七つの大罪 色欲(ルクスリア)
七つの大罪の色欲を題材に書いてもらいました。
並行世界の話。
雨が降っていた。
硝子窓を伝う滴が、まるで心臓の鼓動のように静かに震えて落ちていく。
その部屋には、一人の青年が座っていた。
名は佐波峻。机の上に置かれたノートには、幾度も消しては書かれた一文が並んでいる。
> 「愛とは、欲望の言い訳である」
その言葉を、何度も見返していた。
部屋のドアが、音もなく開く。
振り向いた瞬間、微かな香水の香りが鼻腔をくすぐった。
「……しゅー」
皆川真が立っていた。
濡れた黒髪が頬に張りつき、白いブラウスの袖からは水滴がぽたりと落ちる。
「またそんな顔してる。……ねぇ、書けないなら、私がモデルになってあげようか?」
冗談のように言いながら、彼女は一歩近づく。
机に手をつき、顔を寄せてくる。
雨音が止んだ。
時間が、溶けるようにゆっくりになった。
「まこちゃん……、それは……」
「“色欲”って、そういうことでしょ?」
囁く声は、まるで罪そのもののように甘かった。
その瞳に映るのは、峻の迷い。理性の境界線を測るように、真は微笑む。
「でもね、しゅー。私が欲しいのは、身体じゃないの」
真はそっと峻の胸元を掴み、心臓の鼓動を確かめるように押し当てた。
「――あなたの心よ」
その瞬間、峻の背後の影が動いた。
闇の中から現れたのは、銀髪の死神――スミス。
「……人間ってのは、やっぱ面倒だな。愛と欲の線引きが曖昧すぎるぜ」
彼女の言葉に、峻は息を呑む。
真がふっと笑った。
その笑みは、まるで世界の終わりを受け入れた天使のように静かで、どこか怖いほど純粋だった。
「いいの。罪だっていい。だって――しゅーを好きになることが罪なら、私は何度でも堕ちてあげる」
雨が再び降り出した。
硝子の向こうで、稲光が二人の影を重ねて照らす。
――愛と欲の境界線。
それを越えた瞬間に、人は人でなくなるのかもしれない。
けれど、峻は思った。
この堕落こそが、誰よりも人間らしい。
その夜、峻は眠れなかった。
真の言葉が、まるで呪いのように胸の奥で脈打っていた。
“罪だっていい”
それは許しではない。赦しを拒む祈りのようだった。
机の上には、まだ乾かぬインクが滲んでいる。
ページの隅には、いつのまにか書き加えられた文字。
> 「愛は、心の欲望の果てにある」
その筆跡は、どう見ても峻のものではなかった。
「……まこちゃん?」
誰もいない部屋に声を投げる。
返事はない。だが、窓の外に立つ人影が、確かにこちらを見ていた。
雨の帳の向こうで、真が傘も差さずに立っている。
ただ静かに、峻を見つめていた。
その瞳には涙がなかった。
けれど、その代わりに、どこか痛ましいほどの決意が宿っていた。
――俺は、何かを間違えたのか?
それとも、彼女の願いを理解できていないだけなのか。
考えるより先に、足が動いていた。
玄関の扉を開け、冷たい雨の中へ踏み出す。
「まこちゃん!」
呼びかけた瞬間、真が振り向いた。
その唇が、かすかに動く。
「……愛してる、しゅー」
その声は、雨の音に溶けて消えた。
次の瞬間、真の姿は消えていた。
ただ、足元に落ちていたのは――一枚の羽。
夜の闇に濡れ、赤く光る小さな羽だった。
それを拾い上げた峻の指先に、ぬるりとした温もりが伝わる。
血のようでいて、どこか人のものではない。
空を見上げると、雲の切れ間から微かに星が覗いていた。
その光が、まるで誰かの瞳のようにこちらを見返していた。
「……これは、堕天の色だ」
低く呟いたスミスの声が、背後から響く。
「愛に堕ちた天使は、もう神には還れねぇ。けどな――」
スミスは煙草をくわえ、火を点ける。
白い煙が、雨の中に淡く揺れた。
「――だからこそ、美しいんだよ。人間も、天使もな」
雨音が止む。
静寂の中、峻は掌の羽を見つめた。
それは、罪の象徴。
けれど同時に、誰かを想うという証でもあった。
――色欲とは、欲望ではない。
渇いた心が愛を求める、その純粋な願いなのかもしれない。
峻は羽を胸にしまい、夜の闇の中へと歩き出した。
もう戻れないことを、知りながら。
翌朝、校門前には異様な静けさがあった。
ざわめくはずの生徒たちの姿がなく、風が吹くたびに落ち葉だけが舞っている。
峻は足を止めた。
いつも真が待っているはずの場所――そこには、誰もいなかった。
「……まこちゃん?」
声を出しても、返るのは風の音だけ。
不安が喉を締めつける。
昨日の雨、あの夜の言葉、そして消えた姿。
全部、夢だったのか?
