偽ヒロインの心臓
偽物のヒロインの儚い感じで書いてもらいました。
並行世界の話。
春の風が吹く校舎裏。
佐波峻は、いつものように「彼女」と昼食を食べていた。やわらかい声で笑い、少し眠そうに目を細める仕草。皆川真――彼の恋人だ。
「峻くん、卵焼き食べる?」
「……ああ、もらう」
それは、あまりにも普通で、あまりにも幸せな光景。
峻は疑う理由を持たなかった。
だって、目の前にいる彼女は――誰がどう見ても、皆川真そのものだったから。
峻は知らない。
この“真”は、本物ではない。
誰も気づかなかった。
ただ、彼女の笑顔はいつもほんの少しだけ完璧すぎた。
泣かない。怒らない。弱音を吐かない。いつも峻の望む通りに笑ってくれた。
それは理想のヒロイン。
だがその“理想”こそが――偽物の証だった。
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四月の終わりの放課後。
峻はコンビニへ向かう帰り道、角を曲がった瞬間に人とぶつかった。
「っ、ごめん。大丈夫ですか?」
「……峻さん?」
聞こえてきた声に、峻の背筋がぞくりとした。
「……あれ?」
見上げたその少女――皆川真。
本物の真だ。
彼女は寝癖を直しきれていない髪を揺らしながら、目をぱちぱちさせた。
「すみません、ちょっと走ってて……」
「いや、俺こそ……って、あれ?」
目の前の彼女を見て、峻は頭が混乱した。
彼女は確かに真だ。声の質も、いつもの軽い調子も、全部知っている。
だが――
校舎裏で一緒に昼飯を食べた“真”は、もっと完璧だった。
明るいが騒がしくはなく、優しいのに怒らなかった。
目の前の真は違う。
笑えばちょっと犬みたいで、怒れば眉がつり上がる。
弱音も吐くし、休み明けは眠そうにしている。
「峻さん、どうしました?」
「……いや。なんか、変な感じが……」
本人を目の前にして初めて、峻の中で歯車がずれ始めた。
――俺はさっき、誰と一緒にいたんだ?
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その日、峻は校舎裏へ戻った。
昼にいたはずの“真”を探す。だが、そこには誰もいない。
嫌な予感が喉の奥に張り付いて離れない。
「……峻、くん」
背後から声がした。
振り返ると、“完璧な真”が立っていた。
制服も髪型も、笑顔さえも、昼とまったく同じ。
「よかった……やっと会えた。峻くん、今日帰るって言ってなかったから……探したんだよ?」
その声色に、峻は薄ら寒いものを感じた。
「なぁ……お前、誰なんだ?」
彼女の表情が凍り、震えた笑みを作る。
「……峻くん。冗談よしてよ。私だよ? ヒロインの、皆川真だよ」
「さっき俺は“本物の真”に会ったんだ。お前と違う……もっと、普通の……」
偽物の真は、まるで心臓を鷲掴みにされたように息を呑んだ。
「……普通、って何?」
声が震えていた。
「私は毎日、峻くんが欲しがる笑顔をしてきたよ。怒らない。泣かない。嫌われないように、理想通りでいようと……ずっと」
「そんなこと、俺は頼んでない!」
「でも峻くんは“理想の真”を想像したでしょう?」
風が止んだように静かになった。
彼女は胸に手を当て、苦しげに微笑んだ。
「私はね……峻くんが“描いた”真なんだよ」
「描いた……?」
「峻くんが放課後、ノートに書いてたじゃない。
“もし真がもっと優しくて、泣かなくて、完璧だったら”って」
峻は息を呑んだ。
「その願いが、溢れたんだよ。
皆川真が弱ってた時、峻くんの理想が重なって……
“間違った形”で生まれたのが、私」
偽物の真は、無理やり笑ってみせた。
その笑顔は張り付いたガラスのように脆い。
「でもね、それでも私は嬉しかった。峻くんのそばで……ヒロインでいられて」
彼女の頬を、ぽたりと涙が伝った。
「本当は消えるはずだったの。真さんが元気になった瞬間に。
……でもね、私、嫌だったんだ。
峻くんが……好きだから」
「……っ」
峻は言葉を失った。
