第一百零四話 裏山の道・山火と京の灯
朝の鐘が鳴り終わらぬうちに、裏山の風はすでに僧房の前まで吹きつけていた。
山門へ続く正道と比べ、この側の石段は一層狭く急である。一方は滑りやすい岩壁、もう一方は底の見えない谷。白い霧は浅い水のように谷底で揺れ、ゆっくりと湧き上がってくる。
柳澈涵は薬箱を背負い、弥助は荷物を担いで、寛順に廊下の端まで見送られた。
寛順は合掌し、低く経を一節唱える。それが送別の代わりだった。
円道があわただしく駆けてくる。甲冑はまだ身につけたままだが、眉間には以前にはなかった深い皺が二本刻まれていた。
「先生」
彼は軽く身をかがめる。「裏山の道には、今日は俵を一荷、山に上げる手筈になっております」
「人足はどこから集めた」
「やはり湖東のあの村々からです」
円道は弥助を一度見、それから声を落とした。「昨夜、何人かがこっそり山を降りて、村ではもう堪えきれぬ者が出たと知らせてきました。道の上で僧兵を止めようと話がまとまったとか」
弥助は思わず声を上げる。「何で止めるって言うんです」
「鍬と鎌と、薪割りの鉈で」
円道は苦笑する。「手に持てるものは、何だって兵になります」
柳澈涵はうなずいた。「お前はその隊には入っておらんのか」
「私は、反対側の山道の見回りを命じられました」
円道はひと呼吸置き、さらに声を絞る。「もう、名前を別の隊に入れ替えておきましたが」
それだけで十分だった。
柳澈涵はじっと彼を見つめ、その目の奥で何かが一瞬きらりと光ったが、すぐにまた静まった。
「行こう」
彼はそれだけを言った。
裏山の石道には霧が足首に絡み、靴底には湿り気がまとわりついて、一歩ごとに小さな水音が鳴る。
前方には、俵を押し上げる僧兵の一隊がゆっくりと登っていた。杖が石段を叩くたびに鈍い音が響く。その真ん中には、肩に俵を担いだ人足たちの背中が、ひとつひとつ重い弧を描いている。
さらに上には、少し開けた石の台地があった。地面から突き出た大石がいくつも伏せる獣のように並んでいる。
その台地の裏側で、布の裾がわずかに揺れるのが見えた。
弥助は息を呑む――村の百姓たちだ。田中弥七の姿もそこにある。
彼らは鎌や棒を握りしめ、手の甲には浮き出た青筋がどれも今にも切れそうなほど張り詰めていた。
僧兵らは気づかず、いつもの調子で登り続ける。
台地に上がったその瞬間、前方から数人の男が飛び出した。
「これ以上、人を山に引きずって行かせるわけにはいかねえ!」
「米のことならまだ話のしようもあるが、人は駄目だ!」
しわがれた声はぎこちない。それでも、長く固まっていたものをついに突き破った勢いがあった。
田で腰を折って生きてきたはずの百姓たちが、今は鎌の刃を反対に向け、年々香火を取り立てに来た相手に向けている。
隊列はたちまち乱れた。
僧兵たちは反射的に木杖を掲げ、いつものように村人を散らす構えを見せる。副頭目が怒鳴った。
「下がれ!これは延暦寺の俵だ――」
言い終える前に、山道の入り口の方から軽い咳払いが聞こえた。
「僧兵の師父方」
柳澈涵は薬箱を提げ、霧の中から歩み出た。ずっと続いてきた普通の山路の一歩のように、足取りは速くも遅くもない。
弥助はその背後にぴたりとつき、額にはすでに細かな汗が滲んでいた。
「今日はこの道を通るのは、俵が山に上るだけで、人が引きずられて行くのは見たくない」
柳澈涵は石段のいちばん狭いところに立ち、岩壁と谷の間、そのただ一筋の道を塞いだ。まるで一本の釘が打ち込まれたようだ。「さもないと、担ぐのは米だけでは済まなくなる」
副頭目は彼を一目見て、顔色を白から赤へと変えた。
澄原龍立と名乗るこの医者は、すでに三度も彼の面子を潰している。
「ここは山門でも、あんたの医房でもない」
副頭目は鼻で笑う。「自分の力を勘違いするなよ」
杖を地面に打ち付けると同時に、彼は両側の僧兵に合図を送る。左右から人を回り込ませ、柳澈涵と百姓たちをまとめて谷の側へ追い込むつもりだった。
柳澈涵は静かに息を吸い込み、台地のいちばん狭い部分へと足を滑らせた。
そこは上下の山道を繋ぐわずかな石段で、一方は岩壁、もう一方は虚空に開いている。
「弥助、石の陰まで下がれ」
彼は低く言った。
弥助は歯を食いしばって退き、背中を大石に押しつける。胸の鼓動が耳の奥で響いた。
