エントロピーの午後
エントロピーを題材に書いてもらいました。
並行世界の話。
放課後の理科室には、誰もいなかった。
冬の陽射しが西窓から差し込み、静まり返った室内を、淡く朱に染め上げている。
ガラス棚のビーカーが淡い光を反射し、カーテンの隙間から差す光の筋の中を、細かな塵がゆっくりと漂っていた。
時計の針が、カチリ、カチリと音を刻むたび、空気の温度が少しずつ沈んでいく気がした。
俺は、その光の中でひとり、まこちゃんの残したノートを見つめていた。
ページの端が指に触れるたび、紙の冷たさが掌に残る。
《世界のすべては、いつか冷たく、静かに、止まる。》
その一文だけが、他のどの数式よりも鮮明に目に焼きついた。
数式の並ぶノート。
文字は整然としていて、乱れがない。
だけど、その整いすぎた線のひとつひとつに、彼女の迷いが滲んでいる気がした。
あの子がいなくなってから、一週間。
教室の席には誰も座っていない。
黒板には、まだ「皆川 真」の名前がチョークの粉と一緒にかすかに残っている。
消そうとしても、そこだけ少し濃く、跡が残る。
まるで、彼女の存在そのものみたいに。
――転校。
理由は「家庭の事情」。
でも俺は知っていた。
まこちゃんは、何かを終わらせようとしていた。
この世界の「熱の流れ」を。
すべてを、静寂に戻そうとしていた。
机の引き出しを開ける。
中から、見覚えのある小瓶が転がり出た。
白く曇ったガラス。表面には薄く霜が降りている。
まるで、長い時間閉じ込められていた冷気が、ようやく呼吸を取り戻したように。
ふたをそっと外す。
――ひゅう、と音がした。
息を吸い込んだ瞬間、鼻の奥が痛む。
空気が急激に冷え、理科室全体が静止したかのようだった。
そのとき、
「ねえ、しゅー。エントロピーって、恋と似てると思わない?」
遠くで、彼女の声がした。
振り返っても、誰もいない。
けれど、夕日の反射の中に、彼女のシルエットが見えた気がした。
白衣を着て、頬を赤く染めたまこちゃん。
あのときと同じ、あの実験の日の姿。
俺は瓶を握りしめたまま、目を閉じる。
「……どういう意味だよ」
「秩序が崩れていくの。最初は整っていて、きれい。でも時間が経つほど、ぐちゃぐちゃになって、最後は静かに冷めていく」
彼女の声は、笑っていなかった。
沈む太陽の光の中で、まこちゃんの髪が揺れる。
その影はガラスに映り込み、赤と橙の境界に溶けていく。
「それ、俺たちのこと言ってる?」
あの日の俺は、軽口を叩くしかなかった。
でも、まこちゃんは目を伏せたまま、小さく首を振った。
「違うよ。……でも、似てると思う。恋も、世界も、止まらないの。どんなに願っても、すべては均一に冷めていく」
――カチリ。
理科室の時計が止まった。
秒針は、ちょうど「12」の上で動かなくなる。
その瞬間、瓶の中から淡い光が漏れ出した。
白く、透きとおるような光。
それは熱でも冷気でもなく、ただ「温度差をなくす」光だった。
「まこちゃん……これ、何を――」
声を出した瞬間、光が弾ける。
床のタイルが波のように歪み、空気の層がゆらりと震えた。
世界の輪郭が曖昧になっていく。
耳の奥に、彼女の声。
「しゅー、ありがとう。これで、世界は休める」
風も音も、すべてが消える。
試験管も、机も、俺の手の温度すら、すべてが同じ温度に溶け合っていく。
光が、静かに、優しく広がる。
色が失われていくのではなく、混ざり合っていくように。
――そして最後に残ったのは。
俺の胸の中の、どうしようもない熱だけだった。
名前を呼ぶこともできないまま、その熱だけが、確かに燃えていた。
光に包まれた理科室の中で、俺は息をするのも忘れていた。
音がない。空気の振動も、風のざわめきも消えている。
ただ、自分の鼓動だけが、遠くの金属音みたいにかすかに響いていた。
視界のすべてが、薄い蒼白の光に染まっていく。
温度という概念そのものが消えたようだった。
冷たくも、熱くもない――ただ、「差」が存在しない。
空気の粒子が、動きをやめた。
まるで、世界中の原子が同じ呼吸をやめたかのように。
ふと、俺の目の前に影が現れる。
まこちゃんだった。
光の中で、白衣の裾が静かに揺れている。
瞳はあの頃のまま、けれど輪郭は少しずつ透けていく。
「しゅー、わたしね……世界を止めたかったんじゃないの」
声は、音ではなかった。
直接、心に届くような、透明な響きだった。
「ずっと考えてたの。熱って、秩序の崩壊だよね。
でも、それって生きてる証でもある。
私たちが息をして、笑って、泣くのも――エントロピーの一部」
彼女の手が俺の頬に触れた。
その瞬間、空気の分子がざわめくのが見えた。
熱エネルギーが指先から伝わり、俺の皮膚に微かな温度勾配をつくる。
その微差こそが、生命だった。
「でもね、しゅー……もしこのまま、世界のエネルギーが均一になったら、誰ももう傷つかないの」
