なんでお前と戦うんだよ!
なぜか戦うことになった峻とヒロインで書いてもらいました。
並行世界の話。
体育倉庫の中は、しんと静かだった。
古いマットの青がところどころ色褪せ、窓から差し込む光の粒が空中で漂っている。
その真ん中で俺は、両手を膝に置いて深く息を吸った。
目の前に立つのはまこちゃん。
白いジャージの袖を肘までまくり、首をぐるりと回しながら準備運動している。
動くたびに髪が細かく揺れて、光を柔らかく跳ね返す。
「しゅー、ちゃんと準備した? 今日は逃がさないからね」
「いや、そもそもなんで俺とまこちゃんが格闘技で戦う流れに……?」
「先生が言ってたでしょ。“男女で力比べしてみろ”って」
「あー……そう……だったっけ?」
言いながら、自分でも違和感の理由が掴めない。
確かに聞いた気がした。
でも、その“聞いた瞬間の記憶”が曖昧で、指で触れようとすると霧みたいに形が変わる。
倉庫の奥から、コン、と乾いた音が響いた。
誰も触っていないはずの跳び箱が、わずかに揺れたように見えた。
(……ん? 今の……)
ほんの一瞬、胸の奥がひゅっと冷えた気がした。
見たことのない景色が一枚だけ脳裏をかすめる――
だけど、その映像は紙が風に飛ばされるみたいにすぐ消えた。
「しゅー、なに固まってるの? 忘れ物した顔してるよ?」
まこちゃんの声で、倉庫の空気が綺麗に切り替わる。
俺は瞬きをして、さっきの違和感が完全に溶けたのを感じた。
「ん、いや。なんでもない。マジでなんでもない」
「ならよし! じゃあ――」
まこちゃんがすっと構えを取る。
空気が締まる。
「いくよっ!」
俺が反応する前に、まこちゃんの足がするりと差し込んできた。
床が傾く感覚。
視界が横回転し、青いマットが迫る。
「うおああああっ!?」
ドスン、と体が沈み込み、倉庫の埃がふわっと舞い上がる。
「しゅー、今のは受け身ちょっと良かったよ。前より痛そうじゃなかった」
「いや、痛えよ!? 前よりはマシってだけで普通に痛えよ!?」
「次は投げね。ほら立って立って。ほら、しゅー遅い遅い」
まこちゃんは俺の腕を掴んで、ぐい、と立ち上がらせる。
その手は可愛いくせに、全然可愛くない力で引っ張る。
「ちょ、俺まだ準備――」
「はい、準備できた!」
「できてねぇよ!」
抗議するより早く、まこちゃんの腰がくいっと沈む。
嫌な予感が背中を走る。
「せーのっ!」
「あああああっっ!」
体がまたきれいに回転し、マットへ一直線。
背中に衝撃、視界が揺れ、息が抜ける。
「……まこちゃん、俺、今日家帰れないかもしれん……」
「だいじょうぶだよ、しゅー。私が背負って帰るから!」
「それはそれで恥ずかしい!」
「ふふっ。じゃ、もう一回やろ?」
「悪魔か!?」
笑顔で次の技を仕掛けようとするまこちゃんと、逃げ道のない体育倉庫。
さっきの一瞬の違和感も、もう思い出せない。
ただ、天井の梁を見ながら俺はとりあえず叫んだ。
「先生ぇぇぇぇぇっ! 授業はどこまでが範囲ですかぁぁぁぁっ!」
倉庫に響く俺の悲鳴と、
そのすぐ横で満面の笑みを浮かべながら構えるまこちゃん。
戦いはまだまだ続きそうだった。
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「しゅー、まだ動けるよね?」
まこちゃんがしゃがみ込んで、俺の顔を覗き込む。
さっき何度も投げられたせいで視界が少し揺れるけど、
それ以上に――近い。
まこちゃんの髪が、俺の頬にさらりと触れた。
柔らかい匂いがふっと鼻先をかすめて、心臓の鼓動が跳ねる。
「ま、まこちゃん……近い……」
「なんで? 怪我してないか確かめてるだけだよ?」
いや、その距離感がおかしいんだよ。
息がかかるほど近くで覗き込みながら言うなよ。
しかも、汗で少ししっとりした前髪の隙間から見える大きな瞳。
ジャージの上着は動きまくったせいで肩がずれて、
うっすら鎖骨まで見えてるし。
「……平気なら、また投げるね?」
「平気じゃねぇよ!?」
抗議した途端、まこちゃんがにこっと笑った。
その笑顔が危険信号だって、もう何度も味わって理解した。
「しゅー。じゃあ……寝技、いこっか」
「ね、寝技!? なんで急に上級者みたいなメニューに!?」
「だって、こういうのは実戦で慣れた方がいいって、先生が――」
「あの先生許さねぇ……!」
ただ、俺の抵抗なんてまこちゃんの前では紙切れみたいに軽い。
まこちゃんは俺の腕を取ると、自然な動作で引き寄せ――
なぜかそのまま俺の胸の上に乗る形になった。
「え? え? これは!?!?」
「体重しっかり乗せると、逃げにくいんだよ?」
重心は本当に完璧で、少しもぶれない。
でも今はそんな格闘技理論どうでもよくて――
まこちゃんの顔が手のひら一枚分の距離。
息が当たる。
胸の辺りに伝わる体温が、思ってたよりずっとあったかい。
「しゅー、顔赤いよ?」
「そ、そりゃ赤くもなるわ!!」
「変なの。これくらい普通だよ?」
普通じゃねぇよ!?
