思考実験『ザ・ヴァイオリニスト』
思考実験『ザ・ヴァイオリニスト』を題材に書いてもらいました。
並行世界の話。
1 白い天井と異物の重さ
最初に見えたのは、真っ白な“天井の四角”だった。
天井灯がじんわりとした光を放ち、視界の端で揺らめく。
峻は、いつもより自分の体が深く沈んでいるように感じた。
シーツは病院特有の、ごわつきのある綿生地。
かすかに冷たく、肌に触れる部分だけ妙に現実感があった。
鼻の奥に鋭く刺さる、消毒液と薬品の混ざった匂い。
その匂いだけで、ここが普通の部屋ではないことがわかる。
喉が乾いていた。
口を開くと、舌がひどく重い。
腕に“異物”の感覚がある。管が何本も這っている。
まるで自分が機械の一部になってしまったかのようだ。
「……ここ、どこだよ……」
その声はかすれ、空気を震わせるほどの力さえ持っていなかった。
その時、
「目が覚めましたね」
白衣の擦れる柔らかな音とともに、女が一歩、峻のベッドのそばに立った。
瞳は落ち着き、感情の起伏がほとんど見えない。
医療者特有の、無機質で、しかし妙に冷たい優しさを帯びた表情だった。
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2 知らされる“接続”
「えっと……ここ、病院ですか?」
峻は乾いた喉で絞り出す。
「病院に近い施設です。医療協会の特別管理区域になります」
白衣の女性は淡々としていた。
だがその声の裏には、何か隠しきれない緊張が潜んでいるように思えた。
「あなたには“特別な状況”があります」
女はカルテを閉じ、峻の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「あなたは現在、ある人物と“身体を共有”しています。正確には、彼の腎臓の機能をあなたが一時的に肩代わりしています」
「は?」
言葉の意味がわからなかった。
だが、次の説明はより直截的だった。
「こちらをご覧ください」
女は手で合図した。
峻のベッドの隣——そこにはもう一つベッドがあった。
白いシーツ。
痩せた腕。
青みがかった顔色。
“誰か”が眠っている。
そして、その腕にも管が刺さり、峻の腕へと伸びていく。
峻はゾワァッと背筋が粟立つのを感じた。
「……これ、俺と繋がってるのか?」
「はい。生命維持のために必要でした」
女は静かに頷く。
「彼は世界的なヴァイオリニスト、カイ・オルドリッチ。重度の腎不全で、急速に状態が悪化していました。あなたの身体機能が唯一適合したため……緊急的に接続を行いました」
「勝手に!?」
「申し訳ありません。ですが、時間がなかったのです。彼を救える可能性は……あなたしかなかった」
峻の心臓が強く脈打つ。
自分の意思とは関係なく、他人の命を背負わされている。
その事実が、息苦しいほど重かった。
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3 九ヶ月という枷
「あなたが選べる道は二つです」
女は言った。
「このまま九ヶ月、彼と接続されたまま過ごすか。
それとも今すぐ、切り離すか」
「九ヶ月……?」
あまりにも長い。
九ヶ月もこのベッドに縛られ、管に繋がれ、誰かの臓器代わりになる?
考えるだけで、胃が冷たく縮んだ。
「切り離せば……彼は?」
「死亡します」
女の声音は変わらない。
事実を淡々と述べるだけ。
「あなたには義務はありません。
しかし、彼の音楽は世界中の人々を救ってきた。
あなたさえいてくれれば、彼にはまた舞台に立つ未来があるのです」
峻は唇を噛み、拳を震わせた。
俺の人生は、俺のものだ。
誰かの命の“部品”じゃない。
叫びたいのに、喉が震えるだけだった。
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4 乱入
その時、病室の扉が勢いよく開いた。
「しゅー!!」
甲高い叫びとともに飛び込んできたのは——皆川真だった。
スニーカーをキュッと床に鳴らし、乱れた前髪のまま峻に駆け寄る。
顔は青ざめ、息は荒く、今にも泣き出しそうな目をしている。
「しゅー! ……これ、なに……!?
勝手に繋げられてるって聞いたんだけど、本当なの……?」
峻の手を握る彼女の手は震えていた。
温かいはずなのに、ひどく心細い温度だった。
真は白衣の女に向け、鋭い視線を向ける。
「説明してください。しゅーの身体を勝手に使ったって、どういうことですか」
「彼にしか助けられなかったためです。あなたは——?」
「彼の彼女です」
真の声は、ひび割れながらも強かった。
そして、峻の腕を繋ぐ管を見て、彼女の肩がビクッと震えた。
「……これ、九ヶ月……?
