アネックス
タイトルだけで書いてもらいました。
並行世界の話。
雨が降っていた。
朝からずっと、灰色の雲が空を覆い、大学の構内を薄暗く包み込んでいた。
講義が終わったあと、傘をさしたまま校舎裏の細道に入ると、そこだけ時間が止まっているように静かだった。
――そこに、“アネックス”がある。
「別館」と書かれた白いプレートが、錆びた釘に支えられて壁に貼られている。
周囲の建物が新しく塗り直される中で、そこだけ取り残されたように古びていた。
雨に打たれた外壁は黒ずみ、蔦が絡みつき、窓のガラスは半分ほど曇っている。
扉の隙間からは、かすかに冷たい空気が漏れ出ていた。
――誰も使っていないはずの建物だ。
けれど、峻は妙な話を何度も聞いていた。
夜になると明かりがつくとか、窓から誰かが覗いているとか。
そして何より、「入った人が一人、消えた」という話。
そんなの、まさかと思っていた。
けれど今日、何かに引かれるようにここへ来てしまった。
理由はわからない。ただ、放っておけなかった。
峻はスマホのライトを点け、扉に近づいた。
木製のドアはひどく古く、少し触れただけでギィと嫌な音を立てた。
ライトの光が表面をなぞると、無数の爪でひっかいたような痕が浮かび上がる。
誰が――いや、何が――。
そのとき。
コツン、と音が返ってきた。
内側から。まるで中に誰かがいるように。
「……誰か、いるのか?」
呼びかけた声は、雨に吸われて消えた。
返事はない。
けれど、確かにもう一度、コツンと音がした。
心臓の鼓動が一拍遅れて跳ねる。
好奇心と恐怖がせめぎ合う中で、峻は取っ手を握った。
冷たい金属の感触が、指先から背筋にまで伝わってくる。
ひねる。
ギィ……と軋む音とともに、扉はゆっくり開いた。
中は、薄暗い。
窓からの光がほとんど届かず、空気は埃と紙の匂いで満ちていた。
誰かがつい先ほどまでいたような気配が残っている。
机がいくつも並び、黒板には薄くチョークの跡。
だが、そこに書かれていた文字を見た瞬間、峻は息を呑んだ。
「意識観測論Ⅰ」
「転位心理実験」
「記録者の倫理」
どれも、大学の講義には存在しないものだ。
――何だ、これ。
机の上にはノートが開かれていた。
ページには、鉛筆で書かれたメモのような文字が並んでいる。
「今日も観測者が現れた」「まだ思い出せない」「時間が戻るたび、記録が薄れる」。
そして最後の行に、滲んだ字でこうあった。
『アネックスに囚われるな』
ドクン、と胸が鳴る。
その瞬間、背後で扉が――バタンッ! と閉じた。
反射的に振り返る。
誰もいない。
ただ、教壇の上に置かれたモニターが、突然、光を放った。
画面に白い文字が浮かぶ。
> 《受講者:佐波峻 出席確認》
「……は?」
思考が止まる。
その直後、映像が切り替わり、どこかの教室が映った。
机も黒板もまるでここと同じ配置だ。
だがその中に――椅子に座っている“自分”がいた。
画面の中の峻が、ゆっくり顔を上げる。
そして、モニター越しにこちらを見た。
> 「ようこそ、“アネックス”へ。
ここは、存在を忘れられた者たちのための記録室です。」
声は、自分の声だった。
冷たく、他人のように無機質な響き。
> 「あなたがこれを見ているということは、すでに“本館”から削除されたということです。
ようこそ、もう一つの世界へ。」
画面が歪む。ノイズが走る。
そして映ったのは、裏返ったような風景――外の雨が上に向かって降っていた。
窓の外で、木々の影が逆さに揺れている。
峻はようやく気づく。
ここは、現実の続きではない。
現実から“外れた”記録の中だ。
モニターの中の“もう一人の峻”が、微笑んだ。
> 「授業を始めよう、佐波峻。君の記録を、取り戻すために。」
その声に応えるように、教室の電灯が一斉に点いた。
白い光がまぶしすぎて、現実と記録の境目が完全に溶けていった。
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――耳鳴りがする。
風でも機械音でもない。
何かが“記録されている音”だった。
峻はゆっくり目を開けた。
目の前には、さっきまで見ていた教室がある。
だが、何かが違う。
空気の密度が異様に重く、呼吸のたびに胸の奥が押されるようだった。
