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思考実験『ギュゲスの指輪』

思考実験『ギュゲスの指輪』を題材に書いてと頼みました。


並行世界の話。


『見えざる指輪』第一章 透明の代償


 夜の風が静かにガラスを叩く。

 佐波峻は、自室の机に置かれた小さな木箱を見つめていた。

 アルバイト先の古物店で、誰にも知られずに見つけた古代の指輪——。

 黒い石が嵌め込まれた銀の輪。奇妙なことに、光を吸い込むように沈んでいる。


 「これ……本当に売り物だったのか?」


 独り言のようにつぶやくと、部屋の隅にいた皆川真が振り向いた。

 彼女は古びた本を読んでいて、眼鏡の奥から峻を覗く。


 「勝手に持って帰ってきたんでしょ、それ。店長に怒られるよ?」


 「いや……変なんだ。見つけた時も、誰も気づいてなくて……。箱を開けた瞬間だけ、妙に静かになったんだ」


 皆川は眉をひそめた。


 「“妙に静か”って?」


 峻は小さく息を吸い、指輪を指にはめた。


 ——世界が、止まった。


 風の音が消え、時計の針が動かない。

 真の髪の一筋が、空中で静止している。

 あまりに鮮明な静寂に、峻は息を忘れた。


 「……嘘、だろ」


 彼は立ち上がった。椅子の軋みすら聞こえない。

 真の肩を叩く——が、彼女は微動だにしない。


 まるで、時間そのものが彼を拒んでいるかのように。


 指輪を外す。


 ——音が、戻った。


 風が鳴き、真が瞬きをした。


 「なに? 今、どうしたの? 顔色悪いよ」


 「……いや、なんでもない」


 峻の手が、わずかに震えていた。

 彼は気づいてしまったのだ。

 **この指輪は、“自分だけを見えなくする”**のではない。

 世界そのものから切り離す力を持っている。



---


 翌日。

 峻は試した。校舎の屋上、人のいない時間帯に。

 指輪を嵌める。

 生徒たちの声が遠のき、世界が薄膜のように消える。

 廊下を歩いても、誰も反応しない。

 誰も、自分の存在を認識できない。


 「……なるほど。これが“見えない自由”か」


 声が、虚空に吸い込まれる。

 だが、胸の奥にざらりとしたものが残る。

 自由とは、こんなにも——孤独だったのか。



---


 放課後。

 峻は真とスミスに会った。

 スミスは子どもを迎えに行く前で、片手に紙袋を持ちながら笑う。


 「佐波、顔こわいぞ? また変なもん拾ったな」


 「……そう見えるか」


 「見えるね。皆川、コイツなんか隠してるぞ」


 真はじっと峻を見た。


 「しゅー、最近……目の奥が違う。何か“見えなくてもいいもの”を見た人の目だよ」


 その一言に、峻の胸が揺れた。

 まるで彼女だけが、指輪の存在を感じ取っているようだった。


 「まこちゃん、もしもさ……人に絶対バレずに、何でもできる力があったらどうする?」


 真はしばらく黙っていた。


 「使わないよ。だってそれ、バレないだけで“消えてる”のと同じでしょ。誰にも見られない場所で何かをしたら……それはもう、存在してないのと同じ」


 峻は笑い、指輪をポケットに押し込んだ。

 だがその笑みの奥では、何かが確実に軋んでいた。

 “見られない自由”が、心の奥で膨らんでいく。



---


 その夜。

 峻は再び指輪を嵌めた。

 世界が静止する。

 窓の外の街の光が、全て止まる。

 彼は無音の世界を歩いた。

 店の金庫、教師の机の中、誰にも知られぬ真の部屋——。


 彼女の寝顔が、月明かりの下で穏やかに照らされていた。

 誰もいない世界で、峻だけが彼女を見つめていた。

 この静寂の中では、罪の形すら曖昧になる。

 “見られなければ、何をしても罪ではない”——その考えが、指輪の内側から囁いていた。


 指輪の黒い宝石が、微かに赤く脈打った。



---


 峻は呟く。


 「……俺は、見えないことで、何を失ってる?」


 その問いに、答える者はいない。

 ただ、無音の世界の中で彼の影だけが、ゆっくりと笑っていた。



---


第二章 ——見える勇気



 夜、雨が降っていた。

 静かな雨音が、窓を叩く。

 机の上で本を閉じた私は、ふと携帯の画面に目をやった。

 「しゅー」からのメッセージは、今日も届いていない。


 最近、彼はおかしい。


 声のトーンが低くなり、目の焦点が少しずれている。

 言葉に温度がない。まるで、どこか別の場所を歩いているような——そんな違和感。


 私はあの人の表情を覚えている。

 誰かが泣けば一緒に困って、笑えば安心する。

 そんなしゅーだった。

 なのに今は、誰かを見ていても、“自分が見えていない”ような目をしている。


 ——まるで、透明になってしまった人みたいに。



---


 放課後の教室。

 空気が湿っていて、誰もいない。

 峻の机の中には、教科書の隙間に黒い布で包まれた何かがあった。

