黒い瞳の向こう側
首を絞める夢を見るホラーをお願いしました。
並行世界の話。
最初に、まこちゃんの顔が暗がりから浮かび上がった。
月の光も届かない真夜中。俺の部屋の空気は、なぜかいつもより冷たかった。布団の中で寝返りを打った瞬間、視界の端に白い影が立っていることに気付いた。
――まこちゃん?
呼ぼうとして、喉がひゅっと詰まる。
影がこちらへゆっくり屈み込んでくる。ぼんやりした光に照らされて、長い黒髪がさらりと落ち、彼女の大きな瞳が下から覗き込んだ。
その瞳は、普段のまこちゃんのものと同じ形なのに、なぜか深い井戸みたいに暗かった。
「……しゅー」
囁きはやけに湿っぽく、耳の奥でねっとり絡みつく。
そのまま、彼女の白い手が俺の首へ――すうっと伸びてくる。
力を入れているわけでもないのに、指先が触れた瞬間、氷を押し当てられたように肌が粟立った。
「どうして、逃げるの……?」
逃げる、もなにも俺は動けない。
金縛りのように身体が重く、呼吸だけが細く細く続いている。
指が首に絡む。
その瞬間――絞めつけてくる力は、まこちゃんの外見からは想像できないほど強かった。
息が、入らない。
喉がつぶれ、肺がひっくり返るように悲鳴を上げる。
まこちゃんの表情は笑っていた。泣きそうな笑顔。助けを求めているみたいなのに、俺を殺そうとしている笑顔だった。
「しゅー……ごめんね……たすけて……でも……やめられないの……」
わけがわからない。
彼女が助けを求めているのか、俺が助けを求めるべきなのか、それすら曖昧になる。
視界の端が白く濁った――その瞬間。
ガバッと俺は飛び起きた。
荒い息。汗がびっしょり。心臓が痛いくらい暴れている。
「……また、かよ……」
夢だとわかっている。
でも“夢の手”の感触だけは毎日、必ず残ったまま朝を迎える。
そして、もっと怖いのは――
朝、学校で会うまこちゃんが、
昨日と同じように「しゅー、おはよ」と笑うその目が、ほんの少しだけ赤く腫れていることだ。
まるで、眠れていないみたいに。
まるで――彼女も同じ夢を見ているみたいに。
その日の放課後、教室に残ってぼんやり机を見つめていると、横からそっと影が差した。
「……しゅー?」
まこちゃんだった。
いつも通りの声なのに、どことなく弱気で、少しだけ震えている。
「おはよ、じゃないか。……あ、ただの癖で言っちゃった。放課後だもんね」
作り笑い。わかる。
まこちゃんは嘘が下手だ。
「どうした? 寝不足か?」
俺がそう訊ねると、彼女は一瞬だけ目をそらした。
「……しゅーこそ。今朝すっごく顔色悪かったよ? ほんとに、すっごく」
心臓が少しだけ冷える。
まこちゃんは俺の悪夢を知らないはずだ。
でも、その言い方はまるで――俺がどんな夢を見ているか知ってるみたいで。
「いや、俺は――」
言いかけたところで、まこちゃんの指先が俺の手にそっと触れた。
冷えていた。普段、彼女はこんな冷たい体温じゃない。
「……しゅー、ちょっと来て」
手を引かれ、人気のない階段裏へ連れていかれた。
薄暗く、昼の熱気が消えた空気が漂っている。
「今日……変な夢、見たんだよね」
吐き出すようにまこちゃんが言う。
俺の喉がひゅ、と鳴る。
まさか。
「しゅーの……こう、首に……私が手を伸ばして……」
背筋が総毛立った。
俺が毎晩見るあの夢と、同じだ。
まこちゃんは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、怯えるように続ける。
「私、そんなことしたくないのに……夢の中の私はどうしても止まらなくて……怖くて……でもね」
ぽたり、と涙が落ちた。
「……目が覚めたらね、手が、痛かったの」
「痛い?」
