第一百零一話 坂本山門・石階の結界
坂本へと上る石道は湖畔から山脚へ折れ込み、灰色の蛇のように比叡山に巻きついている。
朝霧は山腹で結び目をつくり、高みから響く鐘の音は霧に包まれてこもり、重たく響いた。
石段は上へ行くほど狭くなり、両側では松の根が岩肌に晒され、爪を立てているように見える。
さらにしばらく登ると、山道は突然開け、一つの山門が前に横たわった。「延暦寺」と刻まれた扁額の文字は古拙で重く、門の脇の仁王像は木肌が黒くなり、目をむき歯をむいて、長年手入れされぬ怒りそのもののようだ。
山門前の小さな平地は、すでに人でぎっしりと埋まっていた。
一方には香案や供物を抱えた香客たち、もう一方には甲冑を着けた僧兵たち。僧兵は木杖を手に、人混みを指し示し、若く骨太な男たちを一人、また一人と横に追いやっていく。
「そこの、お前。肩はまだ使えそうだな」
「お前とお前だ。あっちに並べ。山に上がって仏のために石を運び、木を担げ」
指名された男たちの顔色は一気に青ざめる。
何か言いかけて、妻に袖を掴まれた者もいれば、喉で言葉を詰まらせ、そのまま黙って足を動かす者もいた。
柳澈涵は僧兵の一行とともに前へ進む。
弥助は薬箱を背負いながら、分けられていく人足たちを見て、眉をますますひそめていった。
彼らの番になった時、一人の僧兵の視線が弥助に止まる。肩の線から腕の筋までじろりと眺める。
「こいつは悪くないな」
木杖の先で弥助をつつく。「そっちへ並べ」
弥助の身体がびくりと固まり、動こうとするより速く、その肩に手が置かれた。
「こちらの子は拙者の弟子で、針を磨き薬を煎じる役目です」
柳澈涵は半歩前に出て、ちょうど弥助と木杖の間に立ちはだかる。「もし筋骨を潰されれば、この医者は何人分余計に埋め合わせをせねばならんでしょう」
僧兵は彼を一瞥し、鼻で笑う。「山に足りぬのは人足で、弟子ではない。医者殿が暮らしたければ、どこか別の場所で暮らすがよい」
そう言いつつ、彼はすでに木杖を振り上げ、力尽くで人を列から引き剥がすつもりでいた。
柳澈涵の視線は、山門、石段、人の流れの間をゆっくりと巡る。
山門の下の石坪は大きくはないが、彼が刀を振るうには十分な広さがあった。
「今日は、香客は香客の道、人足は人足の道を行く」
その声は高くはないが、くっきりと耳に届く。「道を違えて歩くというなら、まずはこの足の甲を踏んでからにしてもらおう」
言葉が終わると同時に、刀は半寸だけ鞘から抜かれた。
朝霧に遮られ、刃の光そのものは見えない。ただ冷たい気配だけが一筋、空気を裂く。
数人の僧兵がどっと笑い出した。
「その一本の刀で、山門の作法まで仕切るつもりか」
「ここは町の茶屋ではないぞ、澄原殿」
人々の息が一度に強く張りつめる。
弥助は薬箱の紐を握りしめ、柳澈涵の足元を食い入るように見つめていた。
最初の僧兵が木杖を振り上げ、大股で突っ込んでくる。山門前で出しゃばる医者を一撃で階段下に転がしてやるつもりだ。
三歩目を踏み出した途端、鈍い音が鳴った。
いつの間にか、刀の鞘が彼の足元に差し出され、足首の骨を軽く叩く。
足に力が入らなくなり、僧兵はそのまま石段を転げ落ちた。後ろにいた二人を巻き込み、木杖もろとも香客たちの足下に突っ込んでいく。悲鳴があがった。
二人目の僧兵は怒号とともに前に出て、長槍を柳澈涵の胸元へ突き出す。
柳澈涵は退かない。逆に半歩、槍先へ向かって身を乗り出した。足の裏は石段の縁にかかり、身体は斜めに傾く。刀の鞘が横から槍の中ほどを軽く叩く。
一見ぞんざいに見えるが、その一撃は対手の連続動作の継ぎ目をぴしゃりと断ち切った。
本来続くはずだった横薙ぎは途中で折れ、槍先は一尺外れて中途半端な弧を描くしかなくなる。
石段の上でざわめきが起こる。
柳澈涵は一歩一歩、石坪の上を安定した足取りで進んだ。つま先と鞘の先でごく軽くいくつかの地点をなぞりながら、何気ない風を装って、人々の足下に静かな円を描いていく。
円の内側は、彼が刀勢を伸ばせる場所。
円の外側は、香客と人足が立つべき場所。
三人目の僧兵は横からその円の中に割り込もうとし、一歩目で見えない境界を踏み越えた瞬間、膝の裏を鞘で軽く叩かれる。
脚の力が抜け、片膝は重く石に叩きつけられた。
短い呼吸の間に、飛び込んできた僧兵たちが次々と転び、膝をつき、地に転がった。
円の中心に立つのはただ一人――柳澈涵だけで、彼の手の中の鞘は一本の収まった線のように静かに握られている。
香客たちは彼の足の運びに導かれるように、少しずつ円の外へと退いていく。誰もが無意識に、その見えない境界線を避けて足を置いていた。
弥助の胸の内は熱くなった。
先生の口にしていた「鎖界」の名が、決して大げさな言葉ではなかったのだと、今ようやく理解できた。
「もうよい」
山門の影から、少し掠れながらも落ち着いた声が響いた。
一人の中年の僧が姿を現す。甲冑は着けず、僧衣の裾を引き、額の間には薄い縦皺が刻まれている。手に念珠を持っていた。
彼の目は地に倒れた僧兵から、円の中心に立つ男へと移り、そのまましばし止まる。
「ここは仏門の山門であって、戦場ではない」
僧はゆっくりと口を開いた。「澄原殿。もし足腰を壊すことしか出来ぬ医者であれば、山を騒がせる必要もあるまい」
柳澈涵は刀を鞘に収め、手を合わせて一礼した。
「筋骨のことがわかるからこそ、これ以上打てば、来年、山を行き来する人足を一から集め直さねばならぬとわかるのです」
中年の僧は黙って彼を見つめた。しばしの沈黙のあと、小さくため息をつく。
「山上には、確かに筋と脈を読む手が足りぬ」
彼は言う。「方丈も、山門で界を引く者を一度見ておきたいと申されている」
彼は山の上を指差した。「ついて参れ、澄原殿」
弥助はこっそり息を吐き、薬箱の紐に食い込んでいた指先から力を抜く。
柳澈涵は振り返り、ごく薄い笑みを見せた。
「行くぞ、弟子」
「はい」
「城に入る」
弥助は一瞬ぽかんとし、それから悟る。
先生の言う「城」とは、石垣と天守の見えるどこかの城ではなく――この山そのもののことなのだ。




