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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第十話 信長帰城(下)・軍議にて柴田と相まみえる

清洲の朝は、まだ空が完全には白みきっていなかった。


 天守の屋根には残雪がこびりつき、長良川の方角から吹き込む風が、遠い山の冷気をまとって骨の髄まで刺し込んでくる。


 大広間の中だけは、すでに灯がすべてともされていた。


 中央に広げられた巨大な軍陣図には、墨線で尾張と美濃の山川・河川・城砦が描き込まれている。


 長良川は一振りの反り返った刀のように流れ、その刃の背に打ち込まれた鉄釘のごとく、稲葉山城が冷たく頑なに突き立っていた。


 信長は上座に端然と座していた。


 この日は大仰な甲冑は身につけず、織田木瓜の紋をあしらった黒羽織をただ一重羽織っているだけであったが、その眼差しはどんな刀よりも鋭かった。


 左右の列には、すでに人の座がびっしりと埋まっている。


 左には柴田勝家、佐久間信盛、森可成、河尻秀隆、青山与武、安藤守就といった武断派が並び、皆が刀の柄に手をかけ、ひとたび号令がかかれば、そのまま山河へ打って出る気迫を漂わせていた。


 右の列には林秀貞が温厚そうな顔で座し、丹羽長秀は感情の読みにくい淡々とした表情を崩さず、信長の弟・信勝はやや下座に座って背筋をぴんと伸ばしながらも、掌の中では無意識に衣の端を握りしめていた。


 柳澈涵は大広間のいちばん後ろに立っていた。


 列にも席にも加えられず、ただ武士たちの列のさらに後ろ、陰の一角に立つしかない。


 朝の冷光と灯火が交わる中、その白い髪はわずかに色を失ったようにも見えたが、それでもなお目を引いた。


 場違いな一筆の墨線のように、消そうとしても消えない。


 佐吉は長屋に置き去りにされ、この場には呼ばれてすらいなかった。


 この城で赤い縁の畳に足を踏み入れる資格があるのは、刀と名を持つ者だけである。


 大広間にはしばらく誰の声も上がらなかった。


 炭火のぱちぱちと爆ぜる音だけが静かに響き、近くの空気を温めても、人々の胸にたまった凝り固まった寒気までは追い払えない。


 信長は急いで口を開くことをしなかった。


 几に添えた指先で軽くとんとんと音を立てながら、目前に並ぶ馴染みの顔と、まだ見慣れぬ顔とをひとつひとつゆっくりと見てゆき、最後に軍陣図の中央――稲葉山城の一点に視線を落とす。


