ハルト・カノニア 5
いつの間にか気にならなくなっていたが、今でも山の向こうから人や兵器の轟音が響いている。
この場所はあそこから大して離れていない。何なら普通に戦場が見える。
それなのにどうしてハルトやベッケ、そして私はこんなにも落ち着いているのだろう。
新しく補充された水を飲みながら、背中から聞こえてくる音に体と耳を傾ける。
「心配しなくても、あいつらはここには来ないぞ」
ハルトの声で顔を元に戻すと、マグカップを傾けながら喉を鳴らす姿がある。
「そういえば、ハルトさんたちのその服って、今向こうで戦っている人たちとは違いますよね」
「ほぉ。見たんだな。で、どんな感じだった」
「どんなと言われても⋯⋯ただ殺しあってるとしか」
「ふむ⋯⋯まあそりゃそうか」
彼は少しがっかりしたかのように、マグカップを地面に置いた。
私から戦場の様子でも聞き出したかったのか。いや、それならばただテントを出るだけで十分だ。
彼はもしかすると、私がどれだけの時間戦場を眺めていたのかを知り、私の性格を把握しようとしたのかもしれない。
例えばだけど、私の友達があの光景をじっくり眺めでもしていたら、以降距離を置くかもしれない。
だが軍人の彼そんなこと気にするのだろうか。だいたい、こうして戦争が起きている国なら、私のような民間の女子がその光景になれていたとしても不思議ではない。
「すまない、今のは忘れてくれ」
もう一度水を飲みながら彼は言う。やはりよほど喉が渇いていたのだろう。
「おそらくだが、夕方には衛生兵がここに到着する」
急に彼は声のトーンを落とした。
「衛生兵のチェックを受けたら明日の朝には下山できる」
「下山⋯⋯」
彼は私を安心させようとして言ってくれているのかもしれないが、この山を下りたところで、私はどこに行けばいいのだろうか。
彼の隣のベッケも、「よかったね」とにこやかに言うが、あまりいいことではないのだ。ここにとどまり、巻き込まれて死ぬか、下山してどこかで野垂れ死ぬかの二択でしかない。
「それでだ、彩葉」
「はい?」
ハルトは地面に手をつくと、市とさし指でトントンと何かを刻み始めた。
「下山したらおそらくだが一時的に廠舎で保護される。だから⋯⋯」
言いかけて口を閉じると、ハルトはまっすぐ私の目を見据えた。
彼の頬が若干の赤みを帯び、彼の瞳に移る私は、緊張で口を半開きにしていた。
「俺が返ってくるまで廠舎で待っていてくれ」
「そ、それはつまり⋯⋯」
彼は無言でうなずいた。
「しばらくは俺がお前の生活を保障してやる。もちろん、お前が嫌じゃないならな」
どうしてあなたは私にそこまでしてくれるのですか。
それを聞くのは野暮だとはわかっているが、どうしても気になってしまう。
だがきっとその答えはとても単純で明白なのだ。
要するに、この人は優しいのだ。
自分が脱水症状に陥っているのにそれを隠して私に水を与えようとしたり、私が失礼な物言いをしても腹を立てず、むしろ反れでも私を気遣おうとする、この人はそういう人なのだ。
「では、お願いします⋯⋯」
私としては断る理由もないので、ありがたく頭を下げる。
「お、よかったなカノ。ついにお前にも春が来たね」
隣のベッケがにやにやとしながら下からハルトの顔を覗くと、頭に手が飛んだ。
「いたあ! ひどいじゃないか」
思いのほかハルトの手の勢いが強く、それも手の甲の関節がぶつけられたせいか、ベッケは頭をなでながら片目を閉じた。
「うるさい。よく営なことは言わんでいい。ていうか食べ終わったなら早く行って作業してこい。」
「へいへい、わかってますよ。ああいいなあ。カノはその子の護衛で働かなくていいんだから」
ベッケはこれ見よがしに頭を撫でたまま不平不満を吐きながら立ち上がった。
座っているときから思っていたが、随分と小柄で、身長は私より少し高いくらいでだろう。
「じゃあね彩葉ちゃん。また会えるといいね」
そう言い残すと、ベッケは足早にテントから出て行った。
そうだ。ここは戦場で、彼らは戦いに来ているのだ。
またすぐに再会できるなんて保証はない。
それは私を保護しようとしてくれているハルトも同じことで、待っていても迎えが来ないかもしれないのだ。
「あ、あの⋯⋯ハルトさん」
「どうした」
ベッケの背中を見送った彼が首を傾げる。
言う必要のない言葉かもしれないし、言わないほうがいい言葉かもしれない。
だが、この言葉が口から出るのを、私の意思は止めることができない。いや、自己満足とは理解しながらも、止める気がなかった。
「死なないでくださいね。私、ハルトさんが迎えに来てくれるまでずっと待ってますから。たとえ追い出されても、ずっと近くで待ってます」
相手のことを考えず話すというのは、時として後悔も生むが、この場合は胸のつっかえが取れたかのように、解放された気分になっていた。
死なないで。この言葉を彼がどう受け止めたのか。
「ああ、安心して待ってろ。彩葉」
少なくとも、彼は優しく微笑みかけてくれたから、きっと嫌な思いはしていないはずだ。
____
その後、日が暮れるまで彼は私に寄り添っていてくれた。
時々だれかやってきては彼をからかうようなことを言ったりもしていたが、その雰囲気はとても和やかで、とてもここが戦場で、この人たちが戦うために来ているとは思えないほど、心地のいい空間と人たちが肌にまとわりついていた。
それは、学校の教室の雰囲気に近い。自分のそばには仲のいい友人がいて、周りにはクラスメイト達。
時々話す子や話したことのない子。あまり自分から近づきたいとは思わない子など、様々な人たちが1つの部屋に集められた、なんとも変わった空間。
落ち着いて胸の中が満たされるのは教室を思い出したからだろうか。
今まで一度たりとも教室の中でこんなノスタルジックに感傷に浸ることなんてなかったのに、その日常がもう二度と戻らず、それによく似た空間がここにあると思うと、どうもしんみりとしてしまう。
「そろそろ来てもよさそうだな」
隣に座るハルトが天幕の外を見ながらつぶやいた。
たしかに外を見てみれば空が暗くなり始め、照明用のかがり火まで焚かれている。
「そうですね」
外の作業はひと段落したのか、騒がしい物音が止み、戦場のほうもまばらに銃撃の音が聞こえる程度になっている。
「あ、来たな」
ハルトが外を見ながら言うと、数秒後に三人天幕の中に入ってきた。
姿が見える前に気づいたのは、軍人としてのスキルなのだろうか。
「おや、どうやら看護婦ではなくて軍医殿がいらっしゃったようだ」
ハルトはそう言いながら立ち上がると、入ってきた三人に向かって敬礼をした。
そういえば、彼はずっと帽子をかぶっていないが、いったいどこへやったのだろう。
何かの漫画で、自衛隊は帽子を脱ぎながら敬礼はしないという情報を見たが、この軍ではルールが違うのだろう。
「どうもお待ちしておりました。ずいぶんお足元が悪かったようで」
なんだか含みのある嫌味な言い方をすると、軍医と思われる真ん中の男性が丸メガネの位置を正しながら顎を引いた。
「まったく、嫌味ですかハルト上等兵」
「いえいえ、ただ心配していただけですよ。何かあったのではと」
皮肉めいた口ぶりの彼に、若い軍医はため息を漏らした。
ハルトより年上ではありそうだが、まだ二十代前半か中盤の若い人のように思える。
軍医は帽子のつばに手をかけると、目線を私に向けた。
「あなたが保護された彩葉さんですね。どうぞこちらに」
やはり彩葉が苗字だと思われているのだろうか。軍医が軽く頭を下げる。
私がいちどハルトに目線を向けると、彼は私を見下ろしながら背中を押した。
「さあ彩葉、さっさと終わらせて来るんだ」
押されて前のめりになりながら振り返ると、彼は暖かな顔色で微笑んでいた。
私は黙って頷き、軍医のもとへ歩いた。
先ほどから軍医の後ろで銃を持つ二人の兵隊が気になってしまうが、あまり見ないようにしよう。
「では、お、お願いします」
「そ、そんなに硬くならなくて結構ですから。ちょっと調べていろいろと聞くだけです」
下ろした両手を重ねながらお辞儀すると、軍医はおろおろとしながら言った。
「さあではこちらに」
そのまま軍医と兵隊が天幕の外へ出て行ったので後に続く。
最後にもう一度振り返ると、ハルト小さく手を振っていた。