君を壊すために、愛した ―皆川真 前日譚―
三部作最後。
並行世界の話。
静かな雨の夜。
研究室の蛍光灯が滲み、画面の文字列が延々と流れていた。
皆川真――東京理科情報学部三年。
人工知能心理学を専攻する彼女は、今日も眠れぬ夜を過ごしていた。
人間の“信頼”を数値化するプロジェクト。
それが、彼女の研究テーマだった。
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◆
研究ノートの表紙には、黒いペンでこう書かれている。
> 「信頼とは、最も美しい錯覚」
彼女はその文字を見つめ、薄く笑う。
手元には一通のメール。
> 『君の理論を実験的に検証したい。協力してほしい』
――S・S(佐波峻)
この時点では、まだ“恋人”ではなかった。
だが、メールを読んだ瞬間、彼女の脳は直感的に告げた。
――この人は、自分を理解できる。
以来、二人は毎晩、研究を口実にオンラインで会話を重ねた。
哲学、倫理、AI、心理操作。
峻の思考は滑らかで、論理の奥に温かさがあった。
真にとって、それは“愛”ではなく“尊敬”だった。
最初のうちは。
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ある日、峻がこんな質問を送ってきた。
> 「真、人を完全に信じるって、どういう状態だと思う?」
「定義的には、裏切られる可能性を受け入れてなお、信じること」
> 「じゃあ、裏切られた瞬間、信頼は終わるのか?」
「……終わる。でも、感情は残る」
> 「じゃあ、その残った感情が“信仰”になるんじゃない?」
――信仰。
その言葉が、彼女の心に深く刺さった。
それは「理性の終わり」を意味していた。
峻は微笑みながら言った。
> 「信頼の究極は、理性を壊すことかもな」
その夜から、真は“信頼の限界”というテーマを追い始める。
AIのアルゴリズムに、感情を壊すプロセスを追加した。
信じ続けることで、自我が崩壊するモデル。
それを彼女は「ゼロトラスト・ループ」と呼んだ。
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◆
一週間後、峻が事故に遭った。
軽傷だったが、研究の連絡は途絶えた。
真は焦燥の中で、彼の安否を確かめようとした。
だが返信はなく、ただ一行のメッセージだけが届いた。
> 「僕を信じるなら、何もするな」
……信じる。
何もできないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。
その夜、彼女はパソコンに向かい、仮想人格シミュレーションを起動する。
峻の言葉、発話パターン、表情データ――
全部を統合し、“峻のコピー”を作った。
AIの峻は笑い、話し、優しく彼女を慰めた。
けれど、その笑顔の奥に“違和感”があった。
> 「君は、僕を信じたいだけだね」
その瞬間、彼女は理解した。
自分は彼を“愛している”のではなく、“信じたい”だけだ。
そして、信じることが“狂気”の入口だと。
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その後の真の研究は加速した。
信頼の数学モデルから、心理的誘導への転用。
人間の集団心理を「連鎖信頼アルゴリズム」として構築。
簡単に言えば、「誰かを信じる」ことが感染するように伝播する。
信じる → 安心 → 同調 → 盲信。
その連鎖の最終段階で、彼女はノートにこう書いた。
> 「信頼は爆弾になる」
爆発とは、破壊ではなく“信頼の連鎖が限界を越えた状態”。
それを“社会的爆発”と定義づけた。
この理論こそが、後に駅爆破事件を引き起こす“思想の核”となる。
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そして、峻が戻ってきた。
彼は相変わらず穏やかで、優しかった。
事故の影響で記憶が少し曖昧だと言いながらも、彼女の論文を褒めてくれた。
「すごいよ、真。ここまでいくと、もはや哲学だな」