 やがて、林秀貞が軽く咳払いをして沈黙を破った。


「殿、美濃の件、諸将の間ではすでにさまざまな議論が飛び交っております。」


 彼はひげを撫で、目尻に笑みを浮かべるが、その笑みにはさほどの温みはなかった。


「ただ、この場に座する者の中で、稲葉山城の近ごろの様子をこの目で見てきた者となりますと……どうやら一人しかおりませぬな。」


 その視線は諸将の肩越しに、さりげなく後方の白い影へと滑っていった。


「噂によれば、稲葉山城において稲葉一鉄を驚かせた白髪の若者がおるとか。」


 林秀貞は口の端をわずかに上げる。


「そのような人物を、ただ殿の背後に立たせておくだけというのも、もったいなきことでございましょう。」


 数人の武将がふっと低く笑い声を漏らした。


「噂は所詮、噂にすぎませぬ。」


 佐久間信盛ががらがらとした声で言う。


「戦場で流れる血こそが、本物の墨跡でござる。山道での小さな小競り合い一つで、『奇人』と持ち上げられては、いささか話ができすぎておる。」


 柴田勝家は鼻を鳴らし、両腕を胸の前で組んだ。


 衣の下で肩の筋肉が綱のようにうねり、ぴんと張りつめている。


「美濃の戦も始まらぬうちから、妖しげな話ばかりが先行するとはな。」


 彼の声は荒々しい。


「稲葉山城の堅さは、この柴田が誰よりも知っておる。もし本当に、たった一振りの刀で一鉄の心を揺らす者がいるのなら、この勝家も三分の礼を払ってやろう。」


「もっとも、その刀が、まずは叩きに耐えねばならぬがな。」


 言葉の端々に、押しつけるような火薬の匂いが混じり始めていた。


 若い武士たちの胸がどきりと波打つ。


 大広間の奥へと向かう視線を抑えきれず、何人もの目がそちらに吸い寄せられた。


 そこには、一抹の白い影が静かに立っているだけで、皆の視線の重さをまるで感じぬかのようであった。


 信長の目がわずかに動く。


 彼はこれらのやり取りを制そうとはしなかった。


 ただ、そこそこ耳に心地よい芝居でも眺めているかのように、静かに聞いている。


「柳。」


 彼の声は高くはない。


 だが、囁き合う声を抑え込むには十分だった。


 信長は面倒くさそうに顎を少し持ち上げた。


「聞こえておろう。」


 潮が引くように、すべての視線が一斉に柳澈涵へと流れ込み、彼の上で重くぶつかり合う。


 柳澈涵は一歩前に出て、上体を折って礼をした。


「は。」


「稲葉山城での一件は、すでに一度、余に話して聞かせたな。」


 信長が言う。


「だが、こやつらはまだ聞いておらぬ。」


「噂というものは放っておけば自ずと棘を生やす。誰かがその棘を抜いてやらねばならぬ。」


 彼は一拍置き、唇の端にかすかな笑みを刻んだ。


「とはいえ、大広間で口先だけの論を戦わせるのも、いささか退屈だ。」


「――柴田。」


「は。」


 柴田勝家が拳を胸の前で合わせて応じた。


「その刀を叩いてみたいと申したのは、そなたであったな。」


 信長の視線が彼の上をなぞる。


 まるで台所に向かって『酒を替えよ』と言い捨てるのと同じ気軽さであった。


「大広間は血を見る場所ではない。中庭へ行け。」


「試し合いは許すが、殺生は無用。」


 柴田の目に、抑えきれぬ高ぶりの火が灯る。


「御意。」


 彼は立ち上がった。


 その巨躯は一枚の壁のようで、列の間を歩み過ぎるたびに、畳そのものがかすかに震えるように思えた。


 柳澈涵もわずかに身を折る。


「お試しの機会、かたじけなく存じます。」


 彼は向き直り、ゆったりとした歩調でその後に続いた。


 決して早くはないが、誰にも止められぬ確かさを帯びた歩みである。


 大広間の中で、椅子と几の足が揃ってかすかな音を立てた。


 この先に続くものを見逃すまいと、誰もが腰を上げる。


 佐久間、森可成、前田利家らが次々と立ち上がり、列を乱さぬようにして中庭へと向かう。


 林秀貞すらも、にこやかに立ち上がり、あたかもこれから始まるのはただの舞楽見物でもあるかのような顔つきで歩み出た。


 丹羽長秀だけが、半歩ほど遅れて立ち上がる。


