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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第一百零三話 講堂の窓・未燃の山火

 翌日は、いつもより雲が高く上がっていた。


 講経堂は山の中腹よりやや高いところに建てられており、顔を上げればさらに高みに塔と鐘楼が見え、下を見下ろせば湖と町家が一望できる。


 堂前の石坪には僧たちが両側に分かれて座り、若い者は前に、年配の者は後ろに腰を下ろしている。


 堂内には香煙がたなびき、一人の老僧が上座に坐していた。清らかな面立ちに霜のような白髪、しかしその瞳には抑えがたい鋭さがひそんでいる。


 これが山の大徳方丈である。


 寛順は柳澈涵を堂内に導き、簡単な紹介を済ませると、一歩退いて脇に控えた。


 老僧は柳澈涵を見つめ、刀を握る手から薬箱へ、そしてさほど飾り気もない顔へと目を移す。


「澄原殿」


 老僧が口を開いた声は低く、だが自然と重みを帯びていた。「山門で人足のために界を引き、医房では杖の何本かを代わりに受けたと聞いておる」


「少しばかり、手がうずいただけです」


 柳澈涵は身をかがめ、礼をする。「僧兵の皆さんが、足を折るまで打ち続ければ、山に上がる医者の手間が増えるだけですから」


 堂内の若い僧の中には、思わず笑い声を漏らした者もいたが、隣の袖に軽く肘を当てられてすぐに口をつぐんだ。


 老僧が手を上げると、脇の僧が文書を数巻、卓の上に広げる。それを柳澈涵の方へ静かに押しやった。


「そなたは外を歩く人間だ」


 老僧は言う。「ここ数年、各国からこの山に届いた文書を見て、この世がどのようなものに見えるか、話してみてくれぬか」


 柳澈涵は手に取って広げる。


 そこには近江、美濃、越前、摂津からの大小さまざまな大名の奏状が並んでいた。筆の力強いもの、慌ただしく走り書きされたもの。「兵は疲れ、倉は空に近い」と率直に書かれたものもあれば、寺社に郷の争いの仲裁を頼む文もある。「上洛」の二字を遠回しに織り込み、探りを入れてくるものもあった。


 一巻、また一巻と目を通しても、彼はすぐには口を開かない。


 書かれた字は彼の目の中で線となってほどけ、その線同士が心の中で網となって絡み合う。


 誰と誰が一本の縄になろうとしているのか。誰が表向きは敬意を示しながら、裏では用心しているのか。誰は本当にこの山を仏と見なし、誰はただ将来使えそうな旗印としか見ていないのか――。


「師父は、真実をお聞きになりたいのですか」


 柳澈涵は顔を上げる。「それとも、耳に心地よい言葉をお望みですか」


 老僧は口の端をわずかに上げた。「この山には、心地よい言葉は多く、真実は少ない」


「では、一言だけ」


 柳澈涵は文書を巻き、静かに卓の上に戻した。「これを書いた者たちの中には、仏を信じている者も、寺を信じている者もいる。だが一番多いのは、いつか自分が不幸になるかもしれないと、心の底から信じている連中です」


 堂内は水を打ったように静まり返った。


 寛順の顔色がわずかに変わり、若い僧たちは不満げに、あるいは驚いたように目を見張る。


「彼らは米や金や兵を差し出し、経を唱えろ、祈れ、争いを収めろと頼む」


 柳澈涵は言葉を続ける。「表にあるのは敬いだが、骨の奥にあるのは恐れだ。いつか火の手が自分のところまで来たとき、この山から誰も口を利いてくれず、道を一本も残してもらえなくなるのが怖いのです」


