3.雪色の布地に血色で描くお熊
関越のトンネルを抜けると、川端康成の雪国の冒頭と同様の体験ができる。朝焼けが真っ白な世界を照らす。まさに雪国だ。
上京する時、俺はこの白い牢獄から抜け出せたと思ったものだ。
これでも12月はまだ雪がない時期で、1月から2月にかけて俺の身長より高く雪が降る。
向うとは全く違う大きさの雪の粒がフロントガラスに積もり、重たそうにワイパーがどかしていく。
『――雪国独特の、こう、鉛色のどんより曇った空で。一生懸命歩いております、そのうち白いもんがチラチラと落ちてきて……』
車のオーディオは金原亭馬生の低い声で、『鰍沢』が流れていた。古いテープからMDに録音したもので、時折雑音が入る。
越後湯沢のインターを降り、両脇にに雪が積もって狭くなった道路を進めていく。雪の日の朝は、妙に明るくて運転がしやすい。
俺は凍りついた田園風景の中の一点を見つめる。雪に埋もれた一軒家。母の住んでいる友禅染の工房を兼ねた、古い木造の平屋。屋根に雪が厚く積もり、煙突だけが黒く突き出ている。
「リョータロー、ここ、ドコ……?」
「うん、俺の実家。うちのかーちゃん少し変わり者だけど、気にしないで」
ドアを開けると、染料と糊の匂いがした。母は作業着の上に古びたどてらを羽織り、ピンと張った布地に向かっていた。白いものが混ざった髪を無造作に束ね、顔に青い染料が跳ねてる。変わり者のうちの母は俺が帰ってきたことなど眼中になく、布地に向かって筆を動かしたままだった。
「ああ遼太郎か?―――私は今、締め切りで忙しやんだ」
「見たらわかるよ。ちょっと友達連れてきたけど、気にしないで。しばらく、勝手にやるから」
「……食べるモンなら冷蔵庫にあるっけん、勝手に温めて食えやれ」
久しぶりの対面なのに、親子らしい挨拶など一切なし。俺は苦笑いしながら、景とマリアを居間へ通した。
居間には友禅の反物が山積みで、部屋を狭くしている。壁側には友禅の柄が見えるように着物が衣紋掛にかけられている――雪の中の椿、振り返る女の目線。白地に鮮やかな色彩の妙齢の美女は、まるで落語『鰍沢』の主役お熊に見える。
「あ、のっぺがあるじゃん、これ食べよー」
俺は台所で冷蔵庫を漁って、食べれそうなものをこたつに運ぶ。そのこたつに、景やマリアが所在なさげに並んでいる。
昭和レトロな室内が似合わないふたりに、さらに似合わない田舎料理を出す。少し変な感じだ。
味の染みた煮物を3人で頬張るっていると、マリアが着物の方を振り向きながら俺に尋ねる。
「ね、リョータロー、あれ?キモノ?? 綺麗ネ!」
「友禅染って言うんだ。うちの母は友禅職人なんだよね。職人っていうと聞こえがいいけど……ここらじゃ冬に出来る内職なんて、これくらいしかないから」
「でも、ホント、綺麗ヨ! マリアもいつか、着てみたいネ!」
「そうやな。マリアにも似合いそうやね」
マリアに向かって微笑む景をみて、兄妹みたいだなと思った。
だから、妹みたいなマリアをあまり巻き込みたくないと俺は感じていたんだ。おそらく景もそう思っていたと思う。
だからマリアがいない隙を見て、俺は景にだけにそれを見せた。交代でお風呂に入り、マリアにゆっくり浸かるよう伝えてから、景に向き合う。
ここに来て、落ち着いてから気がついた事実。
外は吹雪で、窓ガラスがカタカタと震えていた。
「―――なあ、景。自分のトートバッグを持ってきたつもりだったんだけど、これ……」
俺は黒いトートバッグから、ズシッと重さのある木の箱に入ったモノを取り出す。よく似たトートバッグだったが、俺のモノではない。間違えて持ってきてしまったらしい。
「これは……前に運んだことがある。新型のヤツや―――あぁ、それでパーキングの追っ手、か」
「あの時に慌てて持ってきちゃったけど……。もしかして、ただの目撃者として追われてるんじゃないかんじ?」