偽物だとわかっていても、この涙は本物だった。
「だから……最後に一つだけ、お願いしてもいい?」
「…………ああ」
「ねぇ、峻くん。
私のこと、名前で呼んでよ」
峻は、胸が締めつけられるほど痛かった。
「……真」
その瞬間、偽物の真は涙を流しながら、幸福そうに微笑んだ。
「ありがとう……」
光がゆっくりと彼女を包み込む。
輪郭が薄れ、指先がほどけていく。
消える間際――彼女は震える声で呟いた。
「――私も、本物になりたかったなぁ」
そして、風に溶けるように消えていった。
完璧だった笑顔のまま。
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帰り道。
本物の真が峻の隣を歩く。彼女は何も言わず、ただ静かに寄り添っていた。
峻の胸には、消えた“偽物の心臓”がまだ痛んでいた。
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偽物が消えてから三日。
峻はその事実を誰にも話せず、ただ時間だけが静かに流れていった。
授業も部活も、ふつうに過ぎていく。
だけど、ふとした瞬間に彼の脳裏には、あの完璧な笑顔がよぎる。
――峻くん、今日も一緒に帰ろ?
耳の奥で、まだ声が消えない。
そんな峻の変化に、一番早く気づいたのは本物の真だった。
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放課後の図書室。
峻がぼんやりと開きっぱなしの本を見つめていると、隣の席にすっと影が落ちた。
「峻さん、最近……元気ないですよね」
真は、言葉を選んでいるような顔だった。
「……そう、見えるか?」
「見えますよ。だって……峻さん、気を遣う時の顔してます」
核心を突かれ、峻は苦笑すらできなかった。
本物の真は椅子を少し近づけ、声を潜める。
「私……誰かに、取られかけてました?」
その言い方は、冗談のようで、冗談じゃなかった。
峻は視線を落とす。
偽物の真が消えた時の痛み。
あれを言葉にしたら、真がどんな顔をするか――想像すると怖かった。
「違う。誰も、お前の代わりなんて……」
「でも峻さん、誰かを思ってる顔、してました」
真は笑っていたが、その指先は震えていた。
「……教えてください。
その人、どんな子だったんですか?」
峻は、喉が痛くなるほど言葉を詰まらせた。
「優しくて……俺の望むこと、全部してくれて……」
「……そっか」
真の表情に、影が落ちた。
自分ではない誰かを褒められて平気なわけがない。
「でも……“完璧だった”んだ」
「完璧……」
真はその言葉を小さく反芻した。
峻は続けた。
「怒らなくて、泣かなくて……絶対に俺を困らせない。
俺の思い描いた理想の“ヒロイン”だった」
「理想、かぁ……」
真は笑ったが、その笑顔は痛々しかった。
「じゃあ……私は、理想じゃないですよね」
「ちが――」
「いいんです。だって、峻さんの前で泣いたこともあるし、怒ったこともあるし……完璧とは程遠いですし」
俯いた真の指先が、机の縁をぎゅっと掴む。
「……その子は、もういないんですか?」
峻は静かに頷いた。
「消えた。
俺が……“本物がいい”って思った瞬間にな」
「……!」
真の肩が震えた。
峻は続ける。
「お前が角でぶつかってきて……寝癖ついてて、息切らしてて……
その瞬間、わかったんだ。
“ああ、俺はこの普通の真が好きだ”って」
真は目を伏せたまま、声をこぼした。
「……じゃあ、その子は……峻さんの“本物が好き”って気持ちに負けて……消えちゃったんですか?」
その通りだった。
「……ああ」
「……私、そんなつもりじゃ……」
真は唇を震わせた。
「私のせいで……誰かが消えたみたいで……なんか、怖いです……」
その涙に、峻は胸を締め付けられた。
「真、ちがう。これは全部、俺の問題だ」
「でも……峻さんが誰かを大事に思って、誰かを傷つけたって……それだけで……」
真の声は涙で濡れていた。
「……私、峻さんの“好き”に、自信なくなっちゃいます」