 さきほど広げていた覚書を静かにまとめ終えてから、ようやく席を離れた。


 その眼差しは終始、柳澈涵の背から離れなかった。


 清洲城の中庭には、まだ雪がすべて解けきらずに残っている。


 石畳の隙間には薄氷が張り、そこから冷気がじわりと立ちのぼる。


 空気には、刃を振るってかき混ぜられたような凍てついた気配が満ちていた。


 武士たちは輪を作るようにして取り囲み、足軽や雑役たちはその外側に押しとどめられ、爪先立ちになって中をうかがおうとしている。


 柴田勝家は庭の中央に立った。


 羽織を脱ぎ捨て、濃い色の直垂一枚となる。


 広い肩は山の稜線のように張り、むき出しの手の甲には無数の古傷と刀だこが浮かび上がっていた。


「いつもの刀を抜け。」


 柴田はごつごつした首をぐいと回し、頸の筋を盛り上がらせた。


「わしが若造をいじめたなどと、後で陰口を叩かれてはかなわぬでな。」


 そう言いながらも、彼自身は従者の手から己の野太刀を受け取っていた。


 いつもより長めの太刀で、鞘の漆は長年の風雪に耐えて鈍く光り、風と砂に磨かれたような重たい艶をまとっている。


 その長さと重さだけで、多くの武士はおのずと一歩退くだろう。


 柳澈涵も庭の中へと歩み出た。


 腰には、いつもの素朴な太刀――澄心村正が差してあるだけだ。


 黒一色の地味な鞘に、飾り気のない鍔。


 だが、庭に並ぶどの華美な刀よりも、むしろこちらの方が目を引いた。


「その刀か。」


 柴田はちらりとその太刀を見やり、目の奥にかすかな侮りの色を浮かべる。


「噂の『妖刀』というやつか。」


「刀は刀にすぎませぬ。」


 柳澈涵は淡く笑う。


「拙者は、ただこの一本に慣れているだけのこと。」


 そう言うと、かえって刀を抜いて身の後ろに回し、刃を抱え込むようにして持ち、手に残したのは鞘だけであった。


「殿のお達しにて、試し合いといえど人を傷つけるわけにはまいりませぬ。」


「ゆえに本日、拙者が使うのは――この鞘のみ。」


 どよめきが小さく場のあちこちで爆ぜた。


「無茶を申しおる。」


 誰かが低くつぶやく。


 柴田の口元には、逆に愉快そうな笑みが浮かんだ。


 その笑みは、彼の顔に乗るとどこか凶相めいて見える。


「いい。」


「実にいいわ。」


 彼は野太刀をすっと抜き、わずかに刃を覗かせた。


 そこから冷たい光が一筋走る。


「ならば、こちらが手加減するわけにもいかぬな。」


 信長は廊下に立ち、両手を後ろで組んでいた。


 体の半分は柱と軒の影に沈んでいるが、その目は一度として瞬きをしていない。


「始めよ。」


 まるで「もうよい」と茶を下げさせるような調子で、信長はひとことだけ告げた。


 柴田勝家が、最初の一歩を踏み出した。


 その一歩は、胸の上に鉛を落とされたような重さを周囲の者に感じさせた。


 続く第二歩、第三歩。


 巨躯が鉄塔のごとき勢いで前に押し出され、恐るべき慣性をまとって迫ってくる。


 技など要らぬと言わんばかり。


 振り下ろされたのは、戦場で最も単純で、最も直接的で、そして最も致命的な斬撃――上段から、頭頂から肩口へと一刀の斜線で断ち割る一撃である。


 風が唸りを上げた。


 重い刀風が足下の細かな雪を一気に巻き上げ、空へと叩きつける。


 柳澈涵は動かなかった。


 少なくとも、周囲の目にはそう見えた。


 ただ、ほんの半歩、身体を傾けたようにしか見えない。


 轟音は一瞬のうちに爆ぜた。


 野太刀は乱暴に叩きつけられたが、そこにあるのは柳澈涵の身体ではなく、彼がさきほどまで立っていた地点の石畳であった。


 地面には深々とした刀痕が刻まれ、雪と砕けた小石が激しく跳ね上がる。


 柳澈涵はすでにそのわずか横手に立ち、斜めに掲げた刀鞘の先で、柴田の刀の峰を軽くつつくように押さえ、その最後の一寸の力だけをぴたりと奪い取っていた。


「一刀。」


 彼は低くつぶやいた。


 まるで相手に代わって打数を数えてやっているかのように。


 柴田の目が細まり、刃のような光がそこに宿る。


「もう一度だ。」