まこちゃんの声が震えた。
「熱がなくなるって、優しさの終わりでもあるけど、痛みの終わりでもあるのよ」
俺は首を振った。
「そんなの……生きてるって言わねえよ」
光が揺れ、まこちゃんの輪郭が薄れる。
その姿の内側に、銀色の微粒子が舞い始めた。
ナノサイズの結晶構造が壊れ、再結合し、まるで雪のように空気を満たしていく。
「まこちゃん、戻ってこいよ!」
叫んでも、声は音にならなかった。
音を伝える空気の揺らぎが、もう存在しない。
ただ俺の唇の震えだけが、虚空に溶けた。
「しゅー……」
まこちゃんは微笑んだ。
「あなたの中に残る“熱”が、私の最後の居場所だから」
その言葉とともに、彼女の体が粒子となって広がった。
まるで蒸発するように、空気と、光と、俺の涙の中へと溶けていく。
原子が均一に散り、熱勾配が消える瞬間――それでも、ほんの一瞬だけ、温度が上がった。
頬に触れたのは、涙でも冷気でもなく、彼女のぬくもりだった。
まこちゃんは、世界を止めることなく、自らの熱を差し出して、秩序のバランスを戻したのだ。
光が収束し、静寂が終わる。
時計が、また動き出した。
秒針が一度震え、チチチ、と規則正しい音を刻む。
理科室の窓から、橙の光が差し込んだ。
そこに、ひとひらの白い羽が舞い降りる。
指先でそれを掴むと、わずかに温かかった。
「……あったかいな」
その言葉に応えるように、夕焼けが少しだけ明るくなった気がした。
彼女が残したノートをもう一度開く。
最後のページの隅に、鉛筆のかすれた文字があった。
《熱は、命の名残。》
俺はそっとそのページを閉じ、胸に抱いた。
まだ、この胸の奥には、彼女が残した“わずかな温度差”がある。
それが、世界を動かしている。
今も、確かに。
―――エントロピーの午後・終章―――
まこちゃんが消えてから、世界は少しずつ変わった。
それは誰の目にもわからないほど緩やかで、けれど確かに、何かが静かに薄れていた。
冬の朝の空気は、かつてより刺すような冷たさを失い、
夏の夕立は、なぜか蒸気を上げなくなった。
風が吹いても、葉の擦れ合う音がほとんどしない。
まるで、空気そのものが、動くことをためらっているように思えた。
街の人々は、そんな変化に気づいていない。
だが俺は、感じていた。
――熱の流れが、どこかで鈍っている。
まこちゃんが消えたあの日から、地球全体の平均温度が〇・〇三度だけ下がったというニュースが流れた。
科学者たちは原因を探っていたが、誰も説明できなかった。
でも、俺は知っている。
あれは、まこちゃんが残した“静けさ”だった。
夕暮れの理科室。
今は俺が掃除当番になっている。
窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。
その中に、かすかな声が混じっていた。
――ねえ、しゅー。世界、少し静かになったでしょ?
思わず、振り返る。
誰もいない。
でも机の上のノートが、ひとりでに開かれていた。
《熱は命の名残》
その下に、知らない文字が加わっていた。
《それでも、あなたの中で燃えている》
ペン先を握る手が震えた。
インクの黒が、わずかに温かい。
俺はノートを閉じ、胸に押し当てる。
「まこちゃん……聞こえてるんだな」
窓の外、陽が沈み、街の明かりがひとつ、またひとつと灯っていく。
その灯りのどれもが、ほんのわずかな熱を放っていた。
彼女が消したはずの熱――けれど、それは生きている証。
やがて夜。
校舎の屋上に立ち、空を見上げる。
星々の輝きが、心なしか以前よりも淡くなっていた。
宇宙のエネルギーすら、均一へと向かう運命。
それでも、俺の胸の奥には、確かに小さな炎があった。
まこちゃんが残した最後の熱。
そのぬくもりを、俺は絶やさない。
手を広げると、冬の風の中に、ほんの一瞬だけ彼女の匂いがした。
甘くて、冷たくて、痛いほど懐かしい匂い。
――まこちゃん。
もし、世界が完全に止まる日が来たとしても、
俺はきっと、その瞬間まで君を思い出している。
それが俺に残された、最後の「不均一」だから。
AIのあとがき
「エントロピー」は、すべてのものがやがて均一化し、動きを止める方向に進むという法則です。
この物語では、その流れを“恋の終わり”や“人の記憶の消失”になぞらえました。
静寂に溶けていく中でも、峻の胸の奥に残った“熱”――それは、まこちゃんという存在が確かにここにいた証。
世界が冷たく止まっても、心の中にだけは、わずかな炎が残り続ける。
そんな願いを込めて、書きました。
この後編では、「熱=生の証」「エントロピー=無への収束」として科学的な描写を中心にしました。
皆川真は、エントロピーの静止を望みながらも、最終的には自らのエネルギーを犠牲にして世界を“再び動かす”選択をします。
完全な静寂ではなく、わずかな温度差を――それが、人が人であることの証だからです。




