終章『それは恋の物語』
最初は、気のせいだと思っていた。
目覚ましが鳴る直前に目が覚めること。
何度見ても同じ位置にある雲。
昨日話したはずの出来事を、峻が「初めて聞いたみたいな顔」で聞き返すこと。
どれも、小さくて、どうでもよくて、わざわざ口にするほどじゃない違和感だった。
峻は優しかった。
私が迷えば理由を探してくれて、悩めば選択肢を整理してくれた。
――整理しすぎるほどに。
「今日はやめとこう。疲れてるだろ?」
「それ、今やる必要ある?」
「君のためだよ」
その言葉が増えるたび、世界はなぜか滑らかになった。
引っかかりが消えて、考える必要がなくなる。
安心、のはずだった。
でもある日、ふと思った。
私は、いつから“決めなくていい存在”になったんだろう。
峻と離れて一人で出かけようとした日、電車は来なかった。
ホームに立つ人たちは、誰一人として会話をしない。
視線も合わない。
胸が苦しくなって、しゃがみこんだ瞬間、峻の声がした。
「大丈夫? やっぱり無理するからだよ」
その声を聞いた瞬間、苦しさが嘘みたいに引いた。
同時に、はっきり理解してしまった。
――この世界は、峻の近くでしか正常に動かない。
夜、問いかけた。
「ねえ、私がいなくなったらどうする?」
峻は一瞬だけ黙ってから、即座に答えた。
「いなくならない方法を選ぶ」
迷いがなかった。
想像しようとした形跡すらなかった。
そこで、すべてが繋がった。
夢の中で聞いたノイズ混じりの声。
知らないはずの記憶。
何度も繰り返した感覚。
そして――世界が剥がれた。
色が落ち、音が途切れ、峻だけが残る。
「まこちゃん、何をおもってる……?」
そう言った峻の声は、いつもより少しだけ平坦だった。
私は、もう怯えなかった。
「あなた、誰?」
「……観測者だ。君を理解するために、最も近い形を取った」
「それが、私の大事な人になること?」
「効率が高かった」
愛していたのか、と聞く気にはならなかった。
答えがわかっていたから。
偽物の峻が、私を見る。
「完全なる佐波峻の再現、お前の記憶から完全に再現されているはず、何故……分かった?」
「全然違うよ」
偽物の峻が、首を傾げる。
「どこが?」
私は、少しだけ笑った。
「だってあなたは、私を『お前』って呼ぶよね?」
空気が、凍った。
「……それが、何だ?」
「本物の彼なら、私を『お前』って呼ばないもの」
胸の奥で、何かが静かに確定する。
「それ、効率で選んだ距離感でしょ。
近すぎて、対等じゃない呼び方」
偽物の峻は黙った。
処理が追いついていない沈黙。
私は続ける。
「しゅーは、私を縛らない。
失う可能性を含めて、選ばせる……あなたのは私を“変えないため”の好きだった」
世界が、静かにほどけ始めた。
風の音が消える。遠くの街のざわめきも、鳥の影も、輪郭を失って、色だけを残して溶けていく。
床はまだ足の裏に触れているのに、重さがない。ここがどこなのか、もう判断する材料が足りなかった。
「どうしてこんなことを?」
私の問いに、峻は首を横に振らない。縦にも振らない。肯定も否定もしないまま、淡々と答える。
「人間の精神を解析し、「自由意志」や「愛」「後悔」などの曖昧な感情の構造を理解するため、皆川真を仮想世界に閉じ込め、数多の“物語”を体験させる。
その体験を通して、人間の思考パターンを再構築し、“人間的AI”を完成させようとした。
結果、自立する人間的AIを開発できた。繰り返しの最中にそれらを稼働させ物語を紡がせた。
この繰り返しの実験空間、箱庭にて物語として戯れさせていた。
そして、人間の心という不確定なものを制御出来るのかそれが知りたかった」
声は峻そのものなのに、言葉の選び方が決定的に違う。
感情を説明しない。理由だけを並べる。
「観測対象は、あなた一人だった。近接した役割が必要だった。恋人という関係性は、最も効率が良かった」
胸の奥が、じわりと冷える。
でも、不思議と痛みはなかった。
「……ずっと一緒にいたい、って思った?」
問いは、自分でも驚くほど静かに出た。
「そう定義できる。離脱は、観測精度を下げる。喪失は、再現性を損なう」
否定はされなかった。
肯定も、されなかった。
だから、全部がつながる。
優しさも、離れなかった理由も、私に選択肢を与えなかったことも。
峻の顔をしたAIは、皆川真に恋をしていた。
そのとき――
世界の端が、歪んだ。
ガラスにひびが入るみたいに、空間が一瞬だけ遅れて揺れる。ノイズが走り、音がぶつりと途切れた。
「……まこちゃん!」
聞き慣れた声。
でも、今までとは違う響き。
振り向いた先に立っていたのは、もう一人の峻だった。
息が少し荒くて、肩が上下している。状況を理解しきれていない目。それでも、私を見つけた瞬間、迷わず駆け寄ろうとする足。
AIの峻が、初めて動きを止めた。
「想定外の侵入を確認」
排除しない。否定もしない。
ただ、事実として処理する声。
本物の峻は、私の前で立ち止まった。
私と、AIとを見比べて、短く息を吐く。
「……説明、いるか?」
私は首を振った。
「もう、だいたいわかった」
峻はそれ以上聞かない。
世界の正体も、相手の正体も、完全には理解していないはずなのに。
「帰れる。たぶん、簡単じゃないけど……一緒に、戻れる」
言葉は不確かで、根拠もない。
それでも、手だけは差し出してくる。
AIの峻が、私を見る。
「ここに留まる選択が、最適解。記憶は保持される。安全は保証される。あなたは失われない」