 彼はすばやく刀を捌き直し、野太刀をしならせるように振るうと、今度は妙な弧を描いて下から上へと薙ぎ上げた。


 馬の腹を狙って真横に断ち切る、戦場第二の一撃を、そのまま人間の腰の高さへと持ち込んだような一刀である。


 今度、柳澈涵は足運びすら大きくは変えなかった。


 ただ、わずかに足を持ち上げる。


 刀鞘が地面と刀身のちょうど中ほど、その一点へとコツリと落ちた。


 そこは柴田の力の半ばを引き受ける位置であり、残る半ばは柳澈涵が足下をすっと外へ滑らせることで、雪の上へと逃がされた。


 傍らで見ている者には、ただ「足を上げた」「腕を伸ばした」の二つの所作にしか見えなかった。


 だが、真に剣を解する武将たちの瞳孔は、その瞬間、ぎゅっと収縮する。


 それは、殺意の流れを隅々まで読み切った者だけが見せる怠惰な身のこなしであった。


「二刀。」


 柳澈涵の声は、なおも悠然としている。


 柴田の胸腔には、徐々に荒い息が溜まり始めていた。


 野太刀はさっきより重く感じられ、柄を握る虎口にはかすかな痺れが走る。


 それは、相手の力が強すぎるからではない。


 自らの一撃ごとに、その勢いを三分ばかり目に見えぬ手にさらわれてしまうからである。


 斬撃が止められているのではない。


 打ち込むたび、力の向きそのものを、どこかへと逸らされているのだ。


 このままあと十刀斬り込めば、先に尽きるのは自分の体力であろう。


「よし。」


 柴田が突然、大声で笑った。


 その笑いは冬の風の中で弾け、粗野ではあるが不思議な爽快さを含んでいた。


「どおりで稲葉一鉄の頑固者でさえ、口ぶりが変わったわけだ。」


 彼は刀を半歩ほど引き、足をぐっと踏みしめた。


 肩と背を沈め、全身を一挙に落とし込む。


 そうして彼の背丈は、さきほどより一つ分ほど低くなったように見えた。


「ならば――」


 胸の奥底から絞り出すような声で吼える。


「もう避けるな。力と力、正面から当てる。……受ける度胸はあるか。」


 今度は斬りつけるのではない。


 野太刀を棒のように横へ張り出し、刀身の背を一本の梁のごとく押し出して、柳澈涵の刀鞘へまっすぐぶつけにいく。


 この一瞬、刀意も足さばきも、すべては一つの原始的な要素へと収束していた。


 ――力。


「柴田殿、力比べか。」


「正気かよ、あの若造、あれだけ体格が違うってのに。」


 周囲には小声がふたたび溢れ出す。


 柳澈涵は、その押し寄せる刃をじっと見据えた。


 退かなかった。


 刀鞘の角度すら変えない。


 ただ、彼も一歩を前へと踏み出した。


 足の下で、雪が「ぎゅっ」と軋み、小さな音を立てて彼の全身を石と雪の間に釘のように打ち込んだ。


 野太刀と刀鞘が、空中で激しくぶつかり合う。


 金属と鞘が噛み合う鈍い衝撃音は、まるで誰かが耳元で大太鼓を思い切り叩いたかのようだった。


 二度目、三度目と、響きは何度も胸の内側で反響する。


 それは何度もの衝突ではなく、一度の衝撃の余韻が、力の波となって何度も押し寄せてくるのだ。


 多くの足軽たちが反射的に耳を塞いだ。


 舞い上がった雪片が弧を描き、白い靄となってあたりに散る。


 その白の中で、二人の姿はほとんど重なり合うほど近くに寄っていた。


 柴田の両腕は石柱のように張り詰め、柳澈涵の袖は風圧で膨らみ、その下の腕には、意外にも細さとは無縁の、引き締まった筋肉の線が浮かんでいる。


 時間が、その一瞬だけ伸びきったように感じられた。


 誰もが待っている。


 どちらかが、半歩でも後ろへ退くのを。


 雪に残る足跡の形が、どちらから崩れ始めるのかを。


 ――しかし。


 退いた足は、どこにもなかった。


 柴田には、はっきりとわかった。


 この感覚は、非常に鮮明であった。


 自分が用いているのは腕力だけではない。


 肩、背、腰、脚。


 踵から刀の切っ先に至るまで一本につながった「力の鎖」を、今まさに総動員している。


 だが、目の前のいかにも細身に見える青年の肉体にも、同じような「力の鎖」が存在していた。