 触れると、冷たい。

 金属のような感触。


 「……やっぱり」


 胸がざわつく。

 彼、最近ずっと右手をポケットに入れてた。

 触れるように、撫でるように。まるで安心を求めるみたいに。


 私は包みを開く。

 ——銀色の輪。中央の黒い石が、わずかに光を吸い込んだ。


 その瞬間、心臓が跳ねた。

 見られている。

 誰かに、見られている気がした。

 でも、振り返っても誰もいない。


 「……しゅー?」


 声を出すと、空気が震えた。

 まるで、呼吸そのものが異物を弾くように。



---


 「まこちゃん」


 振り向いた瞬間、そこに彼がいた。

 現れた、という表現がぴったりだった。

 ドアは開いていない。足音もなかった。

 ただ、そこに“いた”。


 「なにしてんの、それ」


 いつもの穏やかな声なのに、背筋が凍る。

 私の手には、あの指輪があった。

 しゅーの視線が、それに吸い寄せられる。


 「それ、俺のだ。返して」


 「しゅー……この指輪、何なの?」


 沈黙。

 彼の目に、光がない。

 黒い石と同じ、光を吸う色だった。


 「これがあれば……誰にも見られない。何をしても、誰にも知られない。まこちゃん、そんな世界を想像したことある?」


 「ない。そんなの、寂しいだけだよ」


 彼の口角が、ゆっくりと上がった。

 けれど、それは笑顔じゃなかった。


 「寂しい? 違うよ。解放だ。見られることがどれだけ人を縛ってるか、わかる?」


 彼の言葉が鋭く刺さる。

 “見られる”——それは、確かに重い。

 けれど、見られなければ、きっと人は壊れてしまう。

 誰かが“いる”から、自分を形にできるのに。


 「しゅー、それ……外して。お願い」


 彼は指輪に触れた。

 黒い石が脈打つ。

 空気が歪んだ。

 視界が、ゆっくりと薄くなっていく。


 「——っ! しゅー!?」


 彼が消えた。

 そこにいたはずの空間が、音も影も飲み込んで、完全に“空”になった。

 足音も、息も、存在の気配すらない。


 でも私は、確かに感じた。

 “そこにいる”ことを。

 心臓が、共鳴している。

 見えなくても、わかる。

 彼はまだ、ここにいる。


 私は、ゆっくり目を閉じた。


 「しゅー。私はね、見たいよ。どんな姿でもいい。隠れたままなんて、やだよ」


 返事はなかった。

 けれど、空気が微かに動いた。

 ——まるで、誰かが泣いた後のように。



---


 指輪が、机の上に転がっていた。

 黒い光はもう沈んでいた。

 しゅーの姿も、ない。


 私はそれを両手で包んだ。

 冷たいはずの金属が、妙に温かい。

 まるで、彼の体温がまだ残っているようだった。


 「……しゅー、見える場所に戻ってきて」


 雨の音が、少し強くなった。

 まるで世界が、何かを洗い流しているように。




---


第三章 ——透明の檻



 音が、なくなった。

 色も、においも、すべてが遠のいていく。


 ——また、世界の外に出た。


 峻は、もう何度目かもわからない“無音の空間”を歩いていた。

 この場所では風すら吹かない。

 街の光は止まり、時間の針は凍る。

 人々の瞳は、まるで死んだ魚のように動かず、息をしていても“生きていない”。


 最初のうちは、それを“自由”と呼んだ。

 何をしても、誰にも知られない。

 責める者も、失望する者もいない。

 この静けさこそが救いだと、信じていた。


 けれど今は違う。


 どれだけ歩いても、音がない世界では、自分の存在が証明できない。

 声を出しても、自分の耳に届かない。

 叩いても、痛みが遅れてやってくる。


 “存在している”という実感が、音のない水底に沈んでいくようだった。


 「……俺は、いるのか?」


 声が、響かない。

 代わりに、胸の中の静寂が答える。


 ——君は、見られない。


 ——だから、存在しない。



---


 峻は街を彷徨った。

 人々の間を抜け、通りを渡り、電車の中に乗り込む。

 誰も、彼を見ない。

 誰も、彼を避けない。

 人混みの中でぶつかっても、反応すらない。


 それなのに、不意に心臓が痛んだ。

 通りすがりの少女が、笑っていた。

 彼女の笑顔が、真に似ていたから。


 思わず手を伸ばした。

 指先が触れた――が、すり抜けた。


 まるで、夢の中で誰かを抱きしめようとした時のように。


 「まこちゃん……」


 名を呼ぶ。

 だが声が、存在しない。

 彼は気づいた。

 この世界では、もう言葉すら“音”として存在できないのだ。



---


 それでも彼は、部屋に戻った。

 真の部屋へ。

 窓の隙間から忍び込み、机の上を見た。

 そこには、自分が落とした“指輪の箱”が置かれていた。

 中は空。

 指輪は——彼の指に、まだあった。


 真は机に突っ伏して眠っている。

 目の下に濃い隈。

 彼女の髪に月光が落ち、柔らかく輝いていた。