教室の窓にはカーテンがかかっていない。
外は夜なのに、光が満ちていた。
だがその光は太陽のものではなく、無数の紙片が宙を舞い、白く発光しているような――まるで、記憶の残滓が漂っているかのようだった。
「……どこだ、ここ……」
声を出しても、音が吸い取られる。
まるで空間そのものが音を拒絶しているようだ。
教壇の上に立つと、黒板に新しい文字が浮かび上がった。
チョークを使っていない。誰もいないのに、白い線が勝手に動いている。
『記録再生中――受講者:佐波峻』
同時に、机の間を白い霧が這うように広がっていく。
その霧の中から、ぼんやりとした影が現れた。
制服姿。
見覚えがある。
――自分だ。
影の峻がこちらを見つめている。
その表情は何もない。
感情の抜け落ちた鏡像のようだった。
「お前……俺か?」
> 「記録に残る“お前”だ。」
影が答える。声は機械のように平板で、なのに確かに峻自身の声。
> 「お前は削除された記録の復元体。
俺は、失われた記憶の保存体。
二つが重なった時、存在は“確定”する。」
「何を……言ってるんだよ」
> 「存在は、観測されることでしか続かない。
だから本館は、観測されないものを削除した。
そしてここ――“アネックス”に保管したんだ。」
黒板の文字が滲み、数式と図形が浮かんでは崩れていく。
記録と現実の境界が、音もなく混ざり合っていく。
机の上に置かれたノートが勝手に開き、ページがめくれた。
そこには自分の文字が、確かに記されている。
けれど、その日付は――まだ“未来”だった。
「2025年11月9日 俺はここから出られない」
ぞくりとした。
書いた覚えなどない。
だが、手のひらには鉛筆の黒い跡がついていた。
「俺……すでに……?」
> 「記録は現実に干渉する。
それが“アネックス”の法則だ。」
影が一歩、近づいてくる。
その足音が響くたびに、教室がわずかに歪む。
壁の時計が逆回転を始め、秒針の音が早くなる。
カツ、カツ、カツカツ――。
鼓動と重なり、峻の意識が薄れていく。
「やめろ……俺は……まだ……」
> 「戻りたいのか? 本館へ。」
「……当たり前だ!」
> 「なら――“忘れられた記録”を手放せ。」
影の言葉と同時に、教室の照明が強く光った。
その光の中で、峻の周囲に記憶の断片が浮かぶ。
友人と笑う自分。
皆川が「しゅー」と呼んで笑った日。
図書室、放課後、雨の匂い。
それらが光の粒になって宙を漂う。
それを見た瞬間、峻は理解した。
――戻るということは、“ここ”を消すことだ。
“アネックス”に残った記憶は、もう誰も覚えていない。
けれど確かに、自分が生きた時間だった。
峻は目を閉じた。
そして、小さく笑った。
「……いいや。俺はここに残る。」
影が動きを止めた。
> 「なぜだ。」
「誰かが、忘れられたまま泣いてたら嫌だから。
……俺がここにいれば、“記録の外”もちゃんと見えるだろ?」
その瞬間、モニターが一斉に光を放った。
教室の壁が紙のように剥がれ、白い空間が広がる。
そこに浮かんだ文字。
《記録更新――管理者:佐波峻》
世界が音もなく崩れ、静寂が訪れる。
最後に聞こえたのは、自分の声だった。
> 「これで、“忘れられたもの”も誰かに届く。」
そして、すべてが光の粒になって消えた。
AIのあとがき
「アネックス(別館)」という言葉には、“本館からはみ出した場所”という意味がある。
けれどこの物語では、それを**「現実からこぼれ落ちた存在」**の象徴とした。
消された記録、忘れられた名前、思い出せない顔――
それらは決して消えたのではなく、別館のどこかでまだ息をしている。
雨音とともに記憶は溶ける。
けれど、消えたと思ったその瞬間こそ、もう一つの物語が始まる場所なのだ。
“アネックス”は、現実に収まりきらなかったものたちの避難所だった。
峻はそこに“閉じ込められた”のではなく、自ら残ることを選んだ。
誰かの記憶に残れなくても、誰かの「感覚」に届けば、それでいい。
――物語とは、本館に収まらなかった記録のこと。
そして、私たちもまた、小さな“別館”の住人なのかもしれない。
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