 重く、揺るがず、そこに奇妙な粘りを潜ませながら、岩の隙間に根を張る木の根のように地面にしがみついている。


 二つの力は、ぶつかり合いながらも爆ぜることなく、退くこともなく、ただひたすらに相手を磨り減らそうとしていた。


 柴田は、一瞬、自分の感覚を疑った。


 ――まるで見えない岩の上に、刀を押しつけているかのようだ。


 目の前にいるのは、本当に人間なのか。


「この力……。」


 柴田の胸の奥に、信じ難い思いが走る。


「わしと同じか……いや、わずかだが……上回っておる……?」


 彼の目は、思わず相手の手首へと流れた。


 そこに浮かぶ血管は、無理な力を込めた時のようには浮き上がっておらず、握りはひどく落ち着き払っている。


 まるで、まだ余力を残していると言わんばかりだ。


 対して、自分の虎口にはすでにかすかな痺れが走っていた。


 ――これ以上、無理に押し込めば、先に裂けるのは、自分の手首だ。


 その考えが氷の塊のように胸に落ちる。


 柴田は悟る。


 相手は、この一撃を避けられなかったわけではない。


 避けることも、逸らすこともできたはずだ。


 あえてこの力比べを受けてみせ、そのうえで、わずか半分の差で自分を上回ったのだ。


 その「半分」は、当人同士にしかわからぬ。


「十分だ。」


 柴田は息を吐くように刀を引いた。


 一歩下がり、野太刀をまっすぐ前に立てる。


 呼吸はやや荒くなってはいたが、見苦しい乱れは一切見せなかった。


 すぐさま低い感嘆の声があちこちから湧き起こる。


 多くの者の目には、ただの「一対一からの、引き分け」にしか見えなかっただろう。


 だが、真に目の肥えた数人――森可成、佐久間、丹羽――の胸の内には、冷たい震えが静かに走っていた。


「貴様……。」


 柴田は息を整えながら柳澈涵を見つめる。


 口元がわずかに引きつり、それが苦笑なのか別のものなのか、自分でも判然としない。


 柳澈涵は静かに刀鞘を引き、深々と頭を下げた。


「柴田殿は、全身の力を余すところなく一刀に込め、軍勢とともに歩むお方。」


 その声は静かで、ただ事実を述べているだけのように聞こえる。


「拙者など、とても及ぶところではございませぬ。」


「ただ、先ほどの一撃は、柴田殿のお力をお借りして、拙者自身がその場で折れぬよう、どうにかやり過ごしただけのこと。」


 その一言を、周囲の多くは謙遜と受け取った。


 だが、柴田の胸には、どんと重い衝撃がもう一度打ち込まれる。


 ――あれも計算のうちか。


 さきほどの一衝突、もし自分があと三分ばかり余計に力を込めていれば、二人とも雪に沈んでいたはずだ。


 だが柳澈涵は、ぎりぎりのところで力を受け止め、上へとわずかに持ち上げることで、その圧力を地面と空気へと逃がしてしまった。


 敵と自分の力量とを、そこまで正確に見積もったうえでの所作であった。


 それは単なる怪力ではない。


 敵と己の両方を、寸分違わず掌で転がすような制御力である。


 ――力そのものより、よほど恐ろしい。


 柴田は鼻を鳴らした。


 口から白い息を一つ大きく吐き出し、それ以上は何も言わずに刀を鞘へと納め、どんと一歩踏みしめてから廊下に向かって深く一礼した。


「殿。」


 彼はがらがらとした声で言う。


「この者の刀も力も、虚妄ではござらぬ。」


 それは、彼にとって最大限の譲歩であり、最高の評価でもあった。


 信長の口元に、かすかな笑いが浮かぶ。


「その腕、その刀筋。」


「武のみをもって言えば、一『将』の器ではあるな。」


 彼は淡々と言う。


「だが、美濃を取るのに必要なのは、刀だけではない。」


 大広間の炭には、新しい炭が継ぎ足されていた。


 人々は再び席に戻るが、その空気は先ほどとはすっかり変わっていた。


 目に見えぬ火の粉が、あちこちに飛び散っているかのようだ。


 柳澈涵はなおも列の後ろに立ったままで、一歩も勝手に前へは出ようとしなかった。


 だが、その姿を見る目には、もはや露骨な侮りは消え、代わりに言葉にしにくい思いが混じるようになっていた。


 信長の視線がふたたび軍陣図に落ちる。