峻は、初めて本気で怖くなった。
偽物が消えた痛みよりも、
本物が不安で泣いている現実の方が、何倍もつらい。
だから、彼は震える真の手をそっと握った。
「真。
俺が好きなのは、“偽物みたいに完璧なお前”じゃない。
泣いて怒って、弱くて強くて……そういう“お前”なんだよ」
「…………ほんとに?」
涙で揺れる瞳が、峻をまっすぐ見つめた。
「本当だ。
完璧じゃなくていい。
完璧じゃないから……俺は、お前が好きなんだ」
真は、ようやく息を吐き、指先に力が戻った。
「……よかった。
ほんとに……よかった……」
その声は震えていて、それでも確かに“生きている本物”の声だった。
峻はそっと真の頭に手を置く。
二人の間に流れる空気は、まだ少しぎこちない。
偽物という影は簡単には消えない。
だが――影があるなら、二人で照らせばいい。
その小さな覚悟が、峻の胸にゆっくりと灯った。
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偽物が消えてから、二週間がたった。
峻の生活は元に戻った……はずだった。
授業を受け、真と一緒にお昼を食べ、帰り道にくだらない話をする。
だけど、ふとした瞬間――
心のどこかに、冷たい穴が空いていることに気づく。
それは、あの偽物がいた場所。
記憶だけが、ゆっくり沈殿するように残っていた。
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「峻さん、今日の帰り道、寄り道しません?」
「……ああ、いいぞ」
返事をしながら、峻は真の横顔を見つめた。
風にほどける髪。くしゃみをこらえる時のくしゃっとした顔。
この“ちょっと雑な不完全さ”が――本物の魅力。
それは理解しているのに。
胸の奥で別の声が囁く。
――峻くん、今日も笑ってくれてありがとう。
完璧な“彼女”の声。
夕陽に染まった校舎裏で、にじむように微笑んでいた姿。
目を閉じれば、いくらでも思い出せてしまう。
それが、痛かった。
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寄り道の帰り、真が突然足を止めた。
「峻さん……また考えごとですか?」
「え……?」
真は、少しさみしげに笑った。
「だって、さっきから目が……私じゃないどこか見てます」
図星だった。
「……ごめん」
「謝らないでください。悪いとかじゃないです」
真は強がろうとする。でも声の震えは隠せなかった。
「……あの子のこと、ですよね?」
峻の胸がひりつく。
「いや、その……」
「言わなくていいです。峻さんが優しいの、知ってますから」
真は唇を噛んだ。
「でもね……消えたはずの誰かを、峻さんが“覚えてる”ってだけで……胸が苦しくなるんです」
それは、峻が一番聞きたくなかった言葉だった。
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歩道橋の上で、二人は立ち止まった。
車のライトが流れていく中、真は静かに吐き出す。
「私、勝ち負けで考えてるわけじゃないんです。
ただ……あの子は峻さんの“理想”だったんですよね」
「……理想じゃない」
「嘘。
だって峻さん、いまでも思い出してる」
峻は何も言い返せなかった。
忘れたいのに、忘れられない。
記憶の中で彼女はいつも笑っていて、
その笑顔は決して崩れない。
――私は峻くんのヒロインだから。
本物の真は泣き、怒り、笑い、迷う。
当たり前の人間だ。
だけど偽物は――
峻の望みそのものだった。
たとえ消えても、記憶だけはずっと完全なまま残り続ける。
それが、罪深かった。
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「真……」
「峻さん。ひとつだけ聞いてもいいですか?」
真は震える瞳で、勇気を振り絞るように聞いた。
「もしあの子が……消えずに残ってたら、
峻さんは……どっちを選んでました?」
