ハルト・カノニア 4
「ところでハルトさん、錯乱状態とはどういうことですか」
「えっ」
私が目を細めて彼の双眸に焦点を合わせると、困ったように瞼をピクピクとさせた。
「私別におかしな所ありましたか?」
「そりゃ自分がどこから来たのかも分からない。自分は死んだと思ってる。これは錯乱状態と言っても差し支えないだろう」
「⋯⋯まあたしかに。でも私は事実を言ってるつもりなんですけどね」
「なら教えといてやろう。人間死んだら目覚めることも新しい場所にいるなんてこともありえないんだ」
その一言には、彼の軍人としての経験や感覚が含まれていような緊張感があった。
私の暮らしていた日本で、どこの誰かが同じことを言っても、大して印象には残らないだろう。
──そんなことは言われなくてもわかってる。
それだけの感想を持ち、あとは忘れてしまうことだろうきっと。
だが彼の言葉は何度も頭の中で反芻された。
まるで、自分が異世界に転生したと思っている私に現実を植え付けようとするかの如く。
だがこれが夢でないことは、確証はないが断言出来る。
根拠を聞かれても言葉が詰まるが、とにかく、私の語感の全てがこれを現実だと認識しているのだ。
「まあいい、とりあえずテントに行こう。彩葉に与えられる食料はしれているが、腹の足しにはなるはずだ」
ハルトがテントの方を向いたので、私もそちらに目を向けると、深緑色の天幕をいくつかの支柱に張っただけの、簡素なテントがあった。
この位置からは入口が丸見えになっていて、中にい何人かが地べたに座って食事を取っている。
ハルトは直接テントには向かわず、1度銃剣を重ねられている所に置きに行ってから、天幕の中に入った。
私も恐る恐る彼の背中に隠れながら入ると、一気に視線が集まった。
「あ、カノが女連れてる」
「ほんとだ。またかこいつは」
「しかも結構可愛いし。俺黒髪の女の子好き」
「お前の好みは誰も興味ねえよ⋯⋯」
皆が思い思いの言葉を発する中、私はなんだか恥ずかしくなってハルトの背中にさらに身を寄せて姿を隠した。
ハルトの肩に手を置くと、彼は咳払いをして口を開いた。
「静かにしろ馬鹿どもが⋯⋯民間人怯えさせてどうするんだ。それとおいお前、またかとか言ってるけど初めてだからなこれ」
いやそこは無視でいいじゃないですかと思いながらも、私を守ってくれようとする彼に心の中で礼を伝える。
「はぁ、カノはお堅いねー」
「まあだから士官学校の成績も良かったんだよな。真面目だから。俺達不真面目軍団とは違うんだよ色々と」
「いやお前と一緒にするなよ馬鹿が!」
今度は仲間内でわちゃわちゃと騒ぎ出したかと思うと、背中からでもハルトが怒っているのが感じとれた。
「お前ら食ったならさっさといけよ上官に怒られても知らないからな」
ハルトが声を張り上げると、皆は渋々立ち上がり、水が入っていたであろう鉄か銀のマグカップを持ってテントから退出して行った。
だがひとりだけ、先程からずっと硬そうなパンを齧っている兵隊だけ、テントの隅っこに残っていた。
「おいおい、まだ食ってるのかベッケ」
ハルトはその兵隊に話しかけると、に木の机に無造作に置かれたパンとマグカップを取り、水瓶の中の水を鉄の柄杓ですくってカップに注いだ。
だが、水はもうほとんど残っていなかったのか、カップの半分ほどにまで注ぐと、ハルトは水瓶を傾けながらなんとか残りの水分を取ろうとしていた。
だがそれも諦めて柄杓を元の場所に戻すと、マグカップとパンを私に差し出してきた。
「すまん。水がこれだけしかない。まあ後で補充されるだろうから今はそれで我慢してくれ」
残った水を全て私に渡そうとしているが、それでは彼の分がない。
「それならハルトさんが先に飲んでください。私は喉乾いてないので」
「何かあったら次に水が入るのは数時間後になるかもしれないんだぞ。心配するな。ちゃんと煮沸してある」
「いや、そこは別に気にしてませんけど。手に入るか不安なら尚更です」
私はパンだけを受け取り、カップを持つ彼の手を押し戻し、彼の耳元に顔を近づけた。
「さっき、中々強烈な匂いがしてましたよ。ハルトさん⋯⋯軽い脱水症状起こしてますよね」
一応、残っているベッケという人に聞かれないように小声で言うと、唇を噛み締めた。
「もう少し遠くでしたらよかったな」
「だとしてもあれだけ臭ってれば分かりますよ。さあ、それはハルトさんの分です」
さらに彼の腹部にカップを優しく押し込め、1歩後ずさった。
「おーい。カノも君も、こっちおいでよ」
残ったベッケという人が、こっちにおいでと手招きしてくる。
まだ幼さが残ったあどけない顔をしていて、実年齢は上だと推測されるが、歳下にしか見えない。
私より歳下というと、もはや中学生なのだが、彼の艶やかな七三分けの茶髪と、オレンジがかった無邪気な瞳は、本当に彼を子供だと認識させる。
手招きされるまま、彼の斜め前くらいに座ると、その幼い顔でにっこりと笑った。
「君名前は? 出身はどこ?」
「小鳥遊彩葉、出身は⋯⋯日本という国です」
「へえ。初めて聞く名前だ。遠いの?」
「多分⋯⋯かなり遠いんじゃないかと思います⋯⋯どうやってきたのか覚えてないのですが」
「うーん⋯⋯記憶喪失ってやつかな? 大変だね」
まだ声変わりしていないのか、それともしたのか定かではないが、中性的でなんだか懐かしい気分にさせられる。
無邪気に何度も頷くベッケから目を離し、ハルトを確認すると、彼は水を勢いよく飲み干し、パンだけを持ってこちらへやってきた。
「ところで彩葉ちゃん、歳はいくつ?」
ハルトがベッケの隣に座りながらパンを齧るのを見てから質問に答える。
「16です⋯⋯」
ところで、別に私は「女性に年齢を聞くなんて!」 などと御局様みたいなことを言うつもりは無いのだが、なぜ彼らはいきなり人を名前呼び出来るのだろう。
いや、もしかすると、ハルトが苗字であるように、私も小鳥遊が下の名前だと思われているのかもしれない。
別に気にすることでもないのだが、中学でも高校でも男子から下の名前で呼ばれることがなかったので、少しビックリする。
しかもこの幼顔の彼に至ってはちゃん付けなのだから。
「え⋯⋯うそでしょ? 16!? ほんとに!?」
ベッケという人がかなり驚いているが、私は老けているとでも言いたいのだろうか」
「うそぉ⋯⋯てっきり18くらいだと思ってた。かなり大人びているから」
どうやら褒められているが、それはきっと大人びているのではなく、ただ緊張して口数が少なく表情が硬いだけだ。
「お前から見たら誰でも大人びて見えるだろ⋯⋯」
横からハルトがポツリと呟く。
「おいカノー。失礼だな君は。俺は君より歳上だぞ?」
「えっ⋯⋯」
中々に驚きの事実に、つい自然と声が漏れでる。
とっさに俯いて何事もないように装うが、前に座るふたりはしっかりと私を見ている。
「あのな彩葉。こいつが歳上っていうのはただ誕生日が俺より早いだけの話で。ふたりとも今年21になるんだ」
それも衝撃的だが、今度は口から言葉がまろび出る前に推し留められた。
ハルトの年齢に関してはさして普通のように思うが、彼はせいぜいが17、8くらいにしか思えない。
「あ、彩葉ちゃん。俺の事歳下だと思ってたね?」
「えっ⋯⋯いえそんな」
ジト目になりながら、苦笑いされると、僅かに気圧されてしまった。
「ああ、気にしなくていいよ。いつもの事だしね。こんな見た目だから未だに酒買いに行くとお使いと勘違いされるんだよね。ははは」
この世界ではお使いで酒が買えるのかと新事実を得ながら、反応に困り私は硬く味のないパンを齧った。