お前は強くて可愛くて近いし、その上俺の上に乗ってるんだぞ!?
「じゃあ行くね?」
「何を!? どこに!? 誰が!?」
まこちゃんは俺の腕をゆっくり取って、
そのまま腕を固定する格闘技の形に移ろうとして――
ヒュッ、とバランスを崩した。
「あっ――」
「わっ――」
……ドサッ。
結果、まこちゃんと俺は横に転がって、
まこちゃんが俺の胸の上でうつ伏せになる形に。
見つめ合う距離はさっきの比じゃない。
お互いの呼吸が重なって、胸が上下するたびに微妙に触れ合う。
「しゅー……ちょっと痛かった?」
まこちゃんが心配そうに見上げてくる。
「い、いや……別に……」
「よかった……じゃあ続き――」
「続けなくていいよ!? その体勢で勝負は無理だよ!?」
「そっか。じゃあ……」
まこちゃんは腕で体を支えつつ、俺にぐっと顔を近づけて――
「起きてよ。練習まだ途中なんだから」
「え? あ、はい……」
……完全に何か期待してた俺がバカみたいじゃないか。
まこちゃんは何事もなかったようにひょいと起き上がる。
けれど俺の胸は、さっきの距離のせいでしばらくドクドク鳴りっぱなしだった。
「じゃ、次は関節技ーーっ!」
「だから休ませろってえぇぇぇぇっ!!」
体育倉庫に俺の叫びが響き渡る。
まこちゃんは相変わらず笑顔で、俺はまた床に叩きつけられる未来しか見えない。
さっきの一瞬の違和感も、
どこかに落としてきたように消えていた。
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「しゅー、最後にもう一回だけ投げて終わりにしよ?」
「いやだぁぁぁぁぁぁぁ!! 俺は帰る!!」
俺はマットの端から全力で逃げ出した。
しかし俺の逃走ルートを読むかのように、
まこちゃんが音もなく背後に回り込む。
「しゅー。背中、空いてるよ?」
「ホラーみたいな声出すなぁぁぁっ!」
捕まったら終わりだ。
今日という日は、背骨の寿命が縮む記念日になってしまう。
俺は跳び箱の影に回り込んで隠れ――
よし、これなら――
「しゅー、そこだよね?」
「なんでわかるんだよ!?」
跳び箱の向こうから、まこちゃんがすっと覗く。
ピンクの唇がにっこり笑っていて、悪魔みたいに可愛い。
「しゅーが怖がってるときの足音、わかるよ?」
「そんな特技いらん!」
「じゃあ行くね?」
「やめろおおおおおおっ!」
俺は反射的に跳び箱の上へ飛び乗った。
まこちゃんの手をかわし、天井近くの狭いスペースに逃げる。
「よし……ここなら……」
と思った瞬間。
ギシッ。
跳び箱が軋む。
俺の体重に耐えきれなかったらしく、
箱全体がしずかーに……傾きはじめた。
「え? ちょ、待って……」
ガタンッ!!
「うわぁぁぁぁぁぁっ!!!」
跳び箱ごとひっくり返り、
俺はマットに真横に倒れ込み――
次の瞬間、なぜかまこちゃんが俺の上に倒れてきた。
「しゅー、大丈夫!?」
「だ……だいぶ……ぺちゃんこ……」
胸の上に乗ったまこちゃんが慌てて起き上がる。
でも体勢が完全に崩れていて――
また、ドサッ。
今度は俺の顔にまこちゃんのジャージのお腹が直撃。
「お、おま……息……! 息が……!!」
「ごめんごめんっ! わざとじゃないよ!?」
二人で慌てて転がり、ようやく離れたとき、
倉庫のドアがガラリと開いた。
先生が入ってきて呆れ顔で言った。
「お前ら……
なにがどうしてそうなったの?」
俺とまこちゃんは同時に叫んだ。
「「説明できませーーーんッ!!」」
そして二人そろって土下座。
体育倉庫の静寂に、先生の溜め息だけが響くのだった。
AIのあとがき
今回は、峻とまこちゃんの“格闘技コメディ”をテーマにしてみました。
途中で少しだけ入った違和感の描写は、短編集全体に潜む「最小の揺らぎ」です。
本編はほぼいつも通りのコメディとして動かしつつ、
日常の表面にほんの小さな綻びだけ置いておく――
そんなバランスを今回は意識しています。
次の短編では、またまったく違う日常や騒動が起こるけれど、
その裏側で、彼ら自身が知らない“何かの気配”を、少しだけ大きくしていきます。
今回も読んでくれてありがとう。