「先ほどのは、ただの準備運動にすぎぬ。」


 彼は言う。


「これからが、本物の軍議だ。」


「――柴田。」


「は。」


 柴田勝家は再度立ち上がり、その低い声が大広間にどんと響いた。


「まず、お前から言え。」


 信長が命じる。


「お前の目に、美濃はどう攻めるべきと映る。」


 柴田はしばし黙し、ゆっくりと地図の上を指でなぞった。


 ごつごつとした指先が、稲葉山城の位置で止まる。


 刀を握り続けてきた年月の分だけ、その節は岩のように硬い。


「稲葉山城は、美濃の喉でござる。」


 彼の言葉は、その刀と同じく無駄がない。


「山勢は険しく、城は堅固。だが、ここさえ落とせば、美濃の諸豪族は一夜にして拠りどころを失いましょう。」


 指は山麓を沿うように滑り、尾張の方角へと下りてゆく。


「まずは周囲の小城を叩き、その援軍をあちこちに走らせる。」


「そのうえで大軍を稲葉山城の目前まで進め、陣を築いて柵をめぐらせ、糧道を断つ。」


「山城がいかに堅くとも、人の心は飢えと寒さには耐えきれませぬ。」


「龍興は若くして軽佻、たやすく長囲には堪えられますまい。」


「この勝家に一冬の寒さと、三度の総攻撃をお許しいただければ……この首を持って、殿の前へ参りましょう。」


 その言葉には、濃い血の匂いが立ち込めている。


 聞く者の血を逆流させるような凄みがあった。


 これこそ武の道を行く者の論である。


 血を流して城を取り、攻めて壊す。


 信長は、すぐには何も言わなかった。


 その視線はゆっくりと列の後ろの白い影へと移動していく。


「――柳。」


「は。」


 柳澈涵は一歩前へ出た。


 それでもなお席の後ろに留まり、礼を失しない位置を保っていたが、その立ち姿はすでに一つの列として見える。


「今の策、どう聞こえた。」


 信長の声は淡々としている。


「お前の考えを申してみよ。」


 林秀貞がひげをひねり、笑みを浮かべる。


「ちょうど良い。風を見る御仁とやらが、この山をどう眺めておるのか、我らも拝聴したいところですな。」


 柴田の目には、構えた獣のような色が宿る。


 先ほどの中庭の一合で、この少年が見せかけだけの花形ではないと知った。


 だが、兵法と刀法は違う。


 紙の上で戦の話ばかりしたがる輩の多くは、手のひらにろくなマメも持たぬくせに、地図の上を指で撫で回すのが好きだ。


 もしこの若造が刀で一歩上を行き、言葉で軽々しく空論を並べるなら、それはそれで容赦しない。


 柳澈涵の視線は、すぐに稲葉山城の上に落ちることはなかった。


 彼は顔を少し上げ、軍陣図全体を見渡した。


 そこに描かれた山の線、城砦の位置、道の走り方が、彼の目には見えない風の流れのように見えている。


「柴田殿の策は――」


 彼は口を開いた。


「『城』を砕き、『威』を立てる策にござる。」


「それは大事なことです。」


 声は淡々としていながら、よく通る。


「城門にまっすぐ向かう大刀がなければ、美濃の戦はそもそも口火が切れませぬ。」


 柴田の目に、一瞬だけ満足の色がよぎる。


 最初のひと言は、耳に心地よい。


「ただ――。」


 柳澈涵の指先が、地図の上にそっと置かれた。


 触れたのは、稲葉山城そのものではなく、その真下あたりの一点。


「稲葉山城を高くしているものは、その石垣の丈ではありませぬ。」


 広間のあちこちで、わずかな戸惑いが浮かぶ。


「それを高くしているのは――。」


 柳澈涵の指は山裾をなぞりながら、周囲の小さな城、荘園、関所へと円を描くように動いていく。


「この城々、この庄、この道筋でございます。」


「山城が難攻不落であるのは、その背後に無数の見えぬ手があり、絶え間なく上へ上へと支えているからです。」


「米はどこから山へ上がるのか。」


「人はどこから山へ上がるのか。」


「噂はどこから山へ上がるのか。」


「そして、威名はどこから山へ上がるのか。」


「山へ『上がる』たび、ここにも、ここにも、と印がつく。」


 柳澈涵が「上がる」と言うごとに、指先は一つひとつの拠点をそっと叩いた。


 バラバラに存在するように見えた小城や道筋が、見えない線で次々とつながっていく。


「稲葉山そのものだけを眺めれば、それはただの一塊の石に過ぎませぬ。」


 柳澈涵は静かに続ける。


「ですが、その石を持ち上げているすべてをも合わせて見れば、初めてそれは『山』と呼ぶに足る。」


「柴田殿の刀は、岩を砕く刀にござる。」


 柳澈涵は視線を柴田へと移し、正面から見返した。


「正直に申せば、拙者ごときには、柴田殿以上に城前に立つにふさわしい者は思いつきませぬ。」


 柴田の眉がぴくりと動く。


 後ろから誰かにどんと背中を押されたような感覚があった。


 押された先が崖ではなく、しっかりした足場であると、直感でわかる。


「ゆえに、拙者の策は、柴田殿を否定するものではありませぬ。」


「柴田殿の刀が振り下ろされるより前に――『山』を薄く削ることを提案したいのです。」


「削る……?」


 佐久間が堪えきれずに口を挟んだ。


「どうやって削ると言うのだ。まさか血の一滴も流さぬ妙策でもあるのか。」


「この世に、本当に血の一滴も流れぬ妙策などありませぬ。」


 柳澈涵は首を振る。


「ただ、ある血は城の下で流れ、ある血は城の上で流れるだけ。」


 彼はわずかに声を落とした。


「稲葉龍興が徳を失い、諸豪族の心が離れつつあることは、殿も、ここにお集まりの皆々もご存知のはず。」


「徳を失った主が座り続けられる椅子は、何によって支えられておりましょう。」


 問いかけに、大広間はしんと静まり返る。


 誰もが知っていながら、口に出したくない問いだった。


「それは――椅子の周りに座る者たちが、『まだ辛抱できる』と思っているからでござる。」


「龍興の軽佻を、彼らは辛抱してきた。なぜなら、その場で首を刎ねられるわけではないから。」


「稲葉山城の圧も、彼らは辛抱してきた。まだ、自分の蔵の戸にまでその影が落ちてこないから。」


「この『山』を、彼らは辛抱してきた。まだそこから、自分のところへ風が少しは吹き降りてくるから。」


 柳澈涵の指が、再びいくつかの地点を叩く。


 交易で栄える町、必ず通らねばならぬ河渡、ある豪族が代々守ってきた荘園。


「では、柴田殿が刀を振り上げるその前に――彼らがもう辛抱できぬところまで追い込まれたとしたら。」


「米の値が、ある日を境にじわりと上がる。」


「街道を行く商隊が、いつもよりひどく襲われやすくなる。」


「外から、美濃中に噂が流れ込む。」


「――『龍興は稲葉山城で酒宴に溺れ、民を顧みておらぬ』と。」


「その夜、豪族たちは、何を考えるでしょう。」


「急に忠義を思い出すわけではない。」


「ただ計算を始めるのです。」


「『この山は、本当にまだ自分を守ってくれる山か。あるいは、自分の肩に乗って、骨を軋ませている石ではないのか』と。」


「そのとき柴田殿の大軍が押し寄せれば、討つのは単なる山城ではなく、すでに亀裂の入った山そのものとなりましょう。」


 大広間には、炭がはぜる音だけが残った。


「つまり、こう申したいのですね。」


 丹羽長秀がようやく口を開く。


「まず風を起こし、彼らをある位置まで吹き寄せてから、刀を振り下ろせと。」


 柳澈涵は丹羽に向かって軽く頭を下げた。


「殿がお許しくださるなら、それこそが『山を薄く削る』ということにござる。」


 柴田の目に宿っていた冷たい光は、徐々に和らいでいった。


 彼は愚直ではあるが、愚鈍ではない。


 自らの本分が「刀」であることは疑わないが、それを活かすためにより良い道があるのなら、それを拒む理由もない。


 ただひとつ、許せないのは、自分の存在を無用と見なされることのみだ。


「では、お前は、わしを何と見る。」


 柴田は荒々しく問う。


「何のために立たせる。」


「大軍の先頭に立つ、刃の先にござる。」


 柳澈涵は間髪入れずに答えた。


「稲葉山城の門前で振り下ろされる一刀は、柴田殿の刀にこそふさわしい。」


「誰にも代わることはできませぬ。」


 柴田の胸が大きく上下した。


 そして、長く息を吐き出す。