 老僧の指先が念珠をそっと転がし、珠と珠が触れ合う微かな音がした。


「では我らが、そうした供え物を受け取るのは、澄原殿の目には何と映る」


「そちらが恐れておられるからです」


 柳澈涵の声は静かだった。「この山がいつか、自ら燃え上がる日を」


 寛順は堪えかねて口を挟む。「先生、それはあまりに過ぎた言いようでは」


「過ぎてはおりません」


 柳澈涵は首を振った。「木は燃え尽きても、また伐ればよい。だが顔を焼かれてしまえば、張り替えるしかない」


 老僧は立ち上がり、身振りで柳澈涵を招いた。


 堂の奥の廊下へと歩き、連なる柱の間を抜けると、小さな観景の台があった。石の欄干は人の腰ほどの高さである。


 そこから見下ろす琵琶湖は、あまり澄んではいない鏡のようで、湖畔の町家、田畑、道筋は碁盤の目のような小さな区切りに縮んでいる。屋根のあちらこちらから煙が上がり、風に削られて細い線となっていた。


「澄原殿は外で医を行じ、多くの病を見てきたはずだ」


 老僧は杖に手を添えて彼の隣に立つ。「この山は、お前の目に病んで見えるか」


 柳澈涵はしばし黙考した。


「山そのものは病んでおりません」


 やがて言う。「病んでいるのは、人の中に溜まった『納得のいかなさ』と『受け入れたくなさ』です」


 彼は手を挙げ、山裾を指差した。


「あの人足は、一生他人の俵を担ぎ続けるのは嫌だ。村の者は、年ごとに重くなる役に耐えたくない。大名たちは、山の上に自分より高いものがあるのを嫌う。寺の者は、いつか山が崩れて、自分たちの唱える経を覚えている人間が一人もいなくなるのを恐れている」


「それらの『嫌だ』『嫌だ』が幾重にも積もると、残形になる。残形が増えれば増えるほど、火はつきやすくなる」


 山腹を渡る風が廊下の下を吹き抜け、風鈴を小さく鳴らす。


「この山は、火に焼かれると思うか」


 老僧が問う。


「いつか、必ず一度は燃えるでしょう」


 柳澈涵は静かに答える。「誰が火をつけるのか、いつ火が回るのか。それだけの違いです」


 彼は目を伏せ、足元の石板に視線を落とした。


 その縁は、長年僧たちの草鞋に磨かれて丸くなり、周囲の石より少し色が濃い。歳月が刻んだ一つの印のようだった。


「その日が来たら、澄原殿はどちら側に立つ」


「側は変わります」


 柳澈涵は答えた。「山も変わり、城も変わり、人の心も変わる。私はただ、この手の刀を誰に貸せば、あとで後悔しないか、それだけを見ます」


 老僧はしばらく彼を見つめ、そこにため息と、微かな安堵を同時に宿した。


「そなたは、ずっと前からこの山を一つの『終わっていない件』として見ておるようだ」


 老僧は言った。「だが行脚の医者が長く留まる場所ではない。明日、山を下りなさい」


 一呼吸おいて、言葉を継ぐ。


「裏山の道から下りるがよい。足は近いが、風が強い。世の風もまた、そちらから吹き上がってくる」


 柳澈涵は山背の稜線を仰ぎ見る。そこは木々が密で、山道もきつく絡みついている。


「道をお教えいただき、感謝いたします」


 彼は手を合わせた。「いつか山も人も変わった時、縁があれば、別の場所からもう一度この石板を眺めさせていただきましょう」


 医房へ戻るころには、夜の気配が下りていた。


 弥助は灯りの下で薬具を片付け、円道は庇の下に立って、中腹の灯火を見上げ、どこか落ち着かぬ顔をしている。


「明日の朝、裏山の道から下りる」


 柳澈涵は弥助にそう告げ、横目で円道を見た。「あの道は、すんなりとは行くまい」


 円道は唇を噛み、ようやく低く言った。「先生……明日の道中で、どうしてもお話ししたいことがございます」


 柳澈涵は小さくうなずくだけで、それ以上は問わなかった。


 この山の言葉の多くは、山を離れる道の上でしか口にできないものだ。

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