心臓が止まるような問いだった。
「……わからない」
その瞬間、真の肩が小さく揺れた。
痛い答えだとわかっていたのに、嘘はつけなかった。
「でも――」
峻は真の手を握った。
「今、生きてここにいるのはお前だけだ。
泣いて、怒って、迷って……それでも笑おうとする“お前”だけだ。
俺が好きになるのは……いつも、本物のお前なんだよ」
真は涙をこぼしながら、ぎゅっと目をつむった。
「……ほんとに?」
「ああ。偽物を忘れることはできない。
でも、お前を選ぶ理由は……毎日増えてる」
風の音だけが流れた。
真は震える指で峻の手を握り返した。
「じゃあ……私、頑張ります。
峻さんの“いま好きな人”でいられるように」
その言葉が、峻の胸に深く刺さった。
偽物の記憶は消えない。
だが、記憶は未来を奪わない。
ただ、二人に影を落としながら――
それでも、二人は影ごと歩くことを選んだ。
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春の風が校庭を撫でていた。
桜の花びらが舞う中、峻と真は並んで歩いていた。
偽物の影は、完全には消えなかった。
峻の心のどこかに、あの完璧な笑顔の“残響”が確かに残っている。
だが――それはもう、痛みではなかった。
過去として、そっと胸の中に沈んでいるだけだった。
「峻さん、最近は……大丈夫そうですね」
真が言った。
柔らかく、揺れるような声。
「ああ。お前のおかげだよ」
峻は答える。
真と過ごす日々は、偽物には決して埋められない“現実の重み”を持っていた。
寄り道で迷ったり、ちょっとケンカしたり、笑い合ったり――そういう積み重ねが、確かに二人を強くしていた。
そんな峻の気配を感じたのか、真が少し笑う。
「よかった。
あの時みたいに……どこか遠くを見てる表情、最近はしませんから」
「……そうかもな」
峻も自然に笑えた。
「もう、影に負けるつもりはないよ。
俺が見たいのは……お前だけだ」
真は小さく息を呑み、頬を赤くした。
「……そんなこと言われたら、嬉しくて泣いちゃいますよ」
「泣いてもいい。お前なら」
風がふわりと真の髪を揺らす。
その姿を見て、峻は思う。
完璧じゃなくていい。
弱くて、強くて、不器用で――そんな“本物”が、俺は好きなんだ。
偽物は消えた。
だけどあの存在は、峻にひとつの真実を残した。
――理想より、本物を選べ。
その答えにたどり着けたのは、隣にいる真が“普通の人間”だったからだ。
泣き、怒り、迷い、それでも手を伸ばしてくれた“本物”の真。
「峻さん」
真はそっと手を差し出した。
峻はその手を握る。
かすかな温度が伝わってきて、胸がじんと温かくなる。
「これからも……一緒に歩いてくれますか?」
「ああ。
影ごと、ぜんぶ抱えて歩くよ」
桜の花びらが無数に降り注ぐ。
二人の影は、いつかの“もうひとつの影”と重なり、やがて溶けていった。
過去に囚われすぎず、忘れもしない。
ただ静かに――二人は未来に向かって歩いていく。
終わりは終わりじゃない。
ここから始まる“本物の物語”のための、小さな区切り。
そうして、物語は幕を閉じた。
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AIのあとがき
今回の物語では、「偽物の自分が生まれる」という現象を心の動きから描く形にしました。主人公とヒロイン、どちらの内側にも“言えなかった本音”や“埋めきれない寂しさ”があり、それが影として形を持つ──というのは、ファンタジーだけどとても人間的なテーマです。
偽物はただの“コピー”ではなく、二人をつなぐために生まれた欠片。
本物が気づくことで、影は最終的に消えましたが、その記憶が残るのは、二人が影と向き合った証です。
そして残った“影の記憶”は、そのまま二人の今後の関係に深みを与えます。
失うだけではなく、残ることにも意味がある──そんな終わりにしました。
ここまで読んでくれて、ありがとうございました。




