ハルト・カノニア
『うわああああああっ』
山の麓から聞こえる、大勢の男達の悲鳴や叫び声。
それに加えて、耳を劈くような、銃撃の音と爆発音。
小さく見える人達がたばたと倒れていく。その屍を超え、ぶつかり合うふたつの集団はさらに血を流す。
戦争だ。目の前で行われているのは、映画やドラマのワンシーンなどでは無い。
本当の、人と人とが殺し合う戦争をしている。
──あの世にも戦争があるんだ。
なんて考えるが、これが現実逃避でしかないことくらい、私でもわかる。
ここは確かに地獄のようだが、あの世の地獄ではない。
ではどこなのか、それを調べようにも、まずはこの場所を離れなければならない。
幸い、ふたつの軍がぶつかり合っている場所は遠い。
ふたつの軍は、中世ヨーロッパに見られるような、ジャケットのような軍服を着て、先端に刃を付けた火縄銃のようなものを持って突撃している。
ジャケットの色は、深緑と黒に別れて、深緑の方は赤いタスキをかけ、黒い方は遠くからでも見えるくらい、輝きのある銀色のボタンがついていた。
とめどなく鉛玉が発射され、人がドミノのように容易く倒れる様は、私の感覚を鈍らせる。
少なくとも、車に飛ばされて地球上の紛争地帯に来てしまった⋯⋯なんてギャグアニメにありそうな事は起きていない。
現代にしては、眼前で行われている戦争は古典的すぎる。
ではやはり、ここは死後の世界で、愚かな人間は死んでからも戦争に明け暮れているのだろうか。
たしかに、人類は農耕を行うようになり、土地という物を手にしてから、今に続くまでずっとどこかで戦い続けている。
私達が享受していた平和など、一時的な、刹那的なものでしかなく、恒久に保証されている訳では無い。
もしかしたら、口で平和を謳うというのは仮初の、上っ面の正義でしかなくて、人間の本質は闘争にあるのかもしれない。
「いやそんなこと考えてる場合じゃないっ」
死を意識して達観したのか、急激に人として成熟したのか知らないが、悠長に眺めながら思想している場合では無い。
少し離れているとはいえ、戦争はすぐ見えるところで行われているのだ。直ぐにこの場から逃げなければならない。
「でも⋯⋯どこに」
逃げると言っても、どこに行けば巻き込まれずに済むのだろうか。
それ以上に、どこに行けば私の魂は救われるのだろうか。
死んだ人間が空腹になるのかは分からないが、このまま逃げてもどこかで餓死するのが目に見えている。
だからといって、ここから動かなければ何もならない。
ここで餓死するか、ここにまで銃弾が飛んできて巻き込まれるだけだ。
残念なことに、痛覚はしっかりと残っている。
腕を抓ると、整然と同じように痛みを覚えた。
「はやくっ、どこかにっ」
当たりをキョロキョロと見回しても、どこに行けばいいのか浮かんでこない。
この山を超えたら、そこには何があるのだろうか。
戦争に巻き込まれて荒れた町でもあるのだろうか。
それとも山を超えても山が続き、人のいる地なんてはるか遠くにあるのだろうか。
もしかしたら、山を超えた先には、私の知る地獄があるかもしれない。
地獄から逃げれば地獄、そんな負のサプライズが用意されているなら、私は謹んで自分の罪を懺悔しよう。
不意に後ろから足音が聞こえた。
獣にしては音が大きく、四足どころかもっと多くの足音が重なっている。
私の後ろ、山の向こう側から誰か近づいているのだろうか。
山頂をよく見てみると、整備されているのか、木が無く、開けた場所になっている。
私の予想だと、どちらかの軍がこの山を取って大砲でも撃つか、戦況を見守る陣地にでもするつもりなのだろう。
なら私のすることはひとつ。後々のことなど考えずに逃走することだ。
この山に登ろうとしている1団は、ちょうど私の向かい側から来ているはずだ。
今も銃声が響くのに足音が聞こえるのは、死を経験したことにより五感が研ぎ澄まされているからだろうか。
とにかく、その集団と鉢合わせしたら、何をされるか分からない。
私は見えない存在から逃げるように、山の側面から向こう側を目指し歩き出した。
山頂に1団が到着するのと入れ替わるように、向こう側に行き山を下りる。
それ以外に逃げ道はないだろう。なにより、早く戦場が見えるこの場所から去りたい。
足音から1団の位置を探りながら、恐る恐る歩く。
ローファーが枝や葉を踏む音すら、神経を刺激し、鼓動が早くなる。
なんで死んだのに心臓が動いてるのか、ここは死後の世界では無いのだろうか。
もしかしたら、今流行りの異世界転生なのかもしれない。
ならなぜこんなハードモード確定の世界に飛ばされたのか。やはり日頃の行いのせいなのか。
だとしたらやはりあらゆる事情理不尽すぎる。
「誰だっ」
無駄な事に思考が奪われていると、最悪の事態が起きた。
見張りなのか、ただ単独行動していたのか分からないが、ひとりの兵士と鉢合わせしてしまった。
兵士は直接登らず、私と同じ側面を進んだのだろう。それにしても運が悪い。
車に轢かれて死ぬという人生最大の不幸の後にこれは、最早呪われてると言ってもいいだろう。
なんなら私が呪いになってあの運転手を縊り殺してやりたいのに。
今になって、あの事故への怒りが湧き上がる。
人は物事に達観したつもりになっても、全てを受け入れることなんてできないのだろう。
それが出来るのは、まさに本当の意味で悟りを開いた者だけなのだきっと。
「おい、ここでなにをしている。まさか言葉が通じないのか」
自分の世界に入っていると、兵隊が銃口と銃に付属している剣の切っ先を向けてきた。
何も持っていない無防備な女子高生に対して警戒しすぎな気もするが、戦地なら仕方ないのだろう。
だが、形は警戒しているようだが、兵隊の顔は私を敵視しているわけでもなさそうだ。
兵隊の切れ長で凛とした両目は、私を見ながら、何度も目を左右に散らし、周辺を確認している。
まだ随分と若そうで、多分私とそこまで年齢は変わらないだろう。
幼い顔に似合わない口髭が、妙に愛くるしい。
ひとつ気になるとしたら、兵隊さんの衣装は、先程のどちらの軍とも違う。
深緑のジャケットにズボンなのは変わりないが、赤い襷ではなく、薄く赤い外套を羽織っている。
ファッションなのかしらないが、腕を袖に通さず、詰襟のホックだけを止めている。
まあ、軍服に外套というのは普通に格好いいのだが、妙に内股なのが気になる。
どこの昭和の不良だよと思っていると、風が吹き、外套が揺れ、兵隊の黒く短い癖毛も揺れた。
そういえば、帽子は被らないのだろうか。向こうの兵士たちは被っていたのに。
「なにもしてませんよ。気がついたらここにいたんです」
「あぁ⋯⋯よかった通じた」
兵隊が銃剣を下ろす。ほんとうに、形式上構えただけで、ほとんど警戒されていないらしい。
「しかし、気がついたらここにいたとはどういう事だ。頭でも打ったか?」
「いや、頭だけじゃなくて全身打ったはずですけど」
「なにっ!? なら軍医に見せるから一緒に来い」
目を見開きながら兵隊は言うと、冷たく硬い手で私の腕を掴んだ。
戦争中だと言うのに、見ず知らずの私を助けるとはなんともお人好しな人だ。私は敵かもしれないのに。
「いえ、大丈夫なんです。全身打ったのにピンピンしてるんです」
「お前⋯⋯色々とおかしくなってるんじゃないのか」
兵隊が怪訝そうに言う。
その通り、今の私は色々とおかしいだろう。
だが何がおかしいのかは分からない。
「まあ色々と混乱してるので、ひとつ聞いていいですか?」
「ああ、ひとつと言わずに好きなだけ聞け」
本当、この兵隊は随分と優しい。
「ここは死後の世界ですか? 貴方もどこかでお亡くなりになりましたか?」