 “見られない”この世界で、唯一、峻の心を掴んで離さない存在。


 そっと、彼女の髪に触れようとした。

 触れられない。

 空気のように、抜けていく。

 指先が、痛いほど虚しい。


 「……俺、消えたんだな」


 やっと、わかった。

 “見えない”ということは、“触れられない”ということ。

 “見られない”ということは、“記憶にも残らない”ということ。


 彼はゆっくりと指輪を見た。

 黒い宝石が、静かに脈打つ。

 それはまるで、彼の心臓を真似るように。


 ——このまま消えるのも、楽かもしれない。


 世界に必要とされず、誰にも見られず、声も届かない。

 それはきっと、“存在の終わり”だ。


 だが。


 真の唇が、寝言のように動いた。


 「……しゅー、見える場所に……戻ってきて」


 その一言が、音を持って、彼の胸に届いた。


 ——聞こえた。


 たった一瞬、ほんの一秒。

 世界が“戻った”気がした。


 峻は息を吸い、震える指で指輪を外した。

 眩しいほどの音が押し寄せた。

 風、雨、街の遠い喧噪、そして真の寝息。

 世界が一斉に蘇る。


 指輪が床に落ち、鈍い音を立てた。

 峻はそのまま膝をつき、静かに笑った。


 「……ああ、やっぱり、見られるって……温かいんだな」



---


 翌朝。

 真が目を覚ますと、机の上に小さなメモがあった。


 > “見られることは、罰じゃなかった。

 >  俺が俺でいられる証拠だった。

 >  ありがとう、まこちゃん。

 >  ——峻”


 そして、指輪は消えていた。

 ただ、窓の外では朝日が差し込み、光が一筋、机を照らしていた。


 まこは微笑んだ。

 その光の中に、確かに“誰か”の気配があった。

 もう見えなくても、感じられる。

 それで、十分だった。




---


第四章 ——光の証明



 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。

 机の上には、昨日のままのメモがある。


 ——“見られることは、罰じゃなかった。”


 文字を指でなぞると、まだ少し温もりが残っていた。

 涙が零れそうになる。

 それでも、泣かない。

 しゅーが最後まで「見て」ほしかったものは、涙じゃない。

 “彼の存在を覚えている瞳”だ。


 私はゆっくりと立ち上がり、机の引き出しを開けた。

 そこには、昨夜消えたはずの指輪があった。

 黒い石が、今はほんのりと灰色に沈んでいる。

 まるで、呼吸を止めた心臓のように静かだ。


 「……あなた、まだここにいるんだね」


 手に取る。

 金属は冷たく、でも確かに“存在”していた。

 見えなくなっても、存在は消えない。

 それを確かめるように、私は指輪を見つめた。



---


 その夜、私は屋上にいた。

 しゅーがよく座っていた場所。

 街の光が滲んで、夜風が頬を撫でる。


 指輪を掌の上で転がす。

 ——もしこれを嵌めれば、きっと峻と同じ世界に行ける。

 誰にも見られない場所。

 誰にも触れられない世界。


 でも、それは“彼の孤独”だった。

 見られないことで、彼は消えてしまった。

 なら、私は違う選択をする。


 「しゅー、私ね……見えるって、怖いことだよ」


 風に向かって呟く。


 「でも、それでも見られる側でいたい。だって、あなたが見てくれた世界は、ちゃんと暖かかったから」


 指輪を空へ掲げた。

 月光が銀の輪を照らす。

 黒い石の奥に、一瞬だけ光が宿った気がした。

 その光は、まるで誰かの瞳のように優しく瞬く。


 私は微笑んで、指輪をそっと握りしめた。

 そして、風に放った。

 銀色の弧を描きながら、それは夜の街へ落ちていった。


 ——“見られる”ことを選んだ。

 “見える”世界で、生きることを選んだ。



---


 次の朝。

 校庭のベンチで、スミスが子どもたちを遊ばせながら言った。


 「なあ皆川、顔が穏やかだな。なんか吹っ切れたみたいだな」


 私は笑って頷いた。


 「うん。誰かがね、見える世界を教えてくれたの」


 遠く、青空の向こう。

 光の中で、ふと風が髪を撫でた。

 その感触に、懐かしい声が重なる。


 ——“見られるって、温かいな。”


 目を閉じる。

 耳の奥で、確かに彼が笑った気がした。

 きっと、あの光の向こうで見ている。

 もう、隠れることなく。

 もう、孤独ではなく。



---


 見えることは、痛みを伴う。

 見られることは、恐れを伴う。

 けれど——それこそが、生きている証だった。


 “見えない自由”よりも、“見える勇気”を。


 彼が残した言葉が、私の胸の中で、静かに光り続けている。



---


【終】


見えること、これを突き詰めた感じですね。

いい感じです。

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