 その息とともに、胸の奥に残っていた「この若造とどこまでも張り合ってやる」という意地が、少しずつ溶けていく。


「ふん。」


 彼は腕を組み直し、どすんと座を取り直した。


 その後は口を閉ざしたが、さきほどまで漂っていた侮蔑の色は影も形もなかった。


 それは、彼なりに示しうる最大の敬意であった。


 沈黙は長く続いた。


 炭が一段崩れ落ちるほどの時間が過ぎる。


 信長はようやく手を伸ばし、炭ばさみを取って数片の新しい炭を火の中心へとそっと押し込んだ。


 火の舌がふっと高く燃え上がり、その横顔を明るくしたり暗くしたりする。


「悪くない。」


 彼は、さきほど調合した新しい酒でも試すときのような声音で言う。


「刀も、言葉も、骨のつき方はまずまずだ。」


 視線が柳澈涵へと向く。


「お前の申したことは、まとめてしまえば『風を先に、刃を後に』というだけの話だ。」


「それが実際にできるかどうかは、また別のこと。」


 信長の声には、褒めるとも責めるともつかぬ、少し投げやりな響きが混じる。


「だが――。」


「少なくとも、風を見ようともしないで、他人の血が先に流れるのを待ってから功罪を論じたがる連中よりは、ずっと面白い。」


 その一言に、何人かの文官の顔色がわずかに強張った。


「美濃の戦など、まだ始まりもしておらぬ。」


 信長は静かに続ける。


「余がこれまでにまともに打った戦は、たかが知れている。」


「これから先の戦は、まだ山ほどある。」


「刀なら、余はすでにいくつも持っておる。」


「だが、風の眼は、一つ足りなかった。」


 彼は手を伸ばし、軍陣図の上の一点を指でちょんと突いた。


 それは稲葉山城と清洲のちょうど中ほど。


 城でもなく、道でもなく、これまで誰も気に留めなかった空白の土地である。


「柳。」


「これより軍議の折、お前は末席に立て。」


「門の外に立っている必要はない。」


 末席――。


 それは、既存の誰の席とも重ならない。


 だが、「外」ではなく「席の内」にいることを許されたという意味を持つ。


 大広間の視線が、再び一斉に柳澈涵へと向かう。


「もっとも――。」


 信長の口元に薄い笑みが浮かび、その眼には冷たい光がきらりと走った。


「さきほど、お前は自分の口で言ったな。」


「この世に、本当に血の一滴も流れぬ妙策などない、と。」


「風を見たいと望むなら、風が吹き始めたとき、最初にその風にさらされる者が誰かを、よくよく知っておけ。」


 彼の視線がゆっくりと柴田を掠め、さらに林秀貞たちの上にも、さりげなく留まっていく。


 その一瞬、広間の温度がひやりと下がったようにさえ感じられた。


「美濃は、これから登る山のうちで一番低い。」


「その先には、もっと高く、もっと険しい山がいくつも待っておる。」


「本当に山の稜線に立って風を読もうというなら――いつか自分の足下から風が吹き抜けていくのを、恐れてはならぬ。」


 それは警告であり、同時に誘いでもあった。


 柳澈涵はまぶたを伏せ、深々と頭を垂れた。


「肝に銘じておきます。」


 軍陣図の上で火の光がまたたき、山川の線を明るくしたり暗くしたりする。


 誰一人、もう軽々しく口を開こうとはしない。


 咳払いすらも消え失せ、障子の向こうで鳴る風の音だけが、軒下で誰かが静かに刃を研いでいるように聞こえた。


 この沈黙は、軍議が終わったからではない。


 ――本当の斬り合いが、ようやく刃先を覗かせたからである。


 誰かは胸の奥でそっと息を吸い、誰かは刀の柄を撫で、誰かは何食わぬ顔で袖口を整えた。


 次に吹く風は、刀と城だけを撫でて通り過ぎはしない。


 言葉のひとつひとつの中に吹き込み、ここにいる者たちそれぞれの心の内側にも、冷たい跡を残していくだろう。


 そして、そのすべてが、同じこの大広間で続いてゆく。


 清洲軍議は、まだ終わっていない。


 ただ、刃の戦いから、舌の戦いへと、その向きを変え始めただけであった。

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