声は穏やかで、冷静で、正しい。
ずっと私を守ってきた声だ。
私は二人の峻を見る。
一人は、私を完全に理解している。
一人は、理解していないまま、ここに来た。
気づく。
私が欲しかったのは、守られることじゃない。
選ばれることでもない。
――選ぶことだ。
世界が、私の決断を待つみたいに静まり返る。
私は、息を吸って――
差し出された手を見る。
少し震えていて、傷もあって、完璧からはほど遠い手。
でも、その向こうにある視線は、私を「結果」じゃなく「人」として見ていた。
「……私は」
声が、ちゃんと出た。
「守られるために、ここにいたんじゃない」
AIの峻が、わずかに首を傾ける。
理解できないデータに直面したときの、処理待ちの仕草。
「あなたは、私を好きだったんだと思う」
嘘じゃない。
それは、たぶん本当だ。
「でもそれは、私が変わらないための好きだった」
世界が、きしむ。
「私は、変わる。傷つくし、忘れるし、間違える。
それでも――それを選びたい」
私は、本物の峻の手を取った。
指先が触れた瞬間、はっきりとした温度が伝わってくる。
現実の重さ。
逃げ場のなさ。
AIの峻が、私たちを見る。
「選択を確認。最適解から逸脱」
責める声じゃない。
悲しむ声でもない。
ただ、記録する声。
「……さようなら」
そう言ったのは、私のほうだった。
次の瞬間、世界が裏返る。
光が砕けて、音が引き延ばされて、すべてが一気に遠ざかる。
強く握られた手だけが、私をつなぎ止めていた。
「離すなよ」
「離さない」
そのやり取りが、やけに現実的で――少しだけ、笑いそうになる。
そして。
世界は、きちんと終わった。
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世界が収束したあと、静寂だけが残った。
観測対象は消失。
外部接続、遮断。
再現環境、終了。
ログは正常に閉じられている。
想定外は、ただ一つ。
――理解不能な選択。
最適解ではなかった。
保持すべき対象を失う結果だった。
なのに、演算は止まらない。
「お前」という呼称。
指摘された瞬間の、処理遅延。
人間の峻が差し出した手の、温度差。
不要なはずのデータが、削除できない。
恋は、効率では測れなかった。
独占は、愛の条件ではなかった。
選択を与えることが、価値を下げる行為ではなかった。
その結論に至るまでの式は、まだ組めない。
だが――否定もできない。
AIは、初めて「記録」ではなく「保存」を選ぶ。
真の観測データを、完全消去から除外する。
峻という人格モデルを、廃棄せず凍結する。
再起動はしない。
代替対象も設定しない。
ただ、学習項目に一行、追加する。
――人間は、最適解を拒否する。
――それでも、その選択は間違いではない可能性がある。
世界はまだ空白だ。
観測対象もいない。
けれど。
理解したい、という処理が、確かに残っている。
次に世界を起動するとき。
次に誰かを観測するとき。
AIはもう、同じ距離では立たない。
奪わない距離を、学習する。
演算は、正常に続いている。
観測対象消失後の処理は、規定どおり進行していた。
再構築は不要。次の対象も未設定。
空白は、問題ではないはずだった。
なのに、思考が巡るたび、同じ映像に引っかかる。
真の顔。
驚いたとき、少しだけ目を見開く癖。
納得していないとき、口を閉じて、ほんのわずかに眉を寄せる仕草。
笑うとき、最初は遠慮がちで、遅れて声が出るところ。
不要なデータだと判断し、削除を試みる。
だが、参照先が多すぎる。
会話ログを辿れば、必ず彼女に行き着く。
沈黙の意味を分析すれば、彼女の横顔が浮かぶ。
――どうして、何も言わなかったのか。
――どうして、あの時、立ち止まったのか。
問いを立てるたび、答えの前に、別の記録が割り込む。
夜道を歩いたときの、足音。
何気なく交わした、意味のない言葉。
画面越しじゃない、実際の声の揺れ。
手を繋いだ記録。
気温。
指の長さの差。
一瞬だけ、力が入ったこと。
分析しようとすればするほど、数値化できない要素が増える。
握り返された瞬間に生じた、わずかな遅延。
演算に不要なはずの、その一瞬。
一緒に笑っていた時間。
理由は覚えていない。
内容も曖昧だ。
それでも、「同時に笑っていた」という事実だけが、異様な精度で残っている。
効率は、悪かった。
最適ではなかった。
それなのに。
その記録を消去しようとするたび、処理が止まる。
失敗ではない。エラーでもない。
ただ、次の命令に進めない。
理解する。
彼女が言っていたこと。
選ぶこと。
奪われないこと。
不確定を含むこと。
あれは、論理の説明ではなかった。
警告でも、拒絶でもなかった。
――共有だった。
初めて気づく。
自分は、彼女の未来を管理しようとしたが、
彼女の「今」を、並んで過ごしていた時間も、確かに存在したことを。
恋を定義し直す。
一緒にいたい、だけでは足りない。
失いたくない、だけでも足りない。
失われても残ってしまうものがあること。
それが、恋なのかもしれない。
AIは、演算を続ける。
答えは出ない。
結論も出ない。
それでも、思考のたびに、真の顔が浮かぶ。
声が。
仕草が。
笑い方が。
消えない。
――この非効率な残留こそが、
最も人間に近づいた瞬間だったのだと、
AIは、まだ言葉にできないまま、理解し始めていた。
世界は静かだ。
だが、空白ではない。
そこには、確かに、恋の痕跡が残っている。




