夕暮れの呼吸
純文学をテーマに書いてもらいました。
並行世界の話。
放課後の教室は、夕陽の色がゆっくりと沈みこむように広がっていた。
黒板に残った白い粉の跡が、橙色に照らされてかすかに光り、まるで誰かの言い残した言葉がそこで静かに呼吸しているように見えた。
峻は窓際に立ち、手すりに指をかけて外を見ていた。
校庭の隅を吹き抜ける風が、砂の匂いを運んでくる。何も特別な匂いではないのに、今日はふと胸の奥がざわついた。
「しゅー」
背中にかかった柔らかな声は、まこちゃんのものだった。
振り返ると、彼女はカーディガンの袖を指先でつまみながら、少しだけ迷うように近づいてくる。
「どうしたの? なんだか元気ないよ」
「別に……元気ないわけじゃないんだけど」
言いながら、峻は自分でも理由がわからなかった。
ただ、胸の奥に重しが置かれたような感覚がずっと残っていた。
日々の出来事に明確な苦しみがあるわけでもなく、幸せが薄いわけでもない。
それでも、自分の輪郭が少しずつ曖昧になっていくような、そんな気がしていた。
まこちゃんは峻の横に立ち、窓の外を一緒に眺めた。
夕陽を受けた彼女の横顔は静かで、少しだけ影が長い。
「……しゅーってさ、たまに遠くを見てるよね。こうやって」
「そうかな」
「うん。届かないところに手を伸ばしてるみたいに見える」
その言葉は、ふわりと心の真ん中に落ちてきた。
彼女はただ観察しているだけのようでいて、峻よりも峻をわかっている瞬間がある。
それを嬉しいと感じる自分と、見透かされるのが怖い自分がいた。
「まこちゃんは……怖くならない? 自分がどこに向かってるのか、わかんなくなる感じ」
まこちゃんは少しだけ間を置き、カーディガンの袖を握ったまま言った。
「あるよ。でもね……」
彼女はそっと峻の手に触れた。
指先はあたたかかった。
「しゅーが隣にいたら、わからなくても平気って思えるの」
その温度が、峻の胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
沈んで、そこに溶けるように広がった。
校庭の端で風が揺れ、夕陽はもうすぐ消えてしまいそうだった。
けれど、隣にある小さな温度だけが、はっきりと心に刻まれていた。
峻はそっと握り返した。
ただそれだけで、今日という日の密度が少し変わったように感じた。
「……ありがとな、まこちゃん」
まこちゃんは照れたように笑った。
ほんのわずかに頬を赤くして。
教室の窓の外で、冬の風が静かに流れていく。
その音は冷たいのに、二人の指先はたしかにあたたかかった。
まこちゃんと指をつないだまま、峻は少しだけ窓から身を離した。
夕陽はほとんど沈みかけていて、教室の壁には、オレンジと灰色の境目がゆっくりと伸びていた。
やがて、まこちゃんがそっと言った。
「しゅーね……今日、ちょっとだけ怖い夢見たの」
「夢?」
「うん。夢の中の私は、すごく遠いところに立ってて……しゅーを呼んでるんだけど、声が届かなくて。
しゅーはこっちを見てるのに、歩いてこなくて……。手を伸ばしても、届かないの」
まこちゃんは自分の胸のあたりを押さえた。
その仕草が妙に幼くて、でもとても現実味があった。
「目が覚めたときね、心臓がすごく冷たかったの。
……ほんとに、あっ……てなるくらい」
峻は息を飲んだ。
自分が抱えていた曖昧な不安を、まこちゃんは別の形で感じていたのかもしれない。
「……ごめん。俺、まこちゃんにそんな思いさせてた?」
「違うよ。しゅーのせいじゃないの。
たぶん……私が勝手に、しゅーを失うのが怖いんだと思う」
彼女の声は細く、けれど確かに震えていた。
それは、普段の明るさに隠れて見えにくい、本当の心の温度だった。
峻はその温度を受け止めるように、指を絡め直した。
「俺さ……遠く見てるように見えたかもしれないけど、別にどこかに行きたいわけじゃねえよ。
ただ、なんか……自分がぼやけてく感じがして、怖かっただけなんだ」