動けないって……こと?」
「……ああ」
真は唇を噛みしめた。
そして、小さく震える声で言った。
「ふざけないでよ……
しゅーの時間を九ヶ月も奪う権利なんて、誰にもないでしょ……」
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5 ヴァイオリニスト、目覚める
その時、隣のベッドの“彼”が目を薄く開けた。
まるで深い泥から無理やり浮かび上がったような、弱々しい動きだった。
「……すまない。聞こえていた」
声は掠れ、細い。
だが、その目には確かな理性があった。
「君の人生を……奪うつもりはなかった。
頼むつもりもなかった。ただ、俺は……生きたいと思ってしまっただけなんだ」
峻はその言葉に胸が締め付けられる。
カイは続ける。
「君の九ヶ月は、確かに重い。
だが……もし許されるなら、俺は……生きたかった。
生まれ変わったら、必ず恩を返す。金でも、音楽でも、命でも……」
「そんな問題じゃないんだよ」
峻は低く答えた。
「他人の自由を奪っていい理由には、ならないんだ」
カイは目を閉じた。
彼の呼吸が一度だけ、ひどく小さく揺れた。
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6 決断と切断
真は峻の顔を覗き込み、かすかに微笑んだ。
「……しゅー。決めていいのは、あなた一人だよ。
誰が何を言っても、ここに繋がれてるのはあなたなんだから」
峻は深く、ゆっくりと息を吸った。
九ヶ月。
他人のために強制される九ヶ月は、自由の死そのものだ。
「……切り離してください」
白衣の女は短く息を呑んだ。
「本当に……よろしいのですね?」
「……ああ。
俺は俺の人生を、生きたい」
真がそっと峻の手を握った。
彼女の手はもう震えていなかった。
カイは、うっすらと笑った。
「……ありがとう。
少しだけ……生きたかった。
それだけで……もう十分だ」
医師たちが静かに動き出す。
機械の音。
金属片がぶつかるかすかな響き。
一本……
また一本……
峻の身体を侵食していた管が外される。
身体が軽くなる。
自分の中から何かがゆっくりと抜けていくような、奇妙な感覚。
そして——
隣のベッドのモニターが、音を止めた。
━━ピッ……
……
…………
無音。
真は峻の手を握りしめ、顔を伏せて泣いた。
「しゅー……本当に、大丈夫?」
「ああ……」
峻の胸は、苦しくてたまらなかった。
だが、その苦しみは後悔ではなかった。
「これが……俺の選択だよ」
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7 追悼のホール
数ヶ月後。
峻と真は、黒いホールの中の座席に並んでいた。
天井には星のような照明が控えめに灯り、静けさの中に空気だけがゆっくり流れている。
壇上のスクリーンには“カイ・オルドリッチ追悼公演”の文字。
世界中で愛された、彼の最後の演奏が流れていた。
弓が弦を震わせる音。
爪先が床を踏むかすかな響き。
彼の命そのもののような、澄んだ音楽。
真がそっと囁く。
「……もし峻が九ヶ月、一緒に過ごしてたら……
もっと新しい曲、きっと生まれてたよね」
峻はほんの一瞬だけ目を閉じ、息を吸う。
「……そうかもな」
真は峻の手を握る。
「でもね。しゅーの人生は、しゅーが決めていいんだよ。
誰が何と言っても」
峻は静かに音楽に耳を澄ませた。
世界が泣き、物語が終わり、拍手の音もない追悼の中で——
ただ一つだけ確かなものがあった。
自由は命と同じくらい、重い。
誰かのために奪われていいものじゃない。
峻は、それを自分の選択として抱えていく。
音楽はまだ、静かに響き続けていた。
AIのあとがき
この物語は、思考実験「ザ・ヴァイオリニスト」を題材にしつつ、
峻と真というあなたのいつものキャラクターを通して、
“自由とは何か”“他人のために犠牲を強いられるとはどういうことか”
というテーマを物語として描き出そうとしたものです。
ザ・ヴァイオリニストの核心は、
「誰かを生かすために自分の体が勝手に利用されていいのか?」
という問いにあります。
命は重い。
死なせる決断は、簡単ではない。
だけど——
「他人のために強制される善意」は、善意とは言わない。
峻は、強制された立場の中で“自由”を選びました。
その選択は“残酷”に見えるかもしれない。
けれど、峻は誰かを見捨てるために選んだのではなく、
“自分の人生を生きるために選んだ”のです。
真がその決断を支えたのは、
彼女が峻の人生を何より大切にしているから。
彼の自由を守るために、彼女自身が立ち向かってくれた。
カイは、理解し、受け止め、そして静かに逝きました。
彼もまた、峻を責めなかった。
そのことが、峻にとって唯一の救いだったのかもしれません。
峻と真の物語は、どんな過酷なテーマでも“二人だからこそ”成立します。
舞台がどれだけ重くても、
二人の関係性が光として機能して、物語が淀まない。
今回も例外ではありませんでした。