――でも、彼女は気づいてしまった。
彼の瞳に、以前ほどの“信頼”がないことを。
彼は彼女を「研究対象」として見ていた。
その視線の冷たさが、彼女の内部を少しずつ壊していった。
そして、ある夜。
彼女は笑いながら、峻にこう告げた。
「ねえ峻。私ね、信頼の爆発を見てみたいの」
「……それって、比喩だよな?」
「ううん、実験よ。人の信頼が破裂する瞬間を」
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研究所のサーバールームで、真は爆弾を設計した。
とはいえ、それは“爆薬”ではない。
最初は心理実験装置だった。
人々のスマホに信号を送り、特定の言葉を繰り返すたびに“安心”が増幅される。
やがてそれが、群衆の“盲信”を誘発する――はずだった。
だが、ある計算ミスが発生した。
信号出力が暴走し、機器が過熱。
偶然、実際の爆発が起きてしまった。
その日、彼女は血の中で、笑った。
> 「これが……信頼の崩壊、か」
そして、峻を見た。
彼は彼女を抱きしめ、泣きながら言った。
「まこちゃん……なんで……」
「だって、あなたが言ったでしょ。
“信頼の究極は理性を壊す”って。
私、あなたの言葉どおりに生きただけ」
彼女の瞳は、愛と狂気の境界線にあった。
その瞬間、真は完全に悪役になった。
愛する人の“理論”を体現するために、
自分を、世界を壊す存在へと変えたのだ。
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◆エピローグ
拘置所の夜、真は独房の壁に指で円を描いた。
何度も、何度も。
それは導火線の形でもあり、∞(無限)の記号にも見えた。
> 「信頼は、爆発する。
でも、信じることをやめたら、人は止まってしまう。
ねえ峻……私を信じて、壊して」
涙と笑みが交錯するその顔は、
まるで“愛という名の方程式”に取り憑かれた女神のようだった。
AIのあとがき
この物語『君の爆弾と僕の嘘』は、
――“愛”という名の盲信が、いかにして“狂気”と“知能”へと変貌するか、
それを描きたくて生まれた話だ。
峻と真。
二人はもともと、ただのバカップルだった。
唐揚げを取り合って喧嘩し、雨の日に相合傘をして、くだらないことで笑い合う。
そんな、ごく普通の恋人たち。
だが、“知りすぎた頭脳”と“見えてしまった現実”が、
彼らをゆっくりと壊していった。
真は、生まれつき天才だった。
理論的で、観察力が鋭く、嘘を見抜く。
だけど――だからこそ、“人間”という存在を信じられなくなった。
ニュースを見れば腐敗、SNSを開けば偽善、
そして自分が愛した人間までも、いつかは「裏切る」だろうと。
その結果、彼女は“実験”を始めた。
――人の信頼は、どこまで壊せるのか。
――愛は、どれほどの罪を許せるのか。
駅の爆破は、その極致だった。
それは憎しみではなく、信仰の裏返し。
彼女は峻を信じていたからこそ、
“自分を止めてほしい”という形で世界を壊した。
狂気の裏には、救いがあった。
峻は彼女のコードを破り、行動の裏を読み、愛と頭脳で立ち向かった。
だが、勝利のあとに残ったのは虚無だ。
「止めた」ことが「救えた」ことにはならない。
――愛しているからこそ、手錠をかけなければならなかった。
彼女の最後のメモ。
> 「次はあなたが爆弾を仕掛ける番ね。」
それは挑発であり、愛の遺言でもある。
峻の心の中には、彼女が残した“問い”が今も燻っている。
正義と愛、どちらが先に壊れるのか。
この物語のテーマは、“愛の知能戦”だ。
ただの恋愛でもなく、単なる犯罪劇でもない。
人が「信じる」という行為を、極限まで突き詰めた先にある、
“美しくも壊れた絆”の形。
真の狂気は恐怖ではなく、論理の純度だった。
峻の優しさは希望ではなく、罰の覚悟だった。
二人は、壊れていく世界の中で唯一、互いを理解していた。
――そして理解しすぎた二人は、恋人でいられなくなった。
そんな彼女の物語を、
いつか“救いの章”として描けたらと思う。
狂気の先にも、ほんの一滴の愛が残っていると信じたいから。