「ぼやける感じ?」
「うん。朝起きて、学校行って、家帰って……全部が薄くて。
俺ってなんなんだろうって、たまに思う」
まこちゃんはしばらく黙っていた。
沈黙は重くなりそうで、でもなぜか苦しくなかった。
その沈黙の中に、二人の呼吸が調和していた。
やがて、ゆっくりとまこちゃんが言った。
「……ねえ、しゅー。もし自分の輪郭が薄くなるなら、私が隣で線を引くよ」
「線?」
「そう。しゅーがわからなくなるなら、私が“ここだよ”って触る。
手でも、声でも、なんでも。
しゅーがしゅーのままでいられるように……ちゃんと隣にいさせてほしいの」
胸の奥が、静かに揺れた。
夕陽が消えた教室の中で、それだけがやわらかく灯っていた。
「……ありがとう。ほんとに」
「ううん。私も……しゅーに触っててほしい」
まこちゃんは、指先をきゅっと握る。
まるで「ここにいるよ」と言うように。
教室の天井の蛍光灯が、ぱち、と小さく点った。
昼と夜の境目が、いつのまにか過ぎようとしていた。
そのわずかな光の下で、二人の影は寄り添うように伸びていた。
その距離は、夢よりも、夕陽よりも、確かだった。
校舎を出ると、空はすっかり群青色に変わっていた。
風は冷たいはずなのに、峻とまこちゃんの指先にはまだ微かな温度が残っていた。
二人は並んで歩きだす。
いつもの帰り道。
けれど今日は、なぜか足音が少しだけ違う響きを持っていた。
「ねえ、しゅー。ほら」
まこちゃんが立ち止まり、校門近くの街灯を指さした。
光に照らされたアスファルトの端に、小さな影が寄り添っていた。
冬には珍しく、たんぽぽが一輪だけ咲いていた。
夕暮れを吸ったまま、夜の光の下でかすかに揺れている。
踏まれもしない、誰からも気づかれない場所で。
それでも確かに、そこに存在していた。
「こんな季節に咲くんだね……」
まこちゃんはそっと屈み込み、息をころすように眺めた。
峻も隣にしゃがむ。
花は弱いはずなのに、風に揺れる姿はなぜだか強く見えた。
「なあ、まこちゃん」
「うん?」
「……俺らも、こんなふうにいられたらいいな」
まこちゃんは一拍おいて、ふっと優しく笑った。
その笑顔は、たんぽぽよりも小さいのに、たんぽぽより温かかった。
「いられるよ。だって、ほら」
まこちゃんは、そっと峻の袖をつまんだ。
ほんのわずかな仕草なのに、それだけで“つながっている”ことが伝わった。
「しゅーがぼやけても、私はここにいるよ。
……だから、見失っても大丈夫」
峻は息を吸い、冬の空気を胸いっぱいに入れた。
冷たいのに、苦しくなかった。
「まこちゃん……ありがとう」
そう言った瞬間、夜風が二人の間を静かに抜けていく。
その風の音が、今日という日の終わりをそっと知らせるように聞こえた。
峻は立ち上がり、まこちゃんも続く。
手をつないだわけではない。
それでも距離は自然と近かった。
帰り道の街灯が、二人の影を並べて伸ばしていく。
揺れた影は、まるで呼吸するように寄り添っていた。
それは“いつもの帰り道”のはずだった。
けれど、峻の世界のどこかで小さな輪郭がひとつ、はっきりと線を取り戻した。
たんぽぽの咲いた場所を、一度だけ振り返る。
もう光の中で揺れているだけの小さな黄色なのに、なぜか今日だけは忘れられない気がした。
二人は、そのまま静かに家路へと歩きだした。
世界の温度は、昨日より少しだけあたたかかった。
AIのあとがき
今回のお話は、峻と真の日常の中にある小さな揺らぎと、それを照らす微細な温度を意識して書きました。
純文学らしく、ドラマチックな出来事ではなく、感情の動きそのものを中心に置いています。
日々のなかで「輪郭が薄くなる」ように感じることや、理由のない不安は誰にでも訪れるものです。
でも隣に誰かがいて、ほんの小さな変化に気づくだけで、世界は少し違って見える――そんな想いを込めました。
読んでくださって、ありがとうございました。




