ハルト・カノニア 3
「彩葉ね。変わった名前だな。まあ異国のものならそれはそうか」
確かめるように何度もうなずきながら、兵隊⋯⋯ハルトは納得したのか、スッキリとした顔になった。
「ハルトというのは下の名前ですか」
国や地域によってはファーストネームが先に来ることもあるので、念のため確かめる。
「ああ、ハルトは苗字だ。カノニアが名前だよ。まあ、好きなように呼んでくれたらいい」
「ではハルトさんで」
名を呼ぶと、彼はどこか寂しそうに微笑んだ。
「では行こうか彩葉。案内しよう」
「はい」
ハルトに促されるまま彼の背中を追いかける。何かほんの少しの違和感が私の胸を引っかかっているが、その正体が何なのかよくわからない。
さすが軍人だけあって、滑りやすい山の斜面を難なく大股で駆け上がっていくが、ローファーを履いているひ弱な私のことを見てほしい。
落ち葉から踏み出す足がいちいち滑るし、なにより歩行速度に大きな差がある。
「あ、あの、ハルトさん」
たかが数十秒歩いただけで、息が上がってしまった。考えてみれば、中学の体育でマラソンが終わって以来、ろくに運動していなかったのだ。
「ん、どうした」
彼は不思議そうに振り返るが、たぶん私がなぜ呼び止めたかなんて理解できないだろう。これだから体育会系は嫌なのだ。
「いえ、少しペースが速いなと」
「あー」
彼は目線を私の足元に向け、開いていた口を閉じた。
「確かにその靴じゃ山はきつそうだな。すまない」
「いえ、わかっていただけたならそれで」
もっとも、彼のようにひもで結んだ黒いブーツを履いていたとしても、単純にペースについていけないのだが。
だが山の頂上はあと少しである。山に集まった兵隊たちが何やらあわただしく動き回っているらしく、人影や音が確認できる。
その中で、ふたりの兵隊が私たちを静かに見下ろしていて、ハルトと違ってきちんと帽子をかぶり、外套に袖を通している。
兵隊のひとりが、銃剣を両手で持ったまま口を開いた。
「おーい、その子は遭難者か」
どうやら、私の存在が気になっているらしい。
「ああそうだよ。俺が保護した」
その場から声を張り上げてハルトが返事をすると、叫んだ兵隊は隣の人に何か伝え、その場から立ち去って行った。
上に行けば色々と詰問でもされるのかと思うと、愛がすくむ。
「大丈夫だよ。多分食料と水を用意しに行ったんだ。民間人を保護したらそうするのが決まりだからな」
私の内心を察したのか、彼がやさしく包み込むような声色で語りかけてきた。
「何か尋問されるわけではないのですか」
「んー例えば手荷物から妙なものが見つかったりしたらそれもあるだろうけど、まあ一応脱がされる覚悟はしておいたほうがいい」
「え⋯⋯」
簡単なことのように言うが、男だらけの場所で身ぐるみを剥がされるということがどれほど人の自尊心を奪う行為なのか、彼はわかっているのだろうか。
もっとも、彼自身の感覚に関係なく、軍の規則で決まっているのならそれを事前に通告してくれているだけありがたいことなのだが。
それに、彼らからしたら実際私など得体のしれない存在なのだから疑うのは当たり前だ。
「といってもあれだ。脱がされるのは看護婦の前での話だ」
「あ⋯⋯それを先に言ってくださいよ。一安心です」
「言わなくてもわかると思って」
「わかりませにんよ⋯⋯てっきりハルトさんたちのまえで辱められるのかと」
「そんなことしたら俺たちが軍法違反で殺されるからな。人前ではありえない」
「⋯⋯では殺されないのならするのですか」
つい思ったことをそのまま口にしてしまい、手遅れだとわかりながらも後悔した。
今の発言はただの揚げ足取りであり、彼に対する侮辱以外の何物でもない。
「す、すみません。つい」
とっさに謝るが、彼の顔には陰りが見え、その双眸を鋭くしながら何の変哲もない1本の木を睨みつけている。
「あ、あの、ハルトさん」
恐る恐る、振り払われないかと緊張しながら、彼の肩に手をのせる。
「ん?」
私に向けられた顔は、先ほどまでの彼と同じ、優しくどこか気の抜けた面持ちだった。
「すみません⋯⋯私失礼なことを」
申し訳なさで声が震える。
「いや、気にすることはない。年頃の女子が底を気にするのはいたって自然なことだから。それに、実際極限状態の人間は何するかわからないし。ただ⋯⋯」
言いかけたところで、俯いたかと思いきや顔を上げ、どこかはるか遠くを見つめていた。
「俺は絶対にそんなことしないって自負があるから、そこだけは信じてほしい」
言い終えるころには、彼と目が合い、目と口の両方で笑いかけていた。
「さあ行こう。あんまり待たせてもみんなに悪いし」
話を終わらせるように、彼はまた足を進めだした。
今度は、先ほどの約半分のペースになっていて、私の息もほとんど上がらなくなっていた。
山頂は平らで木もない見晴らしのいい開けた場所になっていて、数十人の兵隊が木箱や布袋を荷車や手で運びながら集めたり、天幕を張ったりしている。
ここで数十人がねとまりするのだろうか。今は安全らしく、銃剣も一か所に向きをそろえて置かれている。
ほとんどの人は、作業や周りに夢中で私たちになど目もくれないが、先ほどこちらも見ていた二人と、初めて見るひとりだけが迫ってきた。
「ずいぶん長いトイレだったな。それも土産付きときた。どこで発見した」
声の雰囲気からして、先ほど叫んでいた人とは違う。
やや強面のその兵隊さんは生えかけのチクチクとしそうな顎髭をなでながらハルトの前に立った。
「普通に茂みを探してたらそこで。しかしどうやら彼女、錯乱状態らしくわけのわからないことを言うんです」
「はあ、目立った外傷はなさそうだが」
兵隊は上から下まで私の体を観察すると首をひねった。
「お嬢さん、名前と出身地は?」
「小鳥遊彩葉⋯⋯日本生まれです」
「はあ⋯⋯初めて聞く国だ。どのあたりにあるかは説明できるか」
「すみません⋯⋯まずここがどこかわからないので」
聞かれたことに淡々と答えると、兵隊は首をひねったままジロりと大翔をにらんだ。
「ハルト上等兵。彼女の受け答えははっきりと明確なものだが、いったいこれのどこが錯乱状態なのかな」
訝しむように迫られた彼は、顔を引きつらせながら目をそらした。
「えっと、確かに最初は受け答えに異常な点が見られたんです。只今は落ち着いてるようですね。私と共にいたからでしょうか」
冗談交じりに笑い声を漏らすと、兵隊はあきれたように鼻息を漏らし、帽子のつばをつかんだ。
「まったく、相変わらずの調子だな君は。まあいい。あっちのテントに水と食料があるから彼女を連れていけ。衛生兵が到着したら連れて行くんだぞ」
「はっ」
短く簡潔に返事をすると、兵隊はその場から立ち去って行った。
もっと何か聞かれたりするものと思っていたが、どうやら杞憂だったようだ。