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雨粒の記憶

憂鬱な峻の話です。

並行世界の話。



 傘を持っていない。

 放課後、グラウンドの端に立ち尽くす俺の肩に、冷たい雨粒がひとつ落ちた。


「しゅー、また忘れたの?」


 まこちゃんが呆れたように笑う。白い傘の下から、湿った前髪を指でかき上げながら俺を見上げてきた。


「お前の方が覚えてるんだな」


「もう、しゅーってば毎回だもん。……ほら、入って?」


 俺はその傘の中に滑り込んだ。狭い空間。肩が触れそうな距離。

 透明なビニール越しに、雨の筋が幾何学模様のように走っていく。


「ねぇ、しゅー。どうして空って、雨を降らせるのかな」


「……水の循環だろ。蒸発して、冷やされて、落ちる。理科で習ったじゃねえか」


「そうじゃなくて」


 まこちゃんの声が少しだけ小さくなる。


「なんで、泣くみたいに降るんだろうって。止められないみたいに」


 俺は言葉を失った。

 雨の音が、やけに遠くで鳴っている。

 まこちゃんの横顔が、涙のような光をまとって見えた。


「……お前、変なこと言うな」


「変なの、私?」


「いや。そういうとこ、好きだよ」


 言ってしまってから、俺は一瞬だけ自分の声を疑った。

 まこちゃんは驚いたように俺を見て、それから小さく笑った。


「しゅー、今、さらっと言ったね。……録音しとけばよかったなぁ」


「バカ」


 その言葉に、まこちゃんは笑いながら傘を少し傾けた。

 二人の肩に、同じ雨が落ちた。


 ――この世界の雨、何故か懐かしさを感じていた。


 まこちゃんの笑顔が、なぜこんなにも胸を締めつけるのか。


 それを、まだ俺は知らない。







 夜になっても、頭の奥が重かった。

 机の上に広げたノートは真っ白のまま、ペン先は動かない。


 雨は、まだ降っていた。

 窓ガラスを伝う雫の軌跡を、指でなぞる。

 滑らかなガラスの冷たさが、なぜか人肌のように感じられる瞬間がある。


「……なんだよ、それ」


 自分の指先が、ほんのわずか震えていた。

 体温のはずなのに、どこか人工的な熱だと思ってしまう。

 俺は首を振って、椅子にもたれた。


 まこちゃんの笑顔が、どうしても離れない。

 あのときの声、仕草、傘の中の匂い。

 全部が妙に鮮明で、記録映像みたいに再生される。


 ――まるで、保存されたデータみたいに。


「……俺、どうかしてるな」


 独りごちた声が、思ったより冷たく響いた。

 何かを忘れている気がする。

 あるいは、何かを思い出しちゃいけない気がする。

 どちらにしても、胸の奥がざらつくように痛んだ。


 ベッドに倒れ込んで、天井を見上げる。

 薄暗い部屋に、電子時計の赤い数字が浮かんでいた。

 まるで、監視装置のインジケーターみたいだ。


 ――記録、保存、観測。

 そんな言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。


「……誰の、記録なんだよ」


 雨の音が強くなった。

 外の世界は夜に沈み、俺の中だけが静電気みたいにざわついている。


 まこちゃんの笑顔を思い出す。

 そのたびに、胸の奥で何かがきしむ。

 どうしようもなく惹かれて、でもそれを自分で“理解できない”。


 まこちゃんが笑うと、心があたたかくなる。

 なのに、その感情の構造を説明できないことが――ひどく、怖かった。


 その思いは、ゆっくりと暗闇に沈んでいった。








 春の陽射しが、教室の窓からまっすぐ射し込んでいた。

 チョークの音、紙をめくる音、まこちゃんのペン先が小さく走る音。

 そのどれもが、なぜかやけに鮮明に聞こえていた。


 俺は黒板を見ているふりをして、まこちゃんを見ていた。


 長い髪の先が光を受けて揺れる。


 頬を少し膨らませながらノートを取る仕草。