最初の僧兵が木杖を振り上げて突進し、柳澈涵の胸を狙う。
柳澈涵は身をわずかにずらし、鞘を横に構えると、足元で相手の膝を軽く打った。
力は強くない。だがその一点で脚は力を失い、僧兵は石の上に尻をついて座り込む。
別の一人は側面から高い位置を取ろうとしていた。
柳澈涵は足先で石段の上に浅い弧を描く。その弧の切れ目が、僧兵の踏み出す足の行き先ちょうどに重なる。
僧兵はそこに足を置いた瞬間、僅かな傾きにバランスを崩し、本来は駆け上がってくるはずの一歩を、半跪きの不安定な姿勢に変えられてしまった。
瞬く間に、飛びかかってきた僧兵たちは、この狭い道の「境界」で次々と躓いていった。
百姓たちは目を見張り、手の中の鎌が震えていたことすら忘れていた。
副頭目のこめかみに怒りが昇る。
もはや部下を頼まず、自ら杖を握って突進し、この狭道に立つ男をまとめて押し落としてやろうとする。
二人の身影が狭道の上で交差する刹那、柳澈涵は半身を捻り、鞘を斜めに差し出して、副頭目の太腿の付け根に当てた。
力はやはり大きくはない。それでも、決定的な一点を押さえている。
副頭目の全身に震えが走り、足はぴたりと止まった。
今、ほんの僅かでも鞘を押し込まれたなら、この足はこの先の冬夜という冬夜に、痛みで目を覚ますことになる――それを彼は本能で知った。
谷底から吹き上げる風が、衣の裾をばさばさと揺らす。
誰も、今この時に足を一歩でも前に出そうとはできなかった。
柳澈涵は鞘を引き、田中弥七の方へ振り向く。
「お前の田んぼは」
問う。「来年も耕したいか」
田中弥七の喉仏が上下に動き、やがて力いっぱい頷いた。「耕したいです!」
「ならば、その鎌は田んぼのために残せ」
柳澈涵は言う。「今日、人を刈るな」
百姓たちは互いの顔を見合う。ある者の目には涙が溜まり、握っていた鎌の柄から徐々に力が抜けていく。刃は下を向き、ひび割れだらけの掌が露わになった。
柳澈涵は、副頭目へと視線を戻す。
「これらの俵は、約束通り、山へ担ぎ上げればいい」
彼は言う。「ただし今日以後、この道から人足を引きずり上げようとするなら、その時は別の道を探してもらう」
副頭目は奥歯が軋むほど噛みしめたが、それでも僧兵に再び手を出させる勇気はなかった。
人垣の後ろから、円道が二歩、前に進み出る。
「小隊……本日より、そのように致します」
彼は深く頭を下げた。
その言葉は、この場の命令を受ける者すべてに向けられた一つの台詞でもあった。
副頭目は彼を鋭く睨んだが、結局は鼻を鳴らし、手を振って僧兵に俵を担ぎ上げさせた。
一行は柳澈涵の脇を避けて通り、再び霧の中へと消えていく。
米俵は再び僧兵の肩に戻り、人足たちは百姓の列へと引き戻された。
隊列は白い霧の中に長い影を引き、山腹の霧の中へと飲み込まれていく。
石の台地には、まだ震えの止まらぬ百姓たちだけが残された。
ある者はその場に膝を落とし、仰向けに息を吐き出す。その瞳には、安堵と同じくらい、遅れてやってきた恐怖が濃かった。
「今日からは、この道をあまり使わない方がいい」
柳澈涵は刀を鞘におさめる。「湖の方を回れ。道のりは長くなるが、飛んでくる刃は幾分薄くなる」
「先生は……」
田中弥七はかすれた声で問う。「先生は、どちらへ」
「私か」
柳澈涵は山の向こうの空を見やる。「城へ」
山脚が近づくにつれ、琵琶湖の水面は陽を受けてまばゆく光り、さざ波は重なり合う銀片のようだった。
柳澈涵は岸辺で足を止め、袖から多羅尾の描いた古い地図を取り出した。指先は「比叡山」から「京」へとゆっくり滑っていく。
「山も一つの残形だ」
彼は低く呟く。「城も、そうだ」
弥助もその視線を追い、遠い空の縁を見た。そこには、薄い帳に隠された灯りのような淡い灰色の光がわずかに滲んでいる。
「先生、これからは……」
「これからは、城の病を見に行く」
柳澈涵は地図を折りたたみ、袖に納めた。「あの城には、刀も茶も文章もある。だがこの山よりよほど醜い心も、きっとごろごろ転がっている」
湖風が衣をはためかせる。比叡の鐘の余韻を乗せて、風はそのまま京の方角へと吹いていった。
柳澈涵は湖畔に沿って歩き出す。
足元の道は山石から平らな官道へと変わり、一歩一歩が、いつか誰かと出会うための地固めになっていくかのようだった。