「……これな、某国組織の試作品や。消音器付きの新型、北海道の密輸ルートでテストするはずのヤツ。木製グリップで凍傷防止、連射時の凍結防止バレルカバー付き。山本さんがハブで、偽装結婚の金で買うんや。俺らは目撃者じゃなくて、『泥棒』扱いや。あー、夢であって欲しいわ……」
「落語の『芝浜』かよ。夢の金じゃなく、こんな悪夢の荷物持ち帰ってしまった……すまん。」
「持ってきちゃったもんはしゃーないけど……。こりゃ、結構、不味いね」
景はヒゲの伸びたあごをさすりながら、少し思案する。灯油ストーブの上のやかんの音が響く。雪の日の夜は音が少ない。
「いや、待てよ……。ちょっと、この銃………気の所為かもしれないが、普通じゃないかもしれへん………」
「普通じゃないって、なに?」
「前見たのと、なんかちゃうねん。ああ~……そやな、とりあえず、男鹿だな。俺が唯一知ってる、山本さんの信頼する人―――銃に詳しい人がおんねん」
「男鹿……秋田、か。早いほうがいいよな。明日の朝には出よう」
しんしんと雪の降り積もる夜中。
小さな一軒家ゆえ、三人は俺の過ごしていた部屋にいた。狭い部屋に布団をぎゅうぎゅうに敷き詰めただけの部屋だが、疲れていた俺たちはすっかり寝入っていた。
突然、真っ暗な部屋の襖が開き、母が作業着のまま部屋に入ってきた。
「……冬眠しないクマがいるかもしれん」
低い、染料でかすれた声。雪風で窓ガラスが揺れる音に紛れそうなくらい、小さな声だった。
「さっき庭を見たら、雪の中に足跡があった。あそこに黒い影も見える。きっと、人を殺そうとする、クマだ」
「……クマ?」
「危ないから、ここから出なさい。クマは一度嗅ぎつけたら、絶対に追ってくる」
俺たちは凍りついた。布団から起き上がり、3人で目を合わせる。
その瞬間――外で、雪を踏む音がした。
景が無言で立ち上がる。景は母の横をとおりすぎ、廊下から外のサッシを開くと裸足のまま庭に降りる。その手には逆手に持ったナイフが鈍く光っていた。
雪が舞い込む。重たくて大きな雪の粒が、ひんやりした廊下に積もる。
雪明りに人の形をした黒い影がみえた。もちろんクマではない。顔は見えないが、拳銃を構えているようにみえる。おそらく追っ手だ。
俺はマリアと母を庇うように立ち上がった。
「あれ、――クマか?」
「私はよくわからねえが、たぶんあれは、人を喰うクマらろ?」
マリアの問いに、母は振り返りもしないで答える。
雪と影しかない世界は、まるでモノクロの映画のようだった。ざくり、ざくり、と雪を踏みしめる音だけが耳に残る。
次の瞬間、雪が赤く染まった。
なんの音もしなかった。しんしんと降る雪は、音もすべて飲み込むようだ。
景が戻ってきたとき、震える手から血が滴っていた。穏やかな表情をしている。
「クマは、もう冬眠したみたいやで」
母はようやく顔を上げた。
俺は母を見る。帰省してから初めてまともに顔を見合わせた。目が少しだけ笑っているような気がした。きっと、いろいろ感づいているんだ。勘のいい人だから。
「そう。なら、朝までには雪で隠れるろ。……お前たちは逃げな。クマは一匹じゃないかもしらんし」
「母さん……」
「遼太郎、さあ、行きなさい。私は仕事の続きをしなきゃならねやんだ」
手早く身支度を整え、三人は雪の中へ飛び出す。ハイエースに乗り込む直前、俺は振り返った。
母の部屋だけ、明かりが漏れていた。おそらく一心に筆を走らせているのだろう。染め上がった布には、真っ赤な血の色ではなく、雪よりも白く、しかし確かに「生の色」が滲んでいるはずだ。
エンジンをかけながら、オーディオはMDを再生させる。馬生の声が、最後のサゲを語る。
『――婆さんは言った。「お前さん、運が良かったな」……』
雪が激しくなり、ハイエースは北へ、北へ。後ろで、母の家が小さくなって闇に飲まれていく。
ヘッドライトだけが明るく雪道をてらす。
「……運が良かったのか、悪かったのか、わかんねえな」
「でも、生きてるやろ。それが一番や」
景の穏やかな声に、マリアが小さく頷く。
雪は降り続き、三人の足跡を、血の跡を、すべて覆い隠していった――。