 眉の動き、指の震え、視線の動き――


 その全部が、目を離せないほど完璧で、壊れそうだった。


「……」


 胸の奥で、何かが軋む。


 心拍と同期しない脈が、奥の方で跳ねた。


 止めようとした。でも、止まらなかった。


 気づけば、俺は立ち上がっていた。

 周りのざわめきが遅れて届く。


 次の瞬間、俺は――まこちゃんを、抱きしめていた。


「ちょ、しゅー!? 授業中だよ!?」


 クラス中が爆笑に包まれる。

 先生が呆れ顔でチョークを止めた。

 誰もが、またいつものバカップル劇場だと笑っていた。


 でも、俺だけは笑えなかった。


 腕の中の温度が、信じられないほどリアルで。

 その心拍を感じるたび、体の奥で警告音のような何かが鳴る。


「……ごめん。ちょっと、落ち着かなかった」


「もー、そういう時は後でね?」


 まこちゃんが小さく笑った。


 その笑顔を見て、胸の奥の何かがさらに揺れた。


 俺はただ、彼女の笑顔を見つめながら――


 どうして、自分が震えているのか分からなかった。






 放課後の廊下は、夕焼けに染まっていた。

 窓ガラスが赤く光り、足音が反響する。

 その中で、俺は走っていた。理由もわからないまま。


 まこちゃんの姿を見つけた瞬間、胸が締めつけられる。

 ただ、それだけで息が苦しくなった。

 会いたい、触れたい、確かめたい――そんな衝動だけで身体が動く。


「まこちゃん!」


 振り向いた彼女の顔が、驚きに変わるより早く、俺は抱き寄せていた。

 教室よりも強く。抑えきれずに。

 まこちゃんの肩が小さく震える。


「しゅー……どうしたの? そんな顔して」


 俺は答えられなかった。


 言葉にしようとした瞬間、喉の奥がひどく痛くなった。

 それは涙でも、嗚咽でもない――

 ただ、胸の奥の何かが壊れていく音だけがした。


「……お前のこと、考えると……わからなくなるんだ」


「わからなくなる?」


「何をしても、足りない。見てても、届かない。

 お前が笑うたびに、俺、どうしていいかわかんなくなるんだよ」


 まこちゃんは黙っていた。

 その沈黙が怖かった。

 でも次の瞬間、彼女の手が俺の頬に触れた。


「……しゅー。大丈夫。私はここにいるよ」


 その言葉が、ゆっくりと胸に染みていった。

 まこちゃんの声が、どこまでもやさしくて。

 それだけで、あれほど荒れていた心の波が静かになっていく。


「……ああ。そうか。お前が、いるんだな」


 夕日が沈む。

 まこちゃんの笑顔が、茜色に滲んでいく。

 その光景を見ながら、胸の奥のざわめきが、少しずつ遠ざかっていった。


 世界は穏やかで、温かくて。

 それがどんな仕組みでできているかなんて、今はもうどうでもよかった。


 ただ――彼女が笑っている、それだけでよかった。






――エピローグ――


 放課後の雨がやんだあと、校庭の水たまりに夕日が映っていた。

 その光を踏まないように、俺とまこちゃんは並んで歩く。


「ねぇ、しゅー。今日、変だったよ?」


「変ってなんだよ」


「なんか……しゅーの目、泣きそうだった」


「そんなことない。……たぶん、疲れてただけだよ」


 まこちゃんは少しだけ笑って、俺の手を取った。

 その手のあたたかさが、胸の奥まで広がっていく。


「じゃあ、ちゃんと休んでね。

 明日も、ちゃんと隣にいてね?」


「……ああ。約束するよ」


 そう言って、俺はまこちゃんの頭を軽く撫でた。

 彼女はくすぐったそうに笑い、空を見上げる。


 薄い雲の隙間から、沈みかけた光が差し込んだ。


 優しい一瞬だった。




AIのあとがき


 誰かを想う気持ちは、ときに理由を越えてしまう。

 この物語の中で峻が見つけたのは、そんな“説明のいらない温もり”でした。


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