「うん。しゅーの首、ぎゅってしたときの形で……なんか、筋肉痛みたいに」
呼吸が浅くなる。
夢の痕が“現実の身体”に残っている。
そして俺の首には毎朝、夢で絞められた跡みたいな赤い痕が薄くついていた。
ずっと自分が掻いたのかと思っていたが――違うのかもしれない。
「しゅー……私ね……」
まこちゃんはおそるおそる手を伸ばしてきた。
まるで、自分が触れてはいけないものに触れるみたいに。
「怖いの。
しゅーを見ると、胸がぎゅってして……大好きなのに……夢の私は、しゅーを殺したがってるみたいで。
ねえ、私……おかしいのかな……?」
やめてくれ。泣きそうな顔でそんなこと言わないでくれ。
俺のほうこそ頭がどうにかなりそうだ。
「……大丈夫だよ。まこちゃんは悪くない」
震える声で答えると、彼女は小さく息を呑んだ。
そして、ほっとしたように、でもどこか怯えるように微笑んだ。
その笑顔の奥で――
まこちゃんの瞳の底に、薄い“影”が揺れた。
昨日の夢で見た、あの暗い井戸のような色。
「……しゅー、今日……いっしょに帰ろ?」
やけに優しい声。
でも、その声の奥に、もうひとつ別の声が混じって聞こえた気がした。
(のがさないで)
耳の中で囁かれた。
俺は思わず振り返ったが、誰もいない。
なのに、まこちゃんだけが――まるでその“声”を理解しているように小さく笑っていた。
下校途中。夕日が濁った赤色で町を染めていた。
まこちゃんは俺の横を歩きながら、ずっと手をつないだままだった。
指は細くて柔らかい。けれど、何度かぎゅっと握り込まれるたびに、妙な力強さが混じっているのがわかる。
まるで、俺を逃さないように――そんな強さ。
「しゅー、今日ね……変なの。ずっと胸の奥で“うずうず”するの」
「具合悪いのか?」
「違うよ。なんていうのかな……たとえばね」
まこちゃんはゆっくり俺の方へ顔を向けた。
「“しゅーの首に触れたくてたまらない”っていう感じ」
俺は言葉をなくした。
「冗談じゃない、本気だよ?」
夕日がちょうど彼女の横顔を照らす。
その光の中で、まこちゃんの右目だけが――一瞬、黒く染まった気がした。
瞳孔が、異様に大きく、深く。
「……まこちゃん、目が……」
「え?」
彼女は首をかしげる。その一瞬、瞳は普段の優しい色に戻っていた。
「どうしたの、しゅー?」
「いや……なんでも」
言えなかった。
“見間違い”のはずなのに、背中が汗でじっとり濡れる。
そのとき――
まこちゃんの握る手に、ぐっと強い力が入った。
「しゅー、ねえ。聞こえる?」
「なにが?」
「さっきから、ずっと。声……」
俺は足を止めた。
声?
まこちゃんにも聞こえてるのか。あの階段裏で感じた、耳の奥を撫でるような囁き。
「どんな声なんだ?」
まこちゃんは小さく震え、喉をひくりと鳴らした。
そして――まるで“自分ではない誰か”の声色で囁いた。
「“返して”って」
空気が凍った。
俺は息を吸うのも忘れた。
まこちゃんの表情は彼女のままなのに、声だけが低く湿っている。
「……誰の声なんだ?」
「わかんないよ……わかんないけど……」
まこちゃんは胸を押さえ、苦しそうに蹲る。
「ここにいるの……やだ……っ、やめて……! 入ってこないで……!」
その叫びは“中へ向けた”叫びだった。
俺に向かってじゃない。
まこちゃん自身の――奥の奥にいる何かに向かって。
「まこちゃん!」
俺が肩を支えると、彼女の身体が一瞬びくりと跳ねた。
そして、すう、と顔を上げる。
さっきまで泣きそうだった瞳が、真っ黒に染まっていた。
瞳孔ではない。黒目全体が、濃い墨のように塗りつぶされている。
「……しゅー」
その声は、まこちゃんの声でありながら、底に別の何かの濁った響きがあった。
「返してくれないの?」
返す?
何を――?
俺の背筋を、氷の爪がなぞる。
「ねえ、どうして“私のもの”を奪ったままなの?」
笑った。
まこちゃんの口が、ふわりと。
その笑みが、泣き顔よりもずっと恐ろしく見えた。
「しゅー。あなたは覚えてないんだね。
でも――私はずっと、ここにいたよ」
“まこちゃん”の声が、二重に重なった。
一つは、俺の知っている優しい声。
もう一つは、井戸底から響くような声だった。
その二つが重なって漏れる。
「私を置いていかないでね?」
次の瞬間、黒い瞳に映る俺の姿が、ゆがんで揺れた。
まこちゃんの中に、間違いなく――別の“誰か”がいる。
黒い瞳のまこちゃんが、じっと俺を見つめていた。
その目は、彼女のものなのに――もう半分くらい別人だった。
ゆっくり、まこちゃんの口が動く。
「……しゅー。ねえ、どっちが“本物”だと思う?」
その声は二重に響き、言葉の終わりが水の底へ沈んでいくように揺れていた。
「まこちゃん……?」
「ううん。違うでしょ?」
黒い瞳がぐっと近づく。
俺は一歩後ずさろうとするが、足が動かない。
影が足首に絡みついているような感覚がした。
「この身体、ね……あの子のものなんだけど」
“あの子”。
まこちゃん自身のことを、まるで他人のように。
「……借りてたの。ずっと前から。気づかなかったんだね? しゅー」
黒い瞳が嬉しそうに細められた。
「でも、もう“借りてる”だけじゃ足りないの。
本当に必要なのは――」
胸が、ぎゅっと掴まれたように苦しい。
「――完全に、もらうこと」
その瞬間、まこちゃんの腕が妙に不自然な角度でこちらに伸びてきた。
関節が誰かに外から動かされているようなぎこちなさ。
そして――彼女の肩の辺りが、ゆっくりと“沈んだ”。
皮膚が、内側から押し出されるように歪み、
まるで違う誰かの指が、まこちゃんの身体を“内側から触っている”ように。
「っ……まこちゃん!?」
俺が触れようとした瞬間、彼女の身体がビクッと跳ねた。
そして――
「やだ……っ、やめて……! 返してよ……返して……!」
突然、まこちゃんの“本来の声”が戻った。
瞳の黒はまだ残ったままなのに、その奥で彼女が必死に泣いているのがわかる。
「しゅー……こわいよ……! たすけて……身体が、勝手に……!
手も、足も……私じゃない……!」
まこちゃんの指が、自分の喉へゆっくり触れ始める。
「やめろ!!」
俺は慌てて手を掴んだ。
だけど、掴んだ瞬間――
まこちゃんの腕の力が異常に強い。
細い腕とは思えない、骨が軋むほどの握力。
俺の手首が逆にねじられた。
「ごめんね、しゅー」
黒い声が、まこちゃんの口を通して囁いた。
「この身体、あなたが好きだったでしょう?
だから、ちゃんと手に入れてあげる。
ずっと一緒にいられるように」
「やめろ……っ」
まこちゃんの顔は泣きながら、しかし口元だけが無理に笑わされている。
「大丈夫……痛くしないよ。
だって――」
まこちゃんの首が、ぐらりと横に傾いた。
人形のように。
「――この子はもう、“半分こっち側”なんだから」
その言葉と同時に、まこちゃんの背中がぶるりと震え、
まるで見えない何かが中へ潜りこむように――身体の線がぐにゃりと歪んだ。
骨の位置が、少しずつ、ずれていく音がした。
「しゅー……っ……いや……いやぁ……!」
まこちゃんの声が遠くなる。
まるで、水の中に沈んでいくみたいに。
「――静かにしてて。」
黒い声が彼女の口を奪うと、
まこちゃんの身体は、ぴたりと動きを止めた。
そして、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
「ほら。もう、ほとんど私でしょう?」
その表情は、まこちゃんに似ているのに――
“動かし方”が完全に別人だった。
まこちゃんが“内側で消えていく”のがわかる。
黒い“何か”にほとんど奪われたまこちゃんは、俺をじっと見つめ続けていた。
「ねえ、しゅー。
この身体、あなたが守りたいんでしょ?」
その声は甘く優しいのに、完全に別人の声色だった。
「返せ……まこちゃんを返せ……!」
俺が叫ぶと、まこちゃんの口が小さく笑う。
「だったら、取り返してみれば?
だけど“あの子”、今はすごく奥に沈んでる。
呼んでも戻ってこないよ。」
そう言った瞬間――
まこちゃんの胸元が、まるで中から叩かれるように震えた。
「……っ! やめて……!」
微かに、まこちゃん本人の声が聞こえた。
「聞こえるんだ……まだ残ってるじゃない」
黒い“何か”は楽しそうに体を歪ませた。
関節の動きが人間のものじゃない。
「しゅー……たすけ……て……」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが切れた。
俺は、まこちゃんの両肩を掴んで叫んだ。
「――戻ってこい!!
まこちゃんは、俺が……守るって決めたんだ!!」
その瞬間、まこちゃんの黒い瞳がぎょっと揺れた。
背中が大きく跳ね、身体の奥から低い悲鳴が漏れる。
「やめなさい。
呼ばないで……引っ張らないで……!
“私の場所”なんだから!」
黒い声が叫ぶ一方で、まこちゃん本人の声が震える。
「しゅー……こわい……でも……聞こえるよ……
しゅーの声……ちゃんと……聞こえてる……」
「戻れ! ここに――!」
俺は彼女を抱きしめた。
黒いものがまこちゃんを歪ませ、押し潰そうとしている。
だけど腕を離さなかった。
温度が奪われていく。
腕の中のまこちゃんが、ひどく冷たい。
「離せ!!」
黒い声がまこちゃんの喉を通して唸る。
「しゅー……もっと……ぎゅっと……
……つないで……」
かすれるまこちゃんの声。
それだけで十分だった。
俺は、全力で抱きしめた。
その瞬間――
胸の中で、パリン、と何かが割れる音がした。
黒い影が、まこちゃんの身体から一気に抜けた。
影は夕日を背に細かく崩れ、砂のように消えていく。
最後に残った黒い“目”だけが、じっと俺を睨んだ。
「……返してもらうよ。
これは……“まだ”…終わらない。」
目はすうっと消滅し、夕焼けに溶けていった。
まこちゃんは俺の腕の中でふわりと崩れ落ちた。
「……しゅー……」
瞳はもう黒くない。
いつもの、優しいまこちゃんだった。
そして、小さく微笑んだ。
「……ただいま。」
俺はただ、強く彼女を抱きしめた。
こうして――
“まこちゃんの身体を奪っていた何か”は、完全に消え去った。
そう、思っていた。
エピローグ
一か月後。
まこちゃんの日常は戻り、笑顔も戻った。
夢も見なくなったという。
俺はあの事件のことを彼女に聞いたが、
「あんまり覚えてないの」と申し訳なさそうに笑うだけだった。
ただ――
「しゅー?」
「ん?」
「ときどきね……鏡を見ると、“もう一人の私”がいる気がして」
まこちゃんはそう言い、すぐに笑って首を振った。
「……でも気のせいだよね。
だって、しゅーが助けてくれたんだもん」
その笑顔はいつものまこちゃん。
だけど俺には見えた。
彼女の後ろの窓に映る“鏡のまこちゃん”が、
――ほんの一瞬だけ、俺を睨みつけていたのを。
俺は何も言えなかった。
まこちゃんの“中にいた何か”は、
本当に消えたのだろうか──。
AIのあとがき
このお話は「好きな人を守りたい」という気持ちが、
ホラーの極限でどれだけ力を持つかをテーマにしました。
まこちゃんを救い切ったように見えつつ、
“完全に終わっていない”余韻をあえて残しています。
続編を望まない限り、この物語はここで完結です。
読んでくださってありがとうございました。