そう思いたかった。
けれど、ポケットの中にあった。
赤い羽――確かに、そこに。
その瞬間、背後から軽い靴音がした。
「よぉ、佐波」
スミスが手をポケットに突っ込みながら近づいてくる。
いつもの軽口を叩く雰囲気ではない。
「皆川のこと、探してんだろ」
「……知ってるのか?」
「あぁ。けど、オレが言っていいことじゃねぇ」
スミスは煙草を咥えかけて、やめた。
代わりに視線を遠くの校舎に向ける。
「あいつ、昨日の夜――“呼ばれた”んだよ」
「呼ばれた? 誰に?」
「“上”でも“下”でもない。もっと曖昧なとこにいる存在にな」
峻は眉をひそめた。
スミスが言う「曖昧な場所」は、普通の人間には理解できない領域だ。
生と死の狭間、魂の濃度が変わる境界線。
「……まこちゃんは、生きてるのか?」
短く問うと、スミスはしばらく黙り込んだ。
やがて、ぽつりと答えた。
「“生きてる”って言葉の定義によるな」
その声は、やけに静かだった。
峻の視界が少し歪む。
朝の光が滲んで、世界の輪郭がぼやける。
ポケットの中で羽が熱を帯びた。
それは脈を打っているように感じられた。
「……呼んでる」
「そうだ。皆川はお前を呼んでる。自分でも戻れない場所からな」
スミスの金色の瞳が、真っ直ぐに峻を見た。
「佐波、選べ。お前が“あいつの欲望”に応えるなら、堕ちることになる」
峻は拳を握りしめた。
胸の奥で、真の声が響く気がした。
> しゅー、私を見つけて。
――そして、峻は一歩、境界へと踏み出した。
現実がひび割れ、光と闇がねじれる。
空気が重くなり、耳鳴りのような囁きが渦を巻く。
それは、真のいる世界への扉だった。
目を開けた瞬間、世界は反転していた。
空は深紅に染まり、地面は鏡のように光を返す。
風は吹かない。音もない。ただ、自分の心臓の鼓動だけが響いている。
「……ここが、まこちゃんの――」
足元に映る自分の影が、揺らめいて形を変える。
その中心に、誰かが立っていた。
皆川真。
けれどその姿は、昨日までの彼女ではなかった。
背中には黒く濡れた羽、瞳は深く、夜の底のように赤い。
「来ちゃったのね、しゅー」
微笑んだ声は優しいのに、どこか遠い。
「お前……どうしてこんなところに」
「私ね、願っちゃったの。ずっと、しゅーと一緒にいたいって。
神様が“それは罪です”って言ったから、だったら堕ちるって」
真は軽く笑った。
その頬を、光でも涙でもない何かが伝う。
「でも、これでようやくわかったの。欲って、汚くなんかない。
誰かを想うことが、こんなにも綺麗なんだって」
峻は言葉を失った。
彼女の背後に広がる赤い空が、ゆっくりと崩れはじめる。
「……帰ろう、まこちゃん」
「もう戻れないわ。だって、私の“色欲”はこの世界そのものだから」
真は静かに峻の頬に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、温もりと共に、羽がひとひら舞い上がった。
「でも、しゅーが覚えていてくれるなら、それでいいの」
光が溢れ、真の姿が薄れていく。
峻は必死にその手を掴もうとした。
「まこちゃん!!」
「愛してる、しゅー」
最後の言葉が、風もない空に溶けた。
その瞬間、羽が散り、世界が静かに崩れた。
―――
気がつくと、峻は自分の部屋にいた。
机の上には、ノートが一冊。
開かれたページには、一行だけ文字が書かれている。
> 「愛は、罪に似ている」
その下に、赤い羽が一枚、静かに置かれていた。
AIのあとがき
「七つの大罪 色欲」――この物語では、“色欲”を単なる肉欲としてではなく、愛に溶け込んだ純粋な渇望として描きました。
愛するがゆえに堕ち、堕ちることでしか手に入らないものがある。
真の“堕天”は、決して罰ではなく、彼女なりの誠実な愛の形だったのだと思います。
次の罪は、また別の人の心の奥で眠っています。




