節を鳴らすように踝を捻る。細い音がひとつ、関節から逃げていった。痛みに男はひゅっと息を呑んだが、すぐに、さっきまで入らなかった力が戻っているのを感じた。


「帰りは平地の道を回れ」柳澄原は言う。「いつもの坂道は、来年雨が大きく出れば崩れる」


「崩れる?」男は呆然とする。「あの道は十年以上……」


「十年崩れなかったのは、崩れる分がまだ溜まっているからだ」柳澄原は淡々と付け足した。「信じるなら道を変えろ。信じないなら、戯言だと思って笑えばいい」


 男は何度も頭を下げ、すでに心の中で別の道筋を思い描いている。


 門を出るとき、一度振り返り、「澄原医房」と書かれた小木札をじっと見た。――堺に戻ったら、帳簿の端にこの名前を一つ書き加えるべきかもしれない。


 日暮れが近づくと、客足はがくりと減った。


 弥助は廊下に腹這いになり、粗紙に一文字一文字、今日の帳をつけている――銭の多少はさておき、人情の重さは別の欄だ。


 柳澄原は奥の間に座り、昼間耳にした地名と人名を、別の紙に書き出している。

 どの町にどの家があり、どの脚夫が誰の荷を担いでいるか。堺の茶はどの裏道から京に入ってくるか。寺の屋根には、このところどこの棟梁が出入りしているか。


「先生、それは病の記録ですか。それとも、城の記録ですか」弥助はつい聞いた。


「人の病は、身体にだけは宿らない」柳澄原は答えた。「一つの城も同じだ」


 夜更け、紙を折りたたんで薬箱のいちばん奥にしまい込む。


 この一日で、銭はまだ大して動いていない。

 だが「風向き」は、一層分だけ